第3話

 手のひらが水を叩く。

 心拍が次第に上がる。

 呼吸音が激しくなる。 

 腕が疲労で重くなる。

 肺が酸素を渇望する。

 限界が近づいてくる。だが、

 ――まだいける――

 クロール。いつもはこのあたりが限界だが、今日はもう少しいけそうな気がする。だからペースを落とさない。二十五メートルプールをあと二往復すれば自己新記録だ。

 ところが、隣りのレーンから予期せぬ波が来てバランスが崩れた。息継ぎのタイミングがほんのわずか狂ったせいで、水を飲み、咳き込んだ。その途端、思いもよらぬ早さで限界がやってきた。

 ――くそっ――

 プールの底に足をついた。

 見ると、隣りのレーンは大柄な男だった。浅黒くたくましい体つきで、こちらのことなど気にもせず軽快に泳ぎ進んでいく。

 原田は肩で息をし、端まで進むとゴーグルを外した。その横で別の男がターンして行く。

 下町近くのフィットネス・ジムは、平日の夜だというのに混雑している。仕事帰りのサラリーマンたちが思い思いのスタイルで自分をいじめている。

 筋トレマシンやエクササイズ系のプログラムもあるが、原田はまっすぐにプールへ向かう。コーチなどいらない。ただ泳ぐ。泳いでいる間、仕事を忘れる。

 たばこをやめればもっと楽に泳げるとは思うが、そこまでするつもりはない。ここに来る目的は体を鍛えることよりも気分転換だからだ。孤独なセールス職。ときに気晴らしをしないと発想が陳腐になる。判断力の維持には体力も必要だ。

 それに、ここには原田の好きな光景があるのだ。

 凪いだプールの水面である。

 一時間に一度、十分間の休憩時間が設けられている。泳者は全員プールから上がらなければならない。その間、無人の水面は鏡のように凪ぐのだ。

 プールゾーンの天井は高く、ドーム状になっている。壁に沿って這う鉄骨は大きなアーチを描き、巨大な鯨の肋骨を連想させる。その中を流行りのBGMとサラリーマンたちの思念が反響している。

 そんなカオスのような空間の底に、一枚の静謐な青い鏡が横たわっている。そのイメージがわけもなく気に入っているのだ。休憩時間が終わればすぐに乱され消えてしまう刹那的な感じも悪くない。

 息を整え、ゴーグルをつけ直す。ひじ、肩、指先、あごと順番に体を沈めていく。壁を蹴り、全身を水にゆだねる。再びクロールで進む。

 顔の左半分を水面から上げている間、左耳がカオスの騒音をとらえる。顔を水中に沈めるとそれは一瞬で消える。喧騒と静寂が交互にやってくる。クロールは生と死を行き来するのに似ている。

 生命保険の仕事は人の死にとても近い。ビジネスの根幹が絶ちがたく関わっているのだから当然だ。昼間のイメージがよみがえる。たくさんの白い鳥が、あらゆる方角から大都会の高層ビルを目指して飛んでくる光景……。

 ――いったい何人死んでいるんだ――

 来る日も来る日も、多くの死亡保険金請求書が会社に届く。たった一日、たった一社でこれほどならば、日本全国で、世界中で、人はどれだけ死んでいるのか。この世はなんと死に満ちていることか。広いフロアには査定用のPC端末が整然と立ち並んでいる。まるで墓標のように。

 日々大量の死を扱いながら、フロアには血痕も死臭もない。断末魔の叫びも聞こえない。苦しみや悲しみはサラサラに漂白され、記号となった死だけがある。保険金部で人の死とは、保険金支払いのトリガーを引くイベント情報にすぎないのだ。

 ――セールスとはまるで逆だ――

 営業の相手は生きている。一人ひとりが歴史と意思を持ち、血の通った人間だ。金に換算される記号たちも、加入のときは健康で具体的な人間だったのだ。

 水を掻く。

 塩素の匂いが強まる。

 疲労の蓄積が限界に近づく。

 やがて酸素の供給が消費に追いつかなくなる。腕が上がらなくなり、筋肉が悲鳴を上げる。脳はそれを感知し、肺と循環器系に必死で動けと命令する。ゴールまで到達しなければこの苦しみからは解放されない。止まらずに動き続けろ。限界を越えてみせろ。休むな。無様でいい。あがけ。

 最後の十メートルほどが果てしなく遠く感じられる。クロールが乱れた犬かきのようになり、息継ぎすらむずかしくなり――何とか泳ぎ切った。

 肩で息をする。水中にいたのにひどくのどが渇いている。

 まだ体力の衰えを感じることはないが、二十代前半の頃と比べれば体の切れも持久力も落ちているのはたしかだ。今日の泳ぎだって他人には滑稽に映ったかもしれない。

 しかし、こうやってあがく自分が、なぜか原田は嫌いではない。ここへ通ってくるのは、この感覚を味わうためではないかとすら感じる。そしてそれは奇妙なことだと思う。

 疲れ果てた原田がプールから上がったとき、壁の時計が七時五十分に届いた。休憩時間の始まりを告げるアナウンスが流れ、泳者は一斉に水から上がった。

 ――今日はもう限界だ――

 新記録はおあずけ。しかたない。仕事と同じで簡単にはいかない。

 やがて水面が凪いだ。原田は息を鎮めながら、じっと水の鏡を見つめた。

 喧騒と安っぽいBGMが響く空間にあって、水だけがとても静かだ。さっきまであれほどのたうち回っていた水が、何故これほど穏やかに、静かになれるのだろう。

 やがて休憩時間の終了を告げるアナウンスが流れた。泳者たちは次々と水に戻っていく。神々しかった水面が再び卑俗に歪む。水は飲みこんだ生きものたちの情念を表すように捻れ、うねる。

