第12話

 ユミちゃんとのアポは週明けの月曜日だった。原田は朝から気分がよくなかった。晴れて暑い陽気のせいばかりではない。この案件は、何故か関わるほどにゆううつになってくる。

「何が心配なんだ」

「貧乏ってのはな、感染するんだよ」

 誰かが金に困る。ふつうはまず家族が助けてやる。そんな借金はたいてい返済されないから、家族もその分貧乏になる。次いで親戚、友人、知人。だんだん薄まってはいくものの、身近に貧乏人がいるほど人は貧乏になりやすいといえる。

 人間関係が濃いほど感染しやすいという意味で、貧乏はスマホのアドレスブックの利用頻度の順に感染していくのだというのが原田の持論である。

「論理的とはいえない」

 と、課長代理はいつものように一刀両断にしてくれるが、青木家でいえば家族四人のうち三人までが金に困った状態だ。残る一人だけ経済状態がいいはずはないではないか。どんなに仲が悪くたって、実家や家族の番号を登録していないというのは考えづらい。

 ところが出かける前、荒川はインターネットで検索したページを印刷して持ってきた。

「へえ。有名人なのか」

「そのようだ。ここに出ているのはある女性誌のインタビュー記事だ。ライターの主観と思われる部分を除外して事実だけを抜き出すと、以下のことがわかる。由美さんは四年前から青山で友人と共同でイタリア料理店を経営している。雑誌やテレビで紹介されていてけっこうな人気店のようだ。住まいは麻布のマンションと書いてある」

 事実なら経済的な苦境にはない可能性が高い。紙面では気の強そうな女性が、画素の粗い写真の中で微笑んでいる。

「おまえひまだな。苦情の客は全部そうやって調べてんの」

「ネットは重要な情報源だ」

「妹ちゃんはマジであの家族の一員かって感じだな。開業資金はどうしたんだろう」

「大学時代に株や為替の取引をして作った資金だそうだ」

「金があるなら工場を助けてやりゃいいのに」

「家族だからといって援助をする義務はない」

「ケンちゃんだって、娘に頼れるくらいならとっくにそうしてるはずだ。父娘の関係はよくないと見ていいな」

「記事によれば、彼女は自分の意見をはっきり言う、行動力のある女性だということだ。自立心が強く、高校生の頃から将来はビジネスの世界で自分の力を試したいと思っていた。幼い頃から、周囲からちやほやされる兄への対抗心をバネにして事業を成功に導いた」

「ってことはだな」

 お兄ちゃんの残したお金なんていらないわ、ってな展開があるかもよ。冗談のつもりでそう言ってみたら、

「望ましい。受取人候補は母親と弟に絞られる」

「んなわけねえだろう。有能な商売人がこんな機会を逃すかよ。それに、もしこの妹ちゃんが当選ってことになってみろ。あとの二人が黙ってないぞ。あいつはもう金を持ってるじゃねえか、ってな。たぶんそれが一番厄介なパターンだ」

 そして今、静かなクラシック音楽が流れるシティホテルのティールームで、受取人候補ナンバー・スリーのユミちゃんは二度、三度と深くうなずいている。

「そういうことだったのね」

 大理石を基調とした硬質なインテリアに彼女の明るいグレイのスーツはよく似合っている。義理の母親とは違って、こちらはどうやら今年の最新モデルだ。注文した飲み物はロイヤルミルクティー、一杯一、五〇〇円也。

