第11話

「よーう、原田。ひっさしぶりぃ」

 六本木にあるベトナム料理店。照明はやや暗いが、店に入ると相手はすぐにわかった。フランス植民地時代風の装飾をほどこした店内で、全身から開放的なオーラを放っている。そよ風もさわやかな金曜の夜、店内は楽しそうな客たちであふれている。

「ご無沙汰しています。遅くなってすいません」

「元気そうじゃないの。ビールでいいか。ベトナムの」

 言いながらウェイトレスを呼びとめ、もう勝手に注文している。

 テーブルにはスパイスの効いた煮魚料理が並んでいる。一人で始めていたらしい。

「電話くれて懐かしかったよ。五年前のOB会以来かな。おまえ今は東西生命にいるのか。たしか前は車とか株とか売ってたよな。いまは保険か。ふうん」

 長田悟朗は大学時代のサークルの一つ先輩である。メンバーが最も多い時期に二人で運営を切り盛りした。やや丸い体型は今もあまり変わっていない。育ちのよさからきている大らかな性格もそのままのようだ。変化といえば、頭髪が少し薄くなったくらいか。

「長田さんも変わりませんね。元気そうだし」

「そんなことないよ。太っちゃったし、こないだの会社の健康診断で血圧と中性脂肪の値が高いなんて言われちゃってさ。おれ、まだ三十四だぜ。冗談じゃないよなあ。でもうちのじいちゃんが血圧だったんだよね。怖いよなあ。ジムとかもめんどいしなあ。保険とかちゃんと入っとかなきゃなあ。そうか、原田に訊きゃいいんだ。何かいいのある?」

 そう言いながらも箸を止めない。鯛に似た魚の煮つけをほぐし、いかにもうまそうに口に運ぶ。無防備に思えるほどの人懐こさ。対外的な折衝を担当する原田に対し、長田はサークル内部の雑事をさばいていた。内輪でトラブルが起きても、そのキャラクターで何となく収めてしまう。そんな人物だった。

「そういう方にぴったりの保険がありますよ。医療保障に重点をおいた割安の保険。今ご説明しましょうか」

「ごめん、やっぱやめとく。原田に勧められたらきっと入っちゃうもん。勝手に保険なんて入ったら女房に怒鳴られちまう」

「残念だなあ。ほんといい保険なんだけどなあ」

「原田はまだ独身なのかい」

「誰も寄りつきません」

「そんなことないだろう。いいよなあ。自由で。原田も結婚したらわかるよ。家族ってのは窮屈でさ。金もかかるし」

「そんなこと言って、ほんとは幸せ太りなんでしょう」

 ビールが届き乾杯をした。ひと通り昔話をしながら、フランス風に洗練された東南アジア料理を腹に収めた。

「で、今日はどうした?」

「ええ、じつは……」

 本題に入る。原田は、長田先輩の取引先の外資系生保の人事担当者を紹介してもらえませんか、と切り出した。

 長田は独立系中堅証券会社の創業者の孫だ。今の社長が父親で、自身も役員に名を連ねている。不景気でかつての勢いはないが、時代の流れを巧みにとらえ、堅実に生き残っている。

 学生の頃から財界人や著名人との人脈があった。着ているものや通う店のランクが周囲の学生とは明らかに違っていた。それが嫌味でなかったのは人柄のおかげだろう。両親ともに町田の教師の家庭に育った自分など、絶対に足を踏み入れることのできない世界でこの人は生きている……学生時代にそう強く感じたからこそ、原田は彼を尊敬し、同時に屈折した劣等感を抱いてきた。

 自分はこの人みたいに環境に甘やかされてはいない。自分の力で登ってやる……。

「それで困ってるの? 転職するにしても、原田みたいに優秀だったら行き先に困ることなんてないんじゃないの」

「転職ってのはタイミングが大事なんです。人事として採りたい人材がいても、人件費には予算があるから、一人採るには一人やめさせなきゃならない。正社員一人を辞めさせるのがどれだけたいへんか、経営側である長田さんならよくわかるでしょう」

「わかるわかる。組合もうるさいしなあ」

「外資系の生保なら、ぼくの力を最大限に発揮できると思うんです。ふつうに中途採用に応募してもいいんですが、面接を一つずつこなしていくのは結構な手間と時間がかかります。こう言うとえらそうですが、ぼくは生保の営業としてはよくやる方だと思いますし、大口の顧客もついています。今は、さっき言ったようないきさつで事務にいますが、ここではお客さんへの情報提供も満足にできません。放っておいたら顧客が別の会社に逃げてしまうでしょう。こんなことをする東西生命の人事はおかしいと思うんです。だから、できるだけ早く転職を決めてしまいたいんです。お客さんのためにも」

 長田は少しの間、うーんと考え込んだが、

「うん、わかった」

 と、あっさり言ってくれた。

「本当ですか」

「USライフとアトランティック生命だったら人事部に伝手がある。結果は約束できないけど紹介はできる。でも、どっちもノルマがきついことで有名だ。それでもいいかい」

「もちろん」

「じゃ、明日にでも履歴書とセールスとしての実績がわかる資料をメールで送ってくれよ。ああ、それから……」

「はい?」

「一つ確認しておくけど、原田が今の部署に行かされたのは、例の不払問題による会社の理不尽な人事政策のせい、本当にそれだけなんだよな。原田のほうに理由はないのに、会社が本人の意向と適性を無視して無理やり移した。そういうことで間違いないんだよな」

 長田は経営者の目になっていた。

「――そうです。ベストの事務体制を作るには、営業の視点も要ると判断したんだと言っていました。ぼくは最初、断ったんですけど、人事の意向がとても強くて……」

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