第14話
次の日から、三人の攻勢が始まった。
最初はケンちゃん、つまり父親からの電話だった。
「どうして折り返しかけ直して来ないんだ!」
――しまった。忘れてた――
「も――申し訳ありません。ちょっと、その、二日ほど出張に出ておりまして……」
「ふざけるな。客を無視しやがって。これから乗り込んでやる。もう会社のすぐ近くまできているんだ。おまえのフロアは何階だ……名刺にあるな。七階か。待ってろ」
――やばい――
「やはりすぐに折り返し電話しておくべきだったな」
事態を察した荒川が声をかけてきた。
「うるせえ。おまえだって待つのに賛成したろうが」
原田は素早く頭の中で計算した。――二分だな。
ケンちゃんの頭に上っている血量を考えると、応接室で待たせることができるのは二分が限度だろう。その間に連絡が遅れた言い訳と、今後の見通しについての説明をでっち上げなくてはならない。
電話するのを忘れていたのは事実だ。今日はとりあえず正攻法、謝り倒しておくか。相手が相手だけにちょっときついことになるかも知れないが、小手先の言い訳をするよりそのほうがいい。ケンちゃんのようなタイプには誠意の匂いのする対応のほうが有効だ。
それにしても、よりによってあの手の客との約束を忘れるとは。何て初歩的なミスだ。原田は自分に腹を立てた。
――そうだ、こいつも――
荒川が原田のほうを見ると、すでに上着を身につけている。一緒に出るつもりらしい。こういうときは説明や説得の手間が省ける。
「着いたら受付から連絡があるだろう」
「苦情が嫌じゃないのか。つくづく変なやつだな」
「仕事だ」
一分も経たないうちに、困惑したような受付嬢から電話があった。二人がロビーに降りていくと、受付嬢たちが心配そうな視線を送ってくる。原田はちょっと気が重くなった。
――ケンちゃんの様子はふつうじゃないな――
「先方、お二人です」
「二人?」
思わず足を止めた。
――弁護士か、あるいは――
くそ、考える時間がない。行くしかない。部屋の前まで進み、ドアをノックした。
「失礼します」
ドアを明けると、くたびれた作業着のままのケンちゃんが立ち上がった。不精ひげを生やし、両眼の下に大きな隈をつくり、充血した眼で原田をにらみつけている。数日前とは別人のようにやつれている。
その隣りには、ケンちゃんとは対照的にダブルのスーツをビシッと着こなした細身の男が座っている。濃い影の入ったメガネをかけている。表情は読めないが、原田は直感した。
――こいつ、反社だ――
ドアを開けてからの一瞬でそこまでを観察して、原田は深々と頭を下げた。
「ああ、社長、まことに申し訳ありま――」
「この――」
ケンちゃんは突進してくると、荒川を押しのけ、いきなり原田の襟もとをつかんだ。原田は閉めたばかりのドアに背中を押しつけられる恰好になった。目が血走っている。
「ぐっ」
「――おい! おまえ一体どういうつもりだ。おれの電話を無視しやがって。おまえのおかげでたいへんなことになってるんだ。どうしてくれる。こうなったら保険金はどうしても払ってもらわなきゃならん。すぐにだ。ここに持って来い。一億全額今すぐだ」
ある程度は覚悟していたがここまで激しいのは想定外だ。三日前から何があった。
――完全にテンパってる――
その一方で原田はしめた、とも思った。モノでも壊してくれれば警察を呼ぶ口実になる。少なくとも二度と来るなと言う理由にはなる。ここは逆にチャンスだ。うまく倒れて、壁に頭でもぶつけるような演技をしてやる。
「うわあっ。しゃ、社長、暴力はいけません。ちょっと待ってください勘弁してください。お詫びします。ご、ご連絡をしなかったのは申し訳ありま……」
ところが、あとひと押しされたら倒れこんでやろう、と原田が身構えたところで、ケンちゃんは手を放し、憮然とした顔でソファに座り込んでしまった。ちっ。もう少しだったのに。原田は襟元を直し、息を整えるふりをした。