 初対面の男二人からいきなり免許証の提示を求められたうえに、あなた一億円が当たったかもしれませんよと告げられたにしては、ずいぶんと落ち着いた物腰だ。

 全体的にすらりとした体型。キツネ顔の造作は十人並みの少し上くらいだが、ファッションと化粧と表情――勝気と自信――が加点要素になっている。原田の好みではないが。

 いいぞ。どうやら色ボケ母さんや駄目ガキ弟くんとは違って、妹ちゃんはまともに話のできる人物のようだ、と原田は思った。

「何かあると思ったのよ。昨日、母が急に突然電話してきて、元気なの、みたいなことを言ってたわ。何を探ろうとしたのかしら。馬鹿みたい」

 またしても母親の話題が最初だ。原田は言った。

「お名前をネットでお見かけしたことがあります。人気店のようですね」

「お世辞はけっこう」

 妹――ユミちゃんは目線を抑えて薄く笑った。ここから荒川。

「この保険金を、お兄さんがどなたに残そうとしたのか、お心あたりはありませんか」

「面白い人ね。私に聞くの?」

「事情をご理解いただいたようなのでお訊ねするのです」

「ふうん……」

 ユミちゃんはあごに指をあてて考える仕草をして、わからないわね、と言った。

「そんな保険があることも知らなかったし……」

 そこで荒川は先の二人にしたのと同じ説明をした。ユミちゃんはうなずき、質問があると言った。

「東西生命としては、この件ではとくに誰が有利という見解はないのね。つまり、誰が代表になるかは、現時点ではまったく白紙ということね」

「その通りです。判断材料は見つかっていません」

「もう一つ。兄は、どうして保険になんて入ったのかしら」

「私どもにはわかりかねます」

「恋人か婚約者がいたんじゃないかしら」

 ふむ。それは今まで考えてみなかったな。

「そのような方がいらっしゃったかどうかは不明です。たとえいらっしゃっても、保険金はあくまで契約上の受取人にお支払いするものなので、今回は無関係と思います」

「兄が加入のときにどんなことを話していたのか、会社に記録は残っていないの」

「募集担当者なら当時のことを覚えているかもしれませんが、すでに退職済みで連絡がとれていません」

「……やっぱりわからない」

「何がでしょう」

「加入理由よ。兄は子どもの頃からとても身勝手な人だった。周囲の迷惑なんて関係なく、自分のやりたいように振る舞っていた。そんな人が自分の死後、誰かのことを心配してお金を残したなんて、私には信じられない」

 ユミちゃんの話はこうだった。

 彼女とダイちゃんの兄であるショーちゃんこと青木省吾くんは、幼稚園の頃から近所でも評判の神童だった。勉強がとんでもなくできるばかりでなく、運動をやらせても学校代表くらいのレベルにはすぐになってしまう。彼は幼い頃からずっと周囲の賞賛を一身に集めて成長した。

「そんなふうに言うと、落ち着いた優等生を想像するかも知れないけど全然違ったわ。気まぐれで飽きっぽくて、いつもきょろきょろしていた。自分のことしか考えず、他人の痛みには徹底的に鈍感だった。何かに興味を持つととことんそれに集中して、ごはんも食べずにやってる。でも飽きたらそのおもちゃは放り出して二度と見向きもしなくなる。たとえばそれがギターで、すばらしい演奏をしてコンクールで一位になったとしても、すごいねなんて言われる頃には、本人の興味はもう昆虫採集に移っている。ギターのことは覚えてもいない。ほめられてもその意味がわからずにぽかんとしてる。たしかに天才ね。それは認める」

 このへんの証言は弟くんのそれとだいたい一致している。ただ印象は正反対だ。そんな兄をもつ妹と弟は、当然のようにある災厄に見舞われた。

「クラスメートに、おまえはお兄ちゃんとくらべて全然駄目だな、ってそればっかり言われたわ。そういう発言をしている当人よりも、私の成績のほうが五十番も上なのよ。それなのに何故か私は低く見られた。自分のことを棚に上げて、私と兄の関係だけを見て、私のほうが下だって指摘して満たされる心理って何だろうってずっと考えたわ。そう言ってるあんたは私の足元にも及ばないじゃない。兄貴、私、それからずうーっと下にあんた。そういう順番でしょう。下の者が上の人間に向かってえらそうな口きくんじゃないわよ。そう言ってやると、相手は不当な非難を受けたような顔をする。先に理不尽な攻撃してきたのはどっちよ。ねえ」

 こんなことが中学を卒業するまで延々と続いた。自分は言い返していたけど、弟はただ言われっぱなしで、ただへらへらと笑っていた。それが見ていて歯がゆかった。

「中学の頃、私の成績は学年で三番から下になったことはなかったわ。でも誰もほめてくれなかった。兄がずっと一番だったから。私の作文が都のコンクールで入選しても誰も読んでくれなかった。その前の年に兄の水彩画が全国コンクールで金賞をとっていたから。そんなふうに、ぜーんぶ先回り。私の業績は誰も認めてくれない。せいぜい、さすがあのお兄ちゃんの妹さんだねって言われるくらい。そんなのかえって屈辱だわ。私はずっと兄の陰にいるしかなかった。私は兄の出来そこない。二番煎じ。そう思いながら育ったわ」

 まるで刑罰のようだったとユミちゃんは言った。終わることなく延々と続く、マッタクオマエハアニキニクラベテの刑。

「ようするに自分勝手で、一種の社会不適応者なのよ。周囲の賛辞を一人占めしておきながら、兄自身は無感動だった。冷淡といってもいいくらい。成績がよくて誰も口出しできないのをいいことに、周囲の迷惑なんか無視して、次から次へと好き勝手なことをしていただけ。算数の授業で黒板の前で問題を解けないで困っている子をひどい言葉で泣かせたり、音楽の時間中にふと抜け出して日が暮れるまで校庭の隅でじっとアリの巣を見ていたり、あんなのちっとも立派じゃない。他人を振り回して馬鹿にしていたのと同じよ。私はそんなところが大っ嫌いだった」

