第6話

 プールに寄った後、外食が面倒になったので自宅近くのコンビニで弁当を買った。帰りついたのは午後十時過ぎだった。隅田川にほど近い単身者用マンションの十二階。都会を見降ろす眺めがいい。

 ソファ前のコーヒーテーブルで缶ビールと弁当を広げ、テレビを見ながら平らげた。シャワーを浴びた後、体を拭きながら、またテレビをつけたが、薄っぺらいニュース番組にうんざりしてすぐに消した。

 ――こんな番組で何も解決しない――

 この手の番組で出演者がしきりに使う「きっちりと」「しっかりと」「本当に」という類の副詞が原田には耳障りでしかたがない。使わずにしゃべってみろと思う。そうしたらいかに発言に中身がないかがわかるだろう。

 この問題はしっかりと検討しなくてはいけませんね。当たりまえだろう。どんな問題だって検討はしっかりとすべきだ。検討すると言ったらそれはしっかりと検討するということなのだから、副詞など要らない。副詞を多用するのは、そのコメントに大して中身がないからだ。そのことに当人も気づいているからだ。

 ベッドに横になったが、目が冴えてしまった。しばらく眠気はやってきそうもない。

 マンションの前は幹線道路が走っている。車の音と光が地下を流れる川のように、はるか足の下を流れていく。天井を見つめながら、ふと大金を残して死んだ青年のことを考えた。顔など知らないが、ぼんやりと痩身で蒼白い容貌を想像した。

 ――おまえ、何がしたかったんだ――

 関心が高額の保険金そのものに向かわないのが、われながら不思議だった。営業にいたら、次の一件を狙って受取人にとり入る方法を必死に考えていただろう。しかし今の部署では募集しても成績はつかない。手数料ももらえない。保険金の支払いを事務処理としてみた場合、百万円でも一億円でも手間は大して変わらない。同じ会社でも部署によって案件に対する関心はこれほど違うのだ。

 ――誰にも渡したくなかったのか――

 弁護士の話からすると当人は変人だったようだ。お勉強はたいへんよくできたのだろうが、人格にいくらか問題があった。家族と折り合いがよくなかったのではないか。それどころか激しく憎んでいたのだとしたら。

 金など渡してやるものか――だからこんなややこしい仕掛けを考えた。こうしておいて自分が死んでしまえば、受取人は判明せず、保険金は永久に払われない。家族は大金を目の前にしながら決して受け取ることができない……。

 ――違うな――

 三人が話し合えば払われてしまうのだ。金を渡すのがいやなら解約してしまえばいい。そもそも加入しなければいい。やはりショーちゃんにはこの世に一億の金を残す意思があったと考えるべきだろう。その相手は誰なのか。

 ――わかるわけがない――

 何しろ相手はもうこの世にいない。それにショーちゃんと三人がどんな人間なのか、おれはまったく知らない。ただ一つはっきりしているのは、三人のうち誰が受け取るにせよ、それは激しい争いの種になるということだ。

 どんなに温厚な人でも、大金の存在をすぐそばに感じ取った瞬間、火のような守銭奴と化す。そんなケースを原田はいくつも見てきた。

 以前、こんなケースがあった。

 契約者は東北の小さな印刷会社の社長。東京の顧客からの紹介による遠方契約だった。

 この社長が、真冬の早朝、吹きすさぶ吹雪の中、自宅から片道二時間もかかる漁港まで車を走らせ、海に転落して命を落とした。

 調べてみると会社は倒産寸前だった。死の二週間後には二度目の不渡りが出ることがほぼ確実で、手形を落とすには約三百万円の金が必要だった。

 この社長の生命保険契約には、死亡保障二百万円のほかに、災害割増二百万円の特約がついていた。災害割増とは、病死や自殺ではなく事故で死亡した場合に支払われる特約である。つまりこの契約の場合、自殺なら二百万円、事故死なら四百万円が支払われる。支払い査定ではこれが最大の争点となった。

