第5話

 席に戻ると荒川が言った。

「この後、来客がある。君もいっしょに出てくれ」

 先ほどやり合ったことなど忘れてしまったかのような事務的な口調。こいつの流儀がだんだんわかってきたぞ。神経は理解できないが。

「一人で出ろよ。おれは忙しいんだ」

「そんなはずはない。午前の分は完了しているし、午後は新しい案件はないはずだ。それに君にはぜひとも出てもらわなければならない。青木氏の契約の件だ」

 原田は眉根を寄せた。

「父親か。今日書類が着いたばかりで督促なんて早すぎるだろう」

「父親じゃない。弁護士だ」

「ひょっとして遺書が見つかった――」原田の声が弾んだのは、ほんの一瞬だった。「――んだったら最初からそう言ってるな、おまえは」

 荒川はうなずいた。

「詳しいことは会ったときに話すと言っている。どうやら故人から当社への伝言を預かっているらしい」

「伝言ってつまり遺言じゃねえの」

「言った通り、詳細は来てからだ」

「何でもいいや。おれは関係ない」

「この件の担当は君だ。課長の了承も得たし、先方には君の名前を伝えてある」

「おまえ。勝手なことを……」

「四時に三〇二応接だ」

 そう言うと、「ちょっと待て」という原田の抗議を背に、打ち合わせだと会議室に向かう。

 ――くそ、どうもあいつにはペースを乱される――

 原田はどすん、と椅子に腰を下ろした。

 荒川の態度は気に入らないが、若くして死んだ同年代の男が、何を考えて奇妙な行動をとったのか興味がないでもない。結局、原田は同席することにした。

 応接室では、紺のスーツを無難に着こなした三十代前半と思われる男が待っていた。さわやかなスポーツマンタイプ。名刺交換の後、弁護士・小笠原大貴はクールに言った。

「私が今日お邪魔したのは、故人、すなわち青木省吾氏からの伝言を御社にお伝えするためです。生前に加入していた生命保険契約に関する指示で、いわば御社に対する遺言のようなものです」

 ほらな、と視線を送っても荒川は知らぬ顔だ。

「名義変更の請求書を送ってきたのはあなたですね」

 荒川が言うと、若い弁護士はうなずいた。

「それも依頼の一部でした」

 するとこの男は事情を知っているのだ。なんだ、謎はあっけなく解けそうだ。

 弁護士はスマートな動作で、アタッシェケースから書類を取り出した。委任状。青木省吾の直筆で、自分の生命保険契約の死亡保険金受取人の名義変更請求に関する一切の権利を小笠原弁護士に委任するという内容。委任状の要件は満たしているようだ。

「もう一枚あります」

 弁護士は二枚目を取り出し、応接テーブルに置いた。ワープロで作成された文書。「指示書」とある。

 ――東西生命保険相互会社 御中

 私は、保険契約者としての権利をもって、御社に以下のことを請求いたします。

 私が平成××年×月に加入した証券番号×――××号の生命保険契約について、私の死後、保険金等すべての給付が私の意思に沿った正当な権利をもつ人物に支払われるよう、御社が万全の措置を取り、合法かつ適切に支払手続きを行うこと。

 具体的には、東京都××区×××、小笠原大貴弁護士に私が委任し、御社に送付させた平成×年×月×日付の名義変更請求書はすべて私が作成したものに間違いないので、御社において、これらを有効と確認したうえで、生命保険約款、関連法令等および御社社内規定を順守し、誠意を尽くして、正当な受取人を特定し、しかる後に速やかに保険金支払い手続きを完了ください。

 ただし、支払い手続きの前に、御社が受取人を特定した段階で、その内容を書面にて代理人小笠原大貴弁護士にお知らせください。代理人は、御社の特定内容を精査したうえで、問題ないと判断した内容にて支払いを許可いたします。真正な受取人の決定について、御社において少しでも不正ないし怠惰をなした形跡が認められると代理人が判断した場合には、支払いを許可いたしません――