 吹き抜けのロビーの天井高くまで、絹糸のような弦楽四重奏が静かに流れている。その優雅な空間の底で、ユミちゃんは家族の過去を呪っていた。

「勝手っていえば、一度、兄が犬を飼いたいって言いだしたことがあったわ。大騒ぎしてた。たしか小学校の高学年くらいのとき」

「犬ですか」

「そう。うちは小さな町工場で、犬を飼うスペースも、世話をしている時間もなかった。なのに兄は泣きわめいて親に頼んだ。何日も何日も、本当に寝ているとき以外はずっとわめいていた。私も弟も、お兄ちゃんはどうしちゃったんだろう、って怖くなったくらい。父はとうとう折れて、どこかから子犬をもらってきた。工場の一部を片づけて犬小屋を置いて飼い始めた。雑種だけど人懐こくて賢かった。テックって名づけた」

「よかったですね」

 ぜーんぜん、とユミちゃんは原田をにらんだ。

「テックが家に来た途端、兄は犬に対する関心を失った。次の日から、世話どころか見向きもしない。昨日までの騒ぎは何だったのよ。さすがに父は怒ったわ。このままでは命の重さのわからない人間になるとか何とか言いながら、兄を座らせて説教した。でも兄には通じなかった。兄が一度失った関心は二度と戻ってこないのよ」

「テックはどうなったんですか」

「世話したわよ! 私が」

 ユミちゃんは原田を睨んだ。

「兄は無視、父は仕事が忙しくて世話どころじゃない、母親――あの女――はもとから生き物なんて大嫌い。弟と私が面倒を見るしかなかった。でも弟は要領が悪くて、テックのほうが弟を怖がって。だから私が世話するしかなかった。もちろん、兄には何度も抗議したわよ。でも駄目だった。兄はふうんというだけで、ちぎれるほどしっぽを振るテックを道端の石ころみたいに見ていた」

 気の毒な犬と妹。

「私は一人でがんばった。朝、学校に行く前に散歩に連れて行き、放課後は友だちと遊びにも行かず、まっすぐに家に帰ってえさをあげた。テックは私になついた。私が返ってくると跳びあがって喜んだ。私もかわいく思えてきた。しばらくはそれでうまくいった。でも私がかぜをひいて寝込んでいた日、テックが母を噛んだの。原因はわからないけど、きっと母が何かちょっかいを出したに決まってる。怒った母はテックの横腹をけり上げて、保健所に電話した。それで終わり。その日、私は兄と母を許さないと誓ったの」

 ユミちゃんはバッグから電子たばこを取り出して、やめていたんだけど、と言い訳しながら火をつけた。少し上を向いて吹き抜けの空間へ息を吐く。

「――母も人として失格だけど、兄はもっとひどい。あの無関心、無責任さは一種の悪だと私は思う。私はね、いい、兄に顔をまともに見られたことがないの。一度もよ。十何年も同じ家に住んでいたのに。兄にとって私たち家族はそこにいないも同然。石ころと同じ。文字通り眼中になかったのよ。当然、私たちが傷ついていることに気づくことなんてなかった。暴君ね。親たちはどうかわからないけど、私と弟は精神的な虐待を受け続けた」

 紅茶を一口飲んだ。

「天才には一風変わった方が多いと聞きます」

「理解しようと努力もしたわ。大学で心理学や教育学の本を読んで勉強した。今も頭では理解しているつもり。兄の非常識な性格は一種の病気であって、必ずしも本人のせいじゃない。でもやっぱり許せない。黙ってアメリカに行ってしまったのだって、社会人としてとんでもない非常識よね。自分勝手で、そうやって人の邪魔ばかりして……」

 邪魔。その単語で見えてくる。

 ショーちゃんは邪魔をしたつもりなどないだろう。だが妹の主観ではそうなのだ。つまり自分だって――自分のほうが――有能なのに、兄のせいでずっと正当な評価を受けられなかった。自分は不当に貶められてきた。それが彼女の思いなのだ。

 人間は常に誰かに共感してもらうことを渇望している。そうそう、それってぼくもよくわかるよ。君もさぞ辛かっただろう。そう言ってくれる人が現れるのを待っている。今ここでそれを言ってやれば、彼女の気持ちをぐっと引きつけることができるだろう。

 しかしそれはセールスのテクニックであって、事務処理を円滑に進めるための手段ではない。今回はむしろ客に深入りしてはいけない。なるべく距離を置いて、スムーズに家族で話をまとめてもらうのだ――さっさと片付けよう。

 荒川が伝達事項の念を押した後、別れ際にユミちゃんが小さくつぶやいた。

「でも、お金を残してくれたのなら、ちょっとは許してあげてもいいわね……」

 伏せた瞳がまつ毛の下でぎらりと光ったのが、原田は少し気になった。

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