 状況からして自殺の線が強いが、証拠がなく目撃者もいない。警察の現場検証でも決め手がなかった。

 加入手続きのとき、原田は一度だけ社長夫妻に会いに行っていた。契約までに顧客と一度は面接をしなければならない決まりだ。

 夏の盛り。セミの声に包まれた作業場の入り口で風鈴が鳴っていた。遠いところをようこそ、と言って麦茶を出してくれた妻は、見るからに善良そうな初老の女性だった。エプロンのような前掛けについた油のシミが蟹のように見えたことをなぜかよく覚えている。

 その妻が当然のように事故を主張してきた。本社は調査担当者を派遣した。そのときのメモが募集担当者である原田のところまで回ってきた。

 ――なぜ社長はあの日、取引先もないあの町に、二時間もかけて行かれたのでしょう。

 ――以前に、家族で旅行に行ったことがあるんです。海のきれいなところでした。きっとなつかしくなったのでしょう。

 ――二月の未明、しかも吹雪の中ですよ。景色など見えない。それにノーマルタイヤのままです。社長はいつもこの季節は、ご近所を回るときでも、スリップが怖いからと、車を使うのは避けておられたというじゃないですか。

 ――慎重に運転すればだいじょうぶだと思ったのでしょう。

 ――失礼ですが、会社の経営が苦しいときに、ただ思い出に浸りに、危険な雪道を走って行かれたということですか。ご家族にひと言の断りもなく? 

 ――そ、そういえば、前日に出かけると言っていたような……。

 ――本当ですか。どうして止めなかったのですか。危険だとは思わなかったのですか。

 ――ですからそれは……。何ですか、さっきから聞いていれば、まるで私が保険金をだまし取ろうとしているみたいに。ひどい。私は客ですよ。客が、主人が亡くなって失意のどん底にいるというのに、そんな疑いを……。保険会社っていうのは本当に血も涙もないところなんですね。とにかくあれは事故です。夫が自殺するなんてありえません。ええ、私にはわかるんです。絶対に事故です――

 会社の査定は自殺となった。つまり支払いは二百万のみ。春に訴訟になり、秋に会社が勝った。遺書があったのだ。災害割増を受け取るために妻が隠していたことが判明した。

 支払い手続きのために訪れた会社の担当者に向かって、妻は激しい形相で、金を払え絶対にあきらめないぞと怒鳴り散らしたという。傍らにいる自分の弁護士に、控訴審を戦う材料はありませんとなしなめられると、泣き崩れたそうだ。

 亡くなった社長には気の毒だが、判決が出る頃には会社はとっくにつぶれていた。手形が不渡りとなったのだから当然だ。

 小さな工場には、たちまち債権者が押し寄せたに違いない。彼らだって資金繰りの厳しさは同じようなものだろう。殺気立つ連中を妻は何と言ってなだめたのか。たしか中学か高校の子どもがいたはずだ。親子そろって申し訳ありませんと冷たい床に額をこすりつけたのだろうか。

 その後、遺族がどうなったのか原田は知らない。多額の保険金をだまし取ろうとした悪質な受取人の行く末など、会社は関知しないのだ。

 生命保険会社の保険金部とは、この手の話が日常的に転がっている場所だ。

 紛争案件の資料は分厚いファイルに綴られ、保険金部フロアの北東に位置するキャビネットに保管されている。現代的なフロアの中で場違いなほど旧式の、ダイヤルを備えた黒くて大型の鉄庫である。過去のやり手社長が保険金部長だったころのもので、当人はとっくに退任し亡くなっているが、師と仰ぐ役員が多いために撤去できないでいるという。それは昭和の時代から、人間の欲と嘘を呑み込んで身じろぎもせずそこにただずんでいる。

 保険会社は巨大だが、その金は大半が契約者のものだ。いずれ保険金を支払うための準備金なのである。その意味で荒川は正しい。払ってはいけないものは絶対に払ってはいけない。一方で、

