第4話

「届いちゃってるのか……。まったくややこしいことしてくれたな、ショーちゃん」

 原田は印刷されたシートを一枚ずつ手に取って順繰りに眺めていった。最後の死亡診断書で手が止まった。

「――なあ。ショーちゃんはこれ、わざとやったのかもよ」

「何故そう思う」

 診断書には死亡日が四月六日、死因は膵臓がんとある。原田はそこを指して言った。

「名義変更の請求日は三月六日、死亡の一ヶ月前だ。字を見ると達筆とは言えないがとくに乱れてもいない。まだ意識はしっかりしていたってことだよな。これ見るとやっぱ、うっかり三通入れちゃったってのは不自然に思える」

 荒川は腕を組んだ。

「だとすると目的は何だろう。三枚の矛盾した名義変更請求書によって何が起こるかと言えば、保険会社の事務が混乱して支払いが遅れることくらいだ。それが故人の利益につながるだろうか」

「うーん」

 原田は少し考えて、すぐに音を上げた。

「わっかんねえ」

「引っかかるな」

「何が」

「契約者の意思だ。いま君も言ったじゃないか。これは故意だと」

「かもねって言ったんだ。不自然だからな。でも考えたってしかたがない。死人から話は聞けないんだからな。霊媒師でも呼ぶか」

「本当にしかたないのだろうか」

「何が言いたいんだよ」

「ぼくたちの仕事は、保険金請求を正しく査定して適切に支払うことだ」

「迅速にな。迅速ってわかるか。さっさと片づけるってことだ」

「正しい査定の第一歩は請求権者の特定だ。このケースはそれができていない。このままでは保険会社として――」

「――十分に責任を果たしているとは言えない。この三日でおまえの口ぐせは聞き飽きたよ。別に責任を放棄してるわけじゃない。わからないことをわからないって言っているだけだ。考えてみろ。この案件、三人のうち誰に払ったって絶対に揉めるぞ。でもそれは本質的には家族の問題であって保険会社は関係ない。客どうしのけんかは店の外でやってもらおうや」

「大金を払うのだから保険会社は無関係ではない。それに請求権者を特定し、請求意思を確認するのはまさに保険会社の仕事だ」

「それが無理だっつってんの」

「遺言状があるかもしれない」

「そんなものを探す義務はないね」

「家族が持っている可能性がある」

 原田は苛立ってきた。

「いい加減にしろよ。おまえはこだわるポイントがズレてんの。気を使わなきゃならないのは苦情のときだろうが。この件はただ書類を突っ返せばいいの」

 荒川はまっすぐに原田を見返す。

「ぼくはルール通りに仕事をしようと言っているだけだ。少しでも疑問に思うことがあれば絶対に放置するな。後日に禍根を残さないよう隙のない査定をしろ。それが入社のときに教わったことだ。今までこのようなケースは経験したことがない。受取人の特定が困難で、しかもそのことについて契約者の意図が感じられる。ぼくはこの案件に対して、査定担当者として大きな興味と責任を感じている。君の方針にはとうてい賛成できない」

「どうするってんだ」

「受取人を特定する」

「どうやって」

「方法はこれから考える」

 原田は呆れた。

「面倒くせえやつだな」

「面倒かどうかは問題じゃない。仕事だ」

「ふん。まあいいや。せいぜいがんばれ」

「君にも手伝ってもらう」

 原田は目を丸くした。

「冗談じゃない。何でおれが」

「君は優秀だ」

「――へ?」

「営業経験も豊富だ」

 ――調子が狂う。お世辞のつもりか――

「営業経験が関係あるのかよ」

「複数の受取人が絡む案件は、約款や法令の知識だけでなく、難度の高い顧客折衝も必要となることが多い。今の支払サービス課でこの案件を君より効率的に解決できる担当者はいないだろう」

「それって、ほめてんの?」

「そうだ」

 原田は荒川の顔をまじまじと見る。無表情。

 ――よっくわかんねえやつ――

「この契約は、五年前に東大阪支社で募集されたものだ」

「そうだってな」

「募集担当者はすでに退職していて、当時の事情を聞くことはできなかった」

「電話したのか」

 荒川はうなずいた。

「現住所は東京都大田区だ。先ほど、地区を所管している品川支社に電話して不備解消のために訪問してほしいと依頼したが断られた。担当者が忙しくて時間が取れないそうだ」

 原田は舌打ちをした。

「ちょっと待てよ。だからおれに行けってのか。冗談じゃねえぞ。客のお守りは支社の仕事だろう」今の所属にいる間は募集しても手数料はもらえない。「それに時間が取れないなんて嘘だ」

「何故わかる」

「一億だぞ。ホームレスがひと晩でセレブになれる金額だ。手続きに行けば、保険金を元手にまず間違いなく次の契約がもらえる。支社は営業部隊なんだから、ふつうなら飛んで行くはずだ。そうしないのは何か理由があるに決まってる」

「どういう理由だ」

「知るか。おおかた過去に大きな苦情でもあったんだろう」

 荒川は表情を変えない。きょとんとしているようにも見える。

「ようするにややこしい客なんだよ。ただでさえ大金を請求して今か今かと待っているおっさんに、じつはこれあんたの金じゃないんだ、って言いに行くんだぞ。騒動になるに決まってる。おそらく支社は、それがただの苦情では済まないことを知ってるんだ」

