第7話
いまや「元」受取人となった父親・青木健吾は、外見はまるで七十歳すぎだが、繰り返し語られる過去の苦労話から逆算すると、実年齢はどうやら六十そこそこのようだ。
しわだらけの頬を紅潮させ、電話のときの罵倒口調をずっと維持している。痩せて小柄な身体のどこにこれほどのエネルギーがあるのだろう、と原田はひそかに感心した。
「払えないとはどういうことだ。誰の名前で受け取るかなんてあんたらには関係ないだろう。家族だぞ。そんなことで揉めるわけがない」
声がでかいのはまだまだ元気な証拠。何よりだね。せいぜい息子の分まで長生きしてね――腹の中でそんな軽口をたたきながら、原田はうわべで恐縮の表情を作っていた。
ショーちゃんの実家は大田区にある小さな機械部品工場だった。どんな会社か調べないといけないと思っていたが、興信所に頼むより現地調査が先になった。おかげで感じがよくわかった。弁護士が言っていた通り典型的な零細町工場だ。不景気の影響は隠しようもなく、周囲には平日の昼間からシャッターを閉めた工場が多く並んでいた。
二人は工場に隣接する狭い事務所の奥の、これまた狭い応接スペースで、社長・青木健吾と向き合っていた。町工場特有の、オイルと金属の匂いがあたりを覆っている。
――よくねえな――
通された瞬間に原田はそう思った。途中の作業場には誰もおらず、ガラスの応接テーブルはすすけたように曇り、革張りのソファの端はだいぶ擦り切れている。
バブル崩壊以降の不景気を今日まで生き残っているのだから、それなりのしぶとさはあるのだろう。しかし壁に飾られた区長からの感謝状は、はるか昭和の時代のもので、陽に焼けてだいぶ黄ばんでいる。
「これまでに三度ご説明いたしました通り、息子さんは生前、名義変更の手続きをされていました。ですから、お手元の証券の表示はすでに無効になっているのです」
事務的な荒川の口調は何回目だろうと変わらない。これはこれで大したものだ。うっかりすると尊敬しちまいそうだ。
「そんなことは知らん。だいたいだな、東西生命は三年前に融資の手続きを間違えたことがあるだろう。おかげでうちは不渡りを出しかけたんだ。それを忘れたのか。今度はうちの息子が残してくれた保険金を払わないだと。ふざけるな」
この話も四回目だ。支社が来たがらなかった理由はこれだろう。よほどひどい苦情だったに違いない。
――しゃべるほどに自分の言葉に興奮していくタイプだ――
この手の輩にはまず頭を冷やしてもらう必要がある。ちょっと時間がかかるな――原田はげんなりした。
「てっきり金を持ってくるのかと思ったら、電話の話と同じじゃないか。受取人がわからないだと。そんな寝ぼけた話があるか。証書にはたしかにおれの名前が書いてあるんだ」
よれよれになった保険証券のコピーをこめかみのあたりで振り回す。
「社長、落ち着いてください。よろしければ私どもから直接、奥さまやお子さまたちにもご説明を――」
「そんなことはしなくていい!」
父親が応接テーブルをバン、と叩くと細かいほこりが舞い上がった。原田は身をすくめて見せた。
「家族にはおれからちゃんと話す。まったくあの野郎、死んだ後まで面倒ばかり……。子供たちは独立しているんだ。今さらこんなことのために、いちいちハンコだの承諾書だの、面倒なことはさせられない。だってそれはあれだろう、実印だろう。子供たちは役場へ行って印鑑証明をとって来なきゃならない。そんな面倒はさせられない。送った書類でじゅうぶんだろうが。そうやっていやがらせをして、結局は払わないつもりか。よし、訴えてやる。こっちは腕のいい弁護士を何人も知っているんだ」
「訴訟は費用も手間もかかるので――」
原田はあわてて押しととどめた。
「社長、誤解なさらないでください。これはお支払いをするための手続きなんです。私たちも、一日も早くお支払いをしたいんです。それにはあと少しだけ書類の整備を……」
訴訟なんて煩わしい。転職活動に支障が出る。
「払いたいならさっさと払えばいいじゃないか。あんたらの言うことはさっぱりわからん」
父親は煙草を取り出し、落ち着かない様子ですぱすぱとやりだした。
――ここはいったん引くか――