 ――遺族は強欲――

 これも真実だ。遺族はなんとかして保険会社に、払ってはいけないものまで払わせようとする。

 みなそれぞれ事情はあるだろう。だが保険業は道楽でも慈善事業でもない。彼らに安易に同情して余分な金まで払っていたら保険ビジネスは成り立たない。そんなことは小学生にだってわかる。

 高額の保険金が欲しいなら、最初から高い保険料を払って高額の契約に入ればいい。それが荒川のいう契約者間の公平ってやつだ。不正な請求をしてくる受取人はもはや大切な顧客ではない。その瞬間から排除すべき敵に変わるのだ。

 虚偽請求の件数はたしかに全体から見ればわずかだ。すべての受取人が保険金詐欺を企てるわけではない。しかし、それは企てる余地がないからに過ぎない。東北の案件だって、死因が明らかであれば、妻が余計な欲をかくことはなかった。

 ほんのわずかでも増額を主張できる隙があれば、遺族は必ず主張してくる。その根拠が見え見えの嘘だろうが、子どもの寝言みたいな屁理屈だろうが、例外はない。

 保険金詐欺は犯罪である。虚偽だと知りながら請求をしてくれば、失敗しても詐欺未遂だ。しかし彼らに罪の意識などない。保険会社が客を訴えたりするわけがないとたかをくくっている。つまり彼らにとって保険会社とは、騙して当然の相手なのだ。

 ――信義誠実の原則だと――

 そんなものを守ってどうする。不誠実なのは客のほうじゃないか。

 セールスは顧客の信頼を得なくては仕事にならないが、だからこそ相手の本性を知っておく必要がある。そのうえで、顧客と会社がもめた場合には、どちらにも悪い印象を与えないようにうまく立ち回るのだ。それには神経を使う。自分が募集した契約でもないのに、巻き込まれたら丸損じゃないか。

 ――あいつにやらせときゃいい――

 そこまで考えて、ようやくうつらうつらとした。いくつか夢を見た。

 倉田遥香が出てきた。白い風景の中でこちらに背を向けて立っていた。それから場面が変わって、一億円の受取人候補である家族三人と吹雪の海で死んだ社長がいっしょに現れた。三人がどんな人物なのか原田は知らない。社長の顔だってもう覚えちゃいない。それでもその四人だとわかった。

 顔のない四つの黒い人影は、音もなく原田の部屋に滑り込んでくると、ベッドの周りに並んで立ち、覆いかぶさるように、眠りこむ原田をじっと見下ろしているのだった。


「あの……」

 次の日、朝一番で、笹口佳奈子が背後から声をかけてきた。昨日よりさらに不安そうな表情だ。

「すみません、原田さん。お客さまからお電話です」

「おれに?」

 心当たりがない。自分の顧客には携帯の番号しか教えていない。

「間違いだ。君、出といてよ」

 くるりと椅子を回し、背中を向けた。ところが笹口佳奈子はすがるような声で言う。

「駄目なんです。私じゃ全然お話にならなくて……」

 原田は面倒くさそうに答えた。

「どうせ支払いが遅いとかだろう。事務的なことはおれじゃわからないから、後で荒川からかけ直してもらってよ」

 たまたま荒川は席を外している。

「それが、今すぐ説明しろって、すごくお怒りなんです。どうかお願いします」

 必死の表情で頭を下げる。

「何でおれなんだよ」

「昨日、原田さんと荒川課長代理がお話ししていた、あの名義変更のお客さまなんです。青木さまの、元受取人であるお父さま。私、たまたま取って、昨日お二人が話していたお客さまだって気づいたからご説明したんです。このままじゃお支払いできないようですって。そうしたら、すっごく怒り出して……」