「書類を整備しなければならない」

「郵送でやれよ」

「経験から言うと、この手の案件は文書では解決しづらい。結局は行かなければならなくなる可能性が大きい。そして初動が遅れるほど解決に要する時間が長くなる」

「だったらおまえが行けって。おれはごめんだ」

「ぼくは今、新人の指導担当だ。持ち場を離れるわけにはいかない」

「勝手なことを……」

 そのとき、再び笹口佳奈子が小さな声で割り込んできた。

「あの……荒川課長代理、すみません。お電話なんですけど……」

 いつからそこにいたのか、二人の険悪なムードに割って入れずにいたようだ。

「出るよ。原田、この件はまた後で」

「行かねえぞ、おれは」

 というせりふを荒川の背中に投げつけて、原田は別フロアにある喫煙ルームに向かった。

 ――やってらんねえ――

 十三階の端にある喫煙ルームは別名毒ガス部屋と呼ばれている。申し訳程度の広さのガラス張りのスペースでは、最前線から逃げ出してきたような男たちが数人、うつむき加減でたばこをふかしていた。

 日本人の喫煙率は世界的に見ればまだ高いらしいが、それでも近年の禁煙ブームのせいで『異分子』たちは確実に追い詰められている。

 原田はじつはたばこが好きでも嫌いでもない。たばこの苦手な客に会うときは数日前から吸うのを控える。それで何の苦痛もない。ただ、喫煙者を目の敵にするヒステリックな嫌煙主義者たちのことは大嫌いだ。

 ――喫煙者を糾弾するやつは自分の口臭に気づいているのか――

 たとえばそいつは、隣りの席の同僚から「おまえの口臭のせいで仕事が手につかず、うつ病になった」と非難されたら、それは自分のせいじゃないと言うのだろうか。

 おかしいじゃないか。嫌煙権と比べてみればいい。有害な煙が発生することについて、被害者側に一切責任はない。だからそれによって健康被害が生じたらそれは全面的に喫煙者が悪いというのがやつらの主張だ。

 ――だったら口が臭いやつは金輪際、口を開いちゃいけない――

 たばこと同じ論法でいけば、口臭は嫌う人が悪いのではない。臭いやつが悪いのだ。口臭のせいで健康被害が生じたら、たばこと何が違うというのか。

 単に程度の問題だ。たばこは煙が目に見える。健康に悪いという研究が口臭よりも進んでいる。多くの人がそう思っている。だから攻撃されやすい。それだけのことだ。

 嫌煙権を声高に主張するやつらはそういうことに気づいていない。自分も加害者である可能性を棚に上げて他人を攻撃するのに夢中になっている姿は、滑稽で鼻につく。

 ――想像力が足りない――

 あるいは謙虚さの欠如。そういうことだろう。謙虚さとは、存在している限り人は誰かに嫌われると知ることだ。ものごとを深く考えようとしない人間が増え、幅を利かせている。そんな風潮に逆らうような気分もあって、原田はたばこをやめないでいる。

 吸い終わった一本をもみ消しながら、喫煙ルーム内を見まわす。

 ――どいつもこいつもパッとしない――

 次の一本を抜き出そうとして、胸ポケットのスマホの未読メールに気づいた。

 倉田遥香からだった。例のばあさんの契約の日に約束していた女だ。原田の出入りする企業の経理部に勤めていて、二年ほど前から原田とつきあっている――いや、いた。

 減給処分が決まった日、原田が腹立ちまぎれに漏らしたひと言で、彼女は事情を察した。ひどく責任を感じ、涙を浮かべて謝ってきた。おまえのせいじゃない、何度そう言ってもごめんなさいを繰り返す彼女をもてあまし、原田はしばらく避けた。面接の結果が芳しくなかったこともあって、そのまま時間を流していた。

 日に一回は届いていたメールがピタリと来なくなったのが二週間ほど前だろうか。状況としては自然消滅の八合目くらい。このまま二、三カ月もすれば過去の物語になってしまうのだろう。

 久しぶりのメールの文面はこうだった。

「会って話したいことがあります。連絡をください」

 めずらしいと思ったのは連絡をくださいという一文だった。普段はそこまでは書かない。そう書くと、返信しないことが原田の負担になると思うからだ。勝手にそういう微妙な配慮をする女だった。そういうところも重いと感じるときがあった。

 二十七歳。結婚も考えていたに違いない。いい奥さんになるとよく言われると笑っていた。実際、一緒にいると家庭的な横顔がよく見えた。しかしそういう話題を原田が嫌うことを敏感に察し、話題にしたのは一度きりだった。

 ――しょうがねえか――

 性格から考えて、別れるなら会ってきちんとしたいとか言うのだろう。修羅場にはならないにしても泣かれたりするのはかなわない。とはいえ、ずっと避けているわけにもいくまい。

 返信しようと指を構えたが、適当なフレーズ――会ってもいいが面倒はごめんだということを、あたかも当面は不可抗力であまり時間がとれないという言いかたで伝える文章――をすぐに思いつかなかったので、そのまま画面を消した。たばこは次が最後の一本だった。火をつけ、煙を吸い込む。パックを握りつぶし、煙とため息を騒々しい音を立てている旧式のエア・クリーナーに向かって吐き出す。

 倉田遥香の少しさびしそうな表情が浮かんだ。このメールを打ちながら彼女はどんな顔をしていたのだろう。こういうとき女は案外冷淡なものなのか。

 二年。原田がこれまでつきあってきた女の中では長いほうだ。容姿以外にも惹かれるところがあったのだろう。このまま終わってしまっておれのほうに未練はないのか。あるいはこうして会うのを避けているのは不誠実だろうか。

 ――約束をしたわけじゃない――

 かすかな後ろめたさはあるが、それで行動を変えるべきかどうかは正直よくわからなかった。このまま会わずに終わる予感がする。そうなれば、きっとこの恋愛も自己嫌悪の地層となって、記憶の水底に積み重なっていくのだろう。

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