父親――ショーちゃんの父親だからケンちゃん――にしてみれば、おそらくは資金繰りが苦しいところへ、天から降ってわいたような一億に小躍りしていたのだろう。それなのに笹口佳奈子のアニメ声で、うーんとあれはねゴメンナサーイあなたのお金じゃないのよーと告げられ、頭に血が上っているのだ。
今日はもうこれ以上話しても無駄だ。とりあえず飛んできたという誠意の足跡は残せた。いったん引き揚げよう。時間を置いて少し頭を冷やしてもらえば、結局はこちらの言う通りにするしかないことがわかるだろう。
見たところ、メンツや筋論を重んじる古いタイプの経営者だ。この手合いはプライドを傷つけないことが何より大事である。このままでは無理だとうすうす気づいてはいるのだが、いったん大きな声を出してしまった手前、引っ込みがつかなくなっているのだ。
だから『相手が折れてきたから聞いてやった』と言える状況を演出して、振り上げたこぶしを下ろすきっかけを作ってやればいい。原田は困り果てた表情を作って、深く頭を下げた。
「――社長、この通りです。どうか私どもの立場もご理解ください。今どきは役所の指導がとてもきびしくて、とくに保険金のお支払いのところは、書類上も完璧にしておかないと、検査のときに何を言われるかわかったもんじゃないんです」
眉の形をいっそう情けなく歪めて、
「いったん疑われたら隅から隅まで徹底的に調べられるんです――いえ、このご契約のことを言っているんじゃありませんよ。でも場合によってはお客さまのところまで調査が入ったりすることもあるかも知れませんし、税務署だって来るかもしれません。社長にそんなご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「税務署……?」
よし、かかった。やはりこういうときは税務署だ。このクラスの経営者はたいてい税金やら社会保険やらで苦労しているからな。
「私どもも大の男が二人、雁首そろえてお邪魔しています。それなのにお叱りを受けただけで帰ったとなれば、上の者から怒鳴られます。お願いです、社長。今日のところは本当にここまでの答えしかないんです。何しろさっきのお電話で飛んできたんですから。とにかく、帰ったら次までに、何か社長にご迷惑をおかけしないような手続きの方法がないか、よく調べてみますから」
原田が哀願調で続けるうち、だんだんとケンちゃんの眉間のしわが緩んできた。
「うむ……」
聞く耳を持たせればこっちのものだ。よし、これでOK。原田がそう思った瞬間、横から荒川がぶち壊した。
「いいえ、他のやり方などありません。現時点であなたはすでに契約の当事者ではありませんが、ご家族なのでお聞きするのです。息子さんが、あなた以外の三人のうち本当はどなたを受取人にしたかったのか、お心あたりはありませんか」
原田は右手で両眼を覆った。眉を吊り上げたケンちゃんが、テーブルをがたんと揺らして立ち上がった。
その後、ケンちゃんをなだめるのに三十分かかった。帰りの駅までの道すがら、つい原田の声が高くなり、すれ違う人たちの視線を集めた。
「おまえなあ、あのタイミングであんなこと言ったら、相手は怒るに決まってるだろう。おかげでぜんぶやり直しだ。苦情折衝ってのは、いかに引きながら言質をとるかなんだ。相手を立てながら、こっちが欲しいせりふを言わせるの。相手はようするに金が欲しいんだから、最後はこっちの言いなりになるしかない。持っていき方が大事なんだよ」
「だからといって嘘をついていい理由にはならない。名義変更の請求書が出ている以上、もう父親に支払うことはあり得ない。可能性が残っているかのような説明は誤った期待を抱かせるおそれがある」
「ただの方便だよ。そう言ってやれば向こうだって、じゃあ今日のところは帰してやろうかってなる。明日にでも、社長すいません、やっぱり方法はありませんでしたって電話すりゃいい。あっちだって馬鹿じゃない。そのときには頭が冷えてるさ」
「冷えていなかったら」
「そのときは次の手を考える。あの場面ではとにかく、上げたこぶしを下げさせることが先決だった」
荒川は立ち止まり、原田の行く手をふさいだ。