 最後に日付、署名、押印。日付は死の十日前だ。印鑑は実印で、ご丁寧にも同日付の印鑑証明書が添付されている。本人の意思と判断せざるを得ない。

 原田は思わずつぶやいた。

「支払いを許可しない? 何だそりゃ」

 小笠原弁護士が応じる。

「故人は、御社が正当な受取人を特定し――」

「それはわかってますよ。私が言いたいのは、どうしてこんな面倒なことをするのかってことです」

 荒川も続く。

「お客様の側から保険金の支払いを禁止するというお申し出は初めてです。対応は社内で検討いたしますが、そもそもお申し出は不合理と思います。なぜご自分で直接、受取人を指定なさらないのでしょう」

「それは言えません」

「はあ?」

「理由を説明することは依頼人から禁じられているのです。私は依頼人の指示どおりに行動しています」

「あんた――」

 馬鹿にしてんのか。そう言いかけた原田を弁護士は制した。

「これから故人のことについて、おおまかにご説明します。これも依頼内容の一部です」

 原田と荒川は顔を見合わせた。

「とにかく、お聞きしましょう」

 弁護士の話は次のようなものだった。

 まず、死亡時の戸籍の確認。独身で子どもの記載はなく、家族は父、母、妹、弟の四名だけ。この点については、弁護士が手まわしよく用意してきた戸籍謄本で確認できた。

 次に、死亡時の職業は会社員であったこと。青木省吾は十年前に東大を卒業し、一部上場の大手電機メーカーに就職したが、二年ほど勤めた後に退職し、米国カリフォルニア州の会社に移ったという。

 十年前の卒業ということは自分と同学年か。少なくとも同年代だな、と原田は思った。

 ――東大ねえ――

「カリフォルニアというと」と、荒川。

「シリコンバレーのIT企業からの誘いに応じたのです。彼は日本にいる頃から、技術者として非常に高い評価を得ていました」

 アメリカ企業のヘッドハンティングか。ふん、うらやましい限りだね。原田は思った。自分が名古屋で過ごした苦しい時代のことが一瞬浮かんで、すぐに消えた。

 原田の経験からいえば、スカウトされたからといって優秀な人材とは限らない。企業側が使い捨ての鉄砲玉営業をかき集めているのかもしれないし、ヘッドハント会社が決算対策の手数料割引キャンペーンを張っているだけかも知れない。そんな転職はたいてい長続きしない。東大ショーちゃんの場合はどうだったのか。