荒川が前に出て、ケンちゃんの正面に腰をかけた。
「今のはたいへん危険な行為です。もし彼が怪我をしていたら、傷害事件として警察へ被害届の提出、あるいはあなたを刑事告訴することも検討しなければならないところでした。あのようなことは二度となさらぬようお願いします」
「おれに指図するなっ」
ケンちゃんは唾を飛ばした。荒川にも突っかかって行きそうな勢いだ。
「前回も申し上げましたが、省吾さまのご契約について、あなたと当社との間の債権債務関係はすでに存在しません。つまり会社はあなたに対して何らの義務も負っていないのです。ですからこれ以上、この契約に関することはいっさいお話しできませんし、私どもはあなたと面談する理由がありません。ご連絡が遅くなったことはお詫びいたしますが、突然乗りこんできてこのような暴力行為に出られるのは迷惑ですし、明らかな違法行為です。当社としては、法的措置も辞さな――」
「うるさい! おまえらじゃ話にならん。上を出せ」
「受取人は奥さまと――」
「まだ言うかっ」
興奮したケンちゃんは再び立ち上がり、出されていた茶碗をつかむと、壁に向かって投げつけた。薄っぺらな陶器が、パシャンという大きな音とともに割れた。テーブルのまわりに、残っていたお茶と破片が飛び散った。
「あぶ――」
原田は体をそむけ、腕で顔を覆って破片をやり過ごした。ところが荒川はソファに座ったまま微動だにしなかった。その頬を湯のみの破片がかすめた。かすかに血が流れた。
荒川は落ち着いた動作でポケットからハンカチを取り出して拭うと、肩をいからせて立っているケンちゃんを、あの猛禽のような目でぎょろりと見上げた。
「器物損壊です。警察を呼びます」
冷えるような口調の荒川を原田が制した。
「まあまあ、ちょっと待って」
あの男は――と、原田がちらりと見ると、ソファで足を組んだままだ。動揺した様子はなく、むしろこの状況を面白がっているようにも見える。
「話し合いましょう、ね、社長。こういうことはやっぱり、じっくり話し合わないと」
原田が穏やかにそう言うと、ケンちゃんはソファに崩れ落ちた。両手のひらで顔を覆い、うう、と呻いた。
「――金が要るんだよ。手形の期日が来るんだ。今月末だ。先週までは南信金で何とかなるはずだった。あそこはつきあいも長いし、うちのことをよく分かってくれている。うちは品質は確かなんだ。業界ではみんな知っている。何しろあの松芝の品質管理部長が見学に来たくらいだからな」
ケンちゃんは、先日もさんざん聞かされた話を繰り返し、自社の応接室の色あせた額を見上げるような仕草をした。
「しかし南の担当者が先週、突然、電話で月末の融資はできないと言ってきた。うちの担当から外れたと。おれは耳を疑った。ふざけるなと怒鳴ってやった。今月末だぞ。十日しかない。半年も前から相談して、数字を整えて、あちこち頭を下げまくって、生産調整をして、古いのに一人辞めてもらったんだ。断腸の思いだぞ。必死でやったんだ。そうやってやっとまとめた融資を先週になって……。ほかにあてなどあるものか。親戚も知り合いも貸してくれる先は借りつくしている。何もかも終わりだと思った。しかし、あいつの遺品から生命保険の証券が出てきた。天はおれを見捨ててはいなかったんだ。そう信じた。これしかないんだ。工場がつぶれたらおれは……」
無骨な手のひらで、目もとをごしごしと拭いた。
原田は再度、ダブルの男の様子をうかがった。目を閉じているのか、うつむき加減でじっとしている。――読めない。
「御社の経営状態について、私どもは関知いたしません。昨今の経済環境は承知していますし、御社が苦境にあるとしたら、その点はお気の毒に思いますが、それは当該保険金のお支払いとは関係ありません。契約者である省吾さまが生前に提出された名義変更請求書は、不備もなく、まったく真正なものと認められましたので、弊社としては、それにしたがった取り扱いをせざるをえないのです」