「昨日も言ったが、ぼくたちの仕事は事務だ。公平で隙のないルールを整備し、それを遵守すること。君のやり方は誠実さや論理性に欠け、ルールを逸脱している。それでは組織としての統制がとれないし、契約者間の公平が保てない」
「苦情が拡大するほうが問題だろう」
「理不尽な苦情まで聞く必要はない」
「苦情を言ってくるやつは自分が理不尽だなんて思ってねえよ。おまえは客ってものがわかってないね」
「ぼくが電話で苦情を受けたら、同じ人からは二度とかかってこない」
「理屈じゃ敵わないから、いったん切って別の担当者にかけ直してるんだろうよ。素人を理詰めで言い負かしてどうすんだ。向こうは不満を解消しようと思って電話してくるのに逆効果じゃねえか。そうやって裁判沙汰が増えていくんだ」
「訴訟をおそれて保険金の仕事はできない」
「裁判てのは起こされる前につぶすもんだ」
原田は荒川の脇をすり抜けて歩き出した。荒川も後を追う。やがて駅に着き、二人は無口のまま改札を抜けた。原田はずっとむすっとしていたが、荒川は無表情のままだった。
オフィスに戻ると、昼休みになるところだった。腹が鳴った。原田は自席で、途中のコンビニで買ってきたサンドイッチと緑茶を広げた。
――午前がつぶれちまったじゃねえか――
蕎麦屋の前を通りかかったとき、荒川に「昼食にしないか」と誘われたが、「一人で行けよ」と言って別れてきた。荒川は「ではそうする」と自分だけ店に入って行った。
――事務屋め――
会社の収益を生み出す営業現場で起きていることを、まったくわかっちゃいない。いくら事務に詳しくたってあいつに苦情対応を任すのは危険だ。
ケンちゃんへは明日、電話してやろう。少しは冷静になっているだろう。ツナサンドをほおばりながら原田は考えた。ケンちゃんくらいの年代の経営者は何人も知っている。対応を間違えると厄介だが、つぼさえおさえれば手の平で転がせる。やり方は心得ているつもりだ。相手は仮にも経営者。怒鳴るだけでは駄目だとわかれば実を取りにくるはずだ。
今頃は家族の同意を取り付ける段取りを考えているか、ひょっとしたらすでに取りつけているかもしれない。そうなら次に行ったときに手続きが完了するだろう。一億の苦情が二回の訪問で解決したらなかなか鮮やかなものじゃないか。
――いつまでもこんなもんに関わっていられるか――
とっとと辞めてやる。転職の面接予定も決まりつつある。
昼休みの終わり頃、荒川が戻ってきて席に着くなり言った。
「一時から今回の件の状況を課長に報告するから同席してくれ。その後、続けて打ち合わせをして、方針を決めてしまおう」
まったく、こいつのマイペースは筋金入りだ。少しは気まずさとか感じろ。
「もういいよ。おまえがいいように――」
そう言いかけたとき、外線が鳴った。原田は舌打ちしながら受話器をとった。
「はい。東西生命支払サービス課」
「――原田さんをお願い」
不機嫌そうな高齢女性の声。どちらさまですか、と訊き返さなかった。すぐにピンときた。工場に名刺を置いてきた。
――嫌な展開だね――
反射的に緊張した。午前のケンちゃんに続いて、この女の声にも厄介ごとの響きがある。
「原田は私ですが」
すると有無を言わせぬ口調で、
「あなた今朝、うちの工場に、青木工業に来たでしょう。その件でちょっと話があるの。わかっていると思うけど、とても大事な話よ。おたくのビルの向かいのファミリーレストランにいるから、十分以内に来なさい」
プツン。
「も――」
非通知。携帯だろう。かけ直しようがない。
用件は一億のことに違いない。なぜ女房からなのか。近くまで来ているってのはどういうことなんだ。ケンちゃん、説得に失敗したか。
――それにしても早すぎる――
「おい、荒川」
荒川が顔をこちらに向けた。
「おかあちゃんは何て名前だっけ」
「青木さんの件か。美佐絵さんだ」
「じゃあミサちゃんだな。九分後に向かいのロイホだ」
それだけで察したらしい。
「わかった」
荒川は平坦なイントネーションで、では課長報告はその後にしよう、と言った。
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