「そして三年前に帰国し、お父さまの会社に就職しました」

 ――五年続いたのなら、一応は成功と言えるだろう――

 荒川は怪訝な顔をした。

「当社へのご加入は五年前、大阪の支社でのことですが」

「じつは省吾さんは、渡米した後に、いったんご家族に内緒で帰国して、三か月ほど大阪にいたことがあります。保険加入はその時期のことです」

 それからまたシリコンバレーの会社に復帰したが、その会社が間もなく倒産し、再度の帰国となったという。

「倒産の原因は何ですか」

「ある訴訟に負けて、多額の賠償債務を負ったせいだと聞いています」

「どのような訴訟でしょうか」

「詳細は存じません。いわゆるベンチャーでしたから、成長が早かった分、敵も多かったのではないでしょうか。あちらではよくあることのようです」

「会社名は」

「ノース・ヴァレイ・システム・ソリューション社です」

 帰国後は父親の会社、青木工業株式会社に就職し、死亡時まで在籍していた。

「お父さまの会社はどのような」

「従業員七人のいわゆる零細の町工場で、機械部品を作っています。不景気の影響は小さくないでしょうが、中堅電機メーカーの下請けとして長い実績があります」

 原田はつぶやいた。

「東大から一部上場企業、シリコンバレー、そして下町の工場か……」

「お話しできるのはここまでです」

 荒川が訊ねる。

「ご家族との関係はどうだったのでしょうか。特によかった方やよくなかった方などは」

「お教えできません。個々の受取人候補者について、御社が先入観を持ってしまうことになりかねませんので」

「ご家族の中に借財のある方はいらっしゃいますか」

「それも調査の中でわかるでしょう」

 ここで原田が言った。

「取っかかりも何も教えてくれないなら、あなた一体何しに来たんですか」

 小笠原弁護士は表情を変えない。怒らせたら何かぽろりと出てくるかと思ったのだが。荒川がまた訊ねた。

「ご入院はK大付属病院でしたね」

「そうです。省吾さんはそこで亡くなりました」

「省吾さんがあなたに本件を委任された理由は」

「それも、お話しできないことになっています」

「委任を受けたのはいつですか」

「入院の直後です。――すみません、ご質問は以上に願います」

 荒川が言った。

「わかりました。調査を行ってみましょう。どんな案件であれ、私どもは保険金を適切に支払うために最大限の努力をします。それが私どもの仕事ですから」

 弁護士はうなずいて、

「もう一つだけお教えしましょう。彼の渡米のとき、ちょっとした騒ぎがありました。大手メーカーに就職して二年ほど経ったある休日の朝、彼は散歩にでも行くような足取りで家を出て、そのまま帰ってきませんでした。当時は実家でご両親と住んでいたのですが、ご家族は当初、ただの無断外泊だと思っていたそうです。三日ほどしてさすがに心配になり、警察に届けようということになったとき、工場のパソコンにメールが届いた。会社を辞めた、今アメリカにいる、仕事を得たのでしばらく帰らないが心配するな、煩わしいから探すな――そんな内容だったそうです」

「ご家族は驚かれたでしょうね」

「お父さまの怒りは相当なものだったようです。メールには住所までは書いていない。打ち返しても返信はない。だからどこにいるのかわからない。カリフォルニアにいたということも、帰国後に本人が話してわかったのです」

「なるほど。かなり非常識な方だったようですね」

 原田の皮肉に弁護士は反応せず、アタッシェケースからもう一枚の紙片を取り出した。

「受取人候補の方々の連絡先です。一日も早いご連絡をお待ちしています」

 四人の名前と電話番号が記されていた。


 弁護士が帰った後、原田は書類を父親に突っ返して放っとこうぜと言ったが、荒川は家族一人ひとりと直接会って話を聞こうと主張した。

 あのな、と原田は言った。

「いくら高額だからって、一件にそんなに時間かけてどうすんだよ。考えてみろ、父親はもう受取人じゃないんだから、今ある請求書は言ってみりゃあ不備だ。つまりだな、正式にはまだ請求が来たわけじゃない。おまえの大好きな保険約款には、『保険金は請求に応じて払う』と書いてあるだろうが。請求がこないうちは払っちゃいけないんだ。そして、請求してこないのは客側の勝手だ。放っときゃいいって」

「被保険者が死亡したことを知ったのだから、会社は保険金を支払わなければならない。これは自明だ。受取人が請求権の発生を認識していないなら知らせるべきだ」

「しなくていいことをするのは事業費の無駄づかいだろう。会社の金は契約者全員の共同財産だぞ。無駄なコストをかけて、他の契約者に損をさせるのか」

「会社の義務を果たすためのコストなのだから無駄ではない。今日まで見てきたところ、総じて君の態度は職務を放棄しようとするもので、信義誠実の原則に反していると思う」

「シンギ……何だそれ」

「知らないのか。民法第一条第二項。権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。君の態度はこれに反していると思わないか」

「反していたらどうだって言うんだ。逮捕されんのか」

「特段の罰則はない」

「罰則がない規則なんて、作ったやつだって本気で守ってほしいと思ってねえよ」

「基本概念だから直接の罰則がないだけだ。個別の条項にはちゃんと盛り込まれている。行動の基軸をどこに置くかは、人間にとっても会社にとっても極めて重要な問題だ。信義のない人間は信用されず、誠実でない企業は永続しない。ぼくたちは社会人また企業として、信義誠実の原則を行動の基軸に――」

「ああ、わかったよ。あとは好きにやってくれ。もうおれは降りるからさ」

「原田」

 声に背を向け、原田はたばこ部屋へ向かった。

 ――ややこしいことに巻き込みやがって――

 二本吸った後は、終業時刻までずっと喫茶室で時間をつぶした。

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