「君が説明したの?」

 こくん、とうなずく。

 ――余計なことを――

 こんな小娘に電話口で言われたい話じゃないわな。

「ごめんなさい。でも私、電話を取ったんだから、自分でやらなくちゃって思って……」

 泣き出さんばかりの表情。ちっ。

「しょうがねえな……」

 原田がそう言うと、笹口佳奈子は顔をぱっと輝かせて、

「ありがとうございまーすっ。保留三番、お願いしまーすっ」

 スキップのような足取りで去って行った。

 ――何だ、あいつ――

 豹変ぶりに唖然としながら三番を押す。

「はい、お待……」

 まともにしゃべれたのはそこまでだった。


 故人の父、青木健吾は、通話の最初から最後まで激しい口調で怒鳴りまくった。最後には「今すぐ説明に来い」、プツン。原田はやれやれと肩をすくめた。

「どうでした?」

 背後で声がした。ぎょっとして振り向くと、いつの間にか笹口佳奈子が戻ってきている。

「聞いてたのか」

「私が取った電話ですから気になって」

 と言うわりには心配しているふうではない。原田が苦情対応に苦慮する様子を見て楽しもうとしていたのだろう。

「この程度の苦情なら山ほど経験してる」

 原田は過去に、中堅スーパーの社長の屋敷に呼び出され、半分やくざのような連中に事実上軟禁されたことがある。丸一日かけて折衝し、帰るときには大口の紹介を二件ほどもらってきた。ようするにやり方次第ってことだ。

「へえ。さすがですね」

 つまらなさそうな口調で言い、自席へ戻っていく。

 ――この女、要注意だぞ――

 電話を切った後、一応課長に報告した。一応のつもりだったのに、じゃあ君が行けと言われて頭に血が上った。

「支社の仕事でしょう」

 課長は百キロをゆうに越える巨漢だ。上半身をふんぞり返らせて言った。

「一億だぞ。支社に任せるような案件じゃない。これは君の担当案件なんだから、君が行くんだ」

 ――法人営業部長に対しては、あんなに卑屈だったくせに――

 この男はおれに敵意をもっている、と原田は思った。そういえば初日からそうだった。研修会場で、斜に構えて研修を受けている原田のほうをずっと陰質な視線で睨んでいた。

 ――邪魔に思っているのか――

 ただ部下の増員を喜んでいればいい部長クラスとは違って、実務を取り仕切る課長クラスにとって、畑違いの営業要員など管理上のリスクにしか思えないのだろう。異動の経緯も聞かされているに違いない。しかし仕事でヘマはしていない。単におれが嫌いなのか。感情で部下を評価するのは論外だし、それを当人に見透かされるのも管理職の資質を疑う。――わざとやっているなら別だが。

「しかしですね」

「業務命令だ」

 ――くそ――

 明確にそう言われると返す言葉はない。課長を一瞬にらみつけてから、原田は出かける準備を始めた。席に戻ってきた荒川に事情を話すと、ではぼくも一緒に行こうと言う。――何だと。

「指導担当はいいのかよ」

「山下に頼む」

「最初っからそうしろよ。だったらおれは――」

 行くのやめるぞと言いかけて、思いなおした。

 ――こいつでだいじょうぶか――

 苦情対応には事務的にやっていいものと、そうでないものがある。この案件は間違いなく後者だ。そして苦情対応は初動が命というのは荒川も言っていた通りである。初期対応をしくじると長引く。

 ここにいる超事務的な理詰め野郎を高血圧じいさんのところに一人で行かせるのは、どう考えても得策じゃない。で、こいつが話をこじらせた後はどうなる。担当を変えろという話になり、名前を知られているおれが指名されるに決まっている。

 ――くそ。はまっちまった――

「おまえ、わかってんの? これって苦情だぞ」

「そう認識している」

「嫌じゃないのかよ」

「嫌かどうかは関係ない。仕事だ」

 ――つくづく変なやつ――

 こうして、一億円を受け取り損ねた父親のもとを荒川と二人で訪ねることになった。

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