原田はひやひやした。こいつの角ばった物言いはカチンとくる。ケンちゃんはテーブルをばん、と両手で叩いた。
「くそっ。あいつがそんな書類さえ出さなければ、一億はおれのものだったというのか」
「その通りです」
「しかし――そんなのはおかしいだろう。受取人に無断で、勝手に変更できるなんて。おれの権利はどうなる。おれのものになるはずだった金は」
「保険契約は契約者が作り上げた財産なのです。保険料、つまり掛け金を負担するのは契約者であって、受取人ではありません」
「受取人の生活はどうなる。保険金が入ると思えばあてにするに決まってるじゃないか。それを裏切るのか。無断で。しかもこんな……期日の直前に」
「元受取人への通知は、法律上も実務上も必要ではありません」
「それでも――おかしいじゃないか。どう考えても……理不尽だ」
少しの沈黙の後、ケンちゃんは絞り出すように言った。
「――仕返しか。これが父親への。おれはあいつをきびしく育てた。何しろ長男だ。跡取りのはずだった。小さい頃から勉強はできたが、それだけに理屈ばかり言う子どもに育ってしまった。父親であるおれのことを嫌っていた。性根を叩きなおしてやろうと、六年のときに剣道に通わせたが、すぐに勝手にやめてしまった。おれの言うことを聞いたのは、せいぜい中学に入る頃までだった。あの頃はまだ自慢の息子だった。しかし、高校に入った頃から、何を考えているのかわからなくなった」
ユミちゃんの証言通りだ。
「そりゃあ、成績はよかったからほめたさ。しかし本当は、そんなことでほめられたってしょうがないとおれは思っていた。工場の仕事とは関係ないからな。工場の経営はずっと順調だったわけじゃない。おれが中学を出てすぐにおやじが死んで、経理担当に金を持ち逃げされてつぶれかけた。おふくろは何度もおれを道連れにして死のうと思ったそうだ」
ケンちゃんの瞳に涙。
「そこから歯を食いしばって頑張っていたら、親父が取っていたあの特許が金になるようになった。ようやく楽になった。あの特許は、最近になって大阪の会社が別の技術を開発したせいで、ほとんど価値がなくなっちまったから売却したがな。ふん。あの女は何もわかってない。おふくろが病気で死んだ後は、おれ一人が戦って今日までやってきた会社だ。歯を食いしばって、地べたを這いつくばってここまで来たんだ。この仕事で家族を養ってきたんだ。どんな嵐のときにもだ。子どもに不自由な思いはさせないようにと大学まで出してやったのに、恩をあだで返すようなまねを……」
繰り言は続く。
「弟の大悟は人前でまともにしゃべることもできやせん。あれに比べたら省吾のほうがだいぶましだ。頭はいいんだ。くだらないことばっかりしてるのだって、時期がくればおさまるだろう、就職だっていったんは大きなところに行って修行してくるのもいい、何年かして工場を継がせて、おれもまだ元気なんだから、それからいろいろ支えてやればいい、いずれは弟に事務をやらせて、おれは引退して……そう思っていたんだ」
ケンちゃんが目をごしごしと拭いている。
「だから……あいつがアメリカなんぞへ行っちまったときは、おれは腹が立ってしょうがなかった。親として本当に情けなかった。何でこんなことになっちまったんだと……。しかし、ちゃんと帰ってきてくれた。帰ってきてからは、真面目に働いていたんだ。あっちで何があったのか知らないが、いろいろと経験して、世間というものがわかったんだろうよ。あいつは何も話そうとはしなかったが、それでもよかった。あんな病気を持って帰ってくるなんて思いもよらなかったが、それでも帰ってきたんだよ。何といっても生まれ育った自分の家だ。帰ってきたことでじゅうぶんじゃないか。あいつが工場のことを一番に思っていてくれた、何よりの証明じゃないか」
ケンちゃんの目が怪しく血走っている。ソファから腰が浮きかける。原田は身構えた。このじじい、また暴力沙汰をやらかそうってのか。今度こそ絶対に警察だ……。
ところが立ち上がったケンちゃんは、いきなり土下座した。かすれた声を上げながら、額をカーペットにこすりつけた。
「この金があれば再建できるんです。きっとあいつもわかってくれます。だから……だからどうかお願いします」
応接室の空気が凍りついた。それを破ったのは、ダブルの男の発言だった。
「なあ、あんた。荒川さんだっけ」
低くてよく通る声。ドスが利いているってやつだ。やっぱりと原田は思った。この男はいつかの中堅スーパーの社長宅にいたやつらと同じ匂いがする。
「何でしょう」
「この人に受け取りの権利がないってのは確かなのかい」
あごで指されたケンちゃんは土下座の姿勢のままだ。背中が細かく震えている。
「あなたはどなたですか」
――免許証を見せろって相手じゃねえと思うぞ――
「友人ですよ。社長の」
「お名前は」
「名前なんかどうでもいいじゃないか」
「どこの誰ともわからない方に、弊社のお客さまのプライバシーについてお話しすることはできません」
「敵みたいな言い方だな。おれだって契約者かもしれないぞ」
「確認できません。氏名と生年月日をお聞かせいただければ調べられますが」
ダブルの男はにやりとして、
「木下っていうんだ」
「ファーストネームと生年月日をいただけますか」
「いや、契約者じゃない」
「では、弊社からお話しすることはありません」
「おれは普段からいろいろと社長の相談に乗ってやってるんだ。いわばコンサルタントだな。社長がさ、悪徳保険会社にいやがらせをされて困っているっていうから、力になってやろうと思って来たんだ」
「苦情申し立ての代理ということですか。失礼ですが弁護士資格はお持ちなのでしょうか。資格のない方がなさると弁護士法違反となるおそれがあります」
「あれは報酬をもらってやっちゃいけないってことだろう。おれはボランティアだ」
「本来であればお断りするのですが、今日は社長もいらっしゃいますので、ご了承を得たものとしてお答えしましょう。確かです。青木社長はすでにこのご契約の受取人ではありません。保険金をお支払いするわけにはいきません」
「証券には受取人はこの人だと書いてある。それでもかい」
木下は懐中からコピーを取り出して、ピアニストのように細い指先でもてあそんだ。ケンちゃんの命がひらひらと振られているようだ、と原田は嫌悪を覚えた。
「ご加入時はその通りでした。しかし受取人は途中で変更することができます。その都度、証券の記載を修正することはせず、変更した旨の通知書を発行します」
「ほう。それでいいのかい」
「生命保険証券は、株式や債券などの有価証券とは違って単なる証拠証券です。証券自体に価値はなく、そういう契約が成立したことがあるという証拠にすぎません」
「この紙切れに意味はないということか」
木下は不満そうにつぶやくと、土下座したままのケンちゃんを見下ろした。
「ということは社長、あんたが嘘をついたってことだ」
ケンちゃんは、がばっと顔を上げた。汗をびっしょりとかいている。
「そ、そんなことはない。そうじゃなくて、わたしは、おかしな名義変更が無効だって言っているんだ。こいつらの言うことなんかあてにならない。でたらめだ。おれが――わたしが正当な受取人なんだ。だ、だから――」
「もういいよ、社長。帰ってゆっくり話そうや。今後のことをさ」
木下がゆらりと立ち上がり、白い指でケンちゃんの二の腕をつかんだ。
「……う」
ケンちゃんの両目が大きく見開かれていく。
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