 原田はその変貌を見届けてから、プールを後にした。


 三日目の朝、問題の案件が届いた。

「――ん」

 荒川の口からかすかな声が漏れた。めずらしい。原田は手を止めて顔を向けた。

「どうしたい」

「名義変更だ」

「メイヘン?」

 のぞきこむと、なるほど荒川の端末画面には名義変更の請求書が表示されている。

 名義変更は支払サービス課ではなく、契約変更サービス課の所管事務だ。誤配信なら転送してやればいい。しかし荒川はそうしようとしない。しばらく画面を見つめた後、原田に向かってこう言った。

「この案件は君に担当してもらう。午後は空けておいてくれ。君には今日はもう案件を回さないよう、スキャン室に伝えておく」

「何だいきなり。どういうことだよ」

 少しムッとした原田に、荒川は横顔で答えた。

「午後一で説明する」

「今しろよ」

「情報共有はきちんと調べてからのほうが効率的だ」

「この……」

 いちいち四隅の整ったようなしゃべり方が、原田の神経に障る。

 昼休み、原田は午後一時きっかりに席に戻った。荒川に詰め寄る。

「説明してもらおうか」

 荒川はうなずくと、契約内容が記されたシートをデスクに広げた。

「契約者は青木省吾さん、三十二歳の男性で、被保険者も同じ。つまりこれは彼が自分にかけた保険だ。受取人は青木健吾さん、彼の父親となっている。現住所は東京都大田区だが、加入は五年前、東大阪支社でなされている。保険金額は一億円」

 シートの数字は1の後にゼロが八つ並んでいる。今どきけっこうな高額である。当然だが保険料、つまり掛け金も高い。セールスが得た募集手数料もかなり高額だったに違いない。

「アオキさんちのショーちゃんか。この契約がどうした」

「先ほどの名義変更請求書だ」

 荒川は、名義変更請求書をプリントアウトしたシートを広げた。一枚ではなかった。

「――三枚?」

 原田は怪訝そうな声を出した。

「そうだ。それがわからない点だ」

 並べてみると、三枚とも同じ証券番号が記入されている。つまり、すべて同じ契約の名義を変更しようとする書類だ。そして変更後の「新しい受取人」欄には、それぞれ別の名前が書いてある。

「ショーちゃん、何か勘違いしたのかな」

「三枚のうち有効なのは一枚だろう。しかし、それがどれなのかわからない」

「みんな家族なのか」

 家族以外の人物を受取人とするのは日本では原則、認められない。保険金詐欺目的が疑われるからだ。

「記入された続柄は母、妹、弟となっている」

「じゃあ断れないな」

「記入日も同じ三月六日だ。念のため加入時の書類の画像を呼び出して筆跡を比べてみた。どれも契約者自身のものに間違いなさそうだ」

 では書類の偽造でもない。

「どれも有効な請求書ということになる」

 三枚のうち正しい請求書はどれか――言いかえれば、三人のうち本当の受取人は誰なのか。これではわからない。

「こういうことか。ショーちゃんは誰にしようか迷って三枚書いた。一枚だけ送るつもりが、うっかり三枚とも封筒に入れちまった」

「ぼくも同じことを考えた。一枚と三枚では手にした感触が大きく異なるから、うっかり入れてしまったというのはあまり説得的ではないのだが、そのくらいしか合理的な説明を思いつかない」

 こっちの考えなんかお見通しってことか。原田は少し不愉快になった。

「よくわかんねえけど、名義変更なら契変サに転送してやればいいんじゃねえの」

 すると荒川はもう一枚、別のシートを取り出した。

「これを見てくれ」

 コールセンターの応対記録だ。一週間ほど前、受取人である父親から被保険者が死亡したという連絡があったので、オペレータが保険金請求書類を郵送したと書いてある。

「え。ショーちゃん、死んじゃったの」

「そのようだ」

「三十二歳って言ったよな。若いのに気の毒な」

「若いのは確かだが、それは問題とは関係ない」

「死亡だったらこっちの仕事だな。――待てよ。それってちょっとまずいんじゃないの」

 荒川はうなずいた。

「オペレータは受取人が父親だという前提で父親に書類を送ったのだろうが、契約者が生前に受取人変更の手続きをしていたことがわかった以上、父親はもはや受取人ではない。父親に払うわけにはいかない」

「書類をくれって言ってきたってことは、当の親父さんは一億円の受取人から外されたことを知らないんだろう。こりゃあ面倒だ」

「最大の問題は、新しい受取人が誰なのかわからないということだ」

「こういうときはどうすんの」

「前例を知らない」

「公平に三分の一ずつ払ってやるか。一円余るけど、それはやっぱりお母ちゃんかな」

 原田が冗談めかした口調で言うと、荒川はにこりともせず、

「それはできない。名義変更請求書は三枚あるが、どれも新しい受取人は一人しか指定されていない。『三等分して三人に』というのは一枚もない」

「そりゃそうだが、そこは大岡裁きってやつで」

「三分の一ずつ払えば、その後、すべての受取人から『残りの三分の二を払え』と請求される可能性がある」

「はあ? そんな無茶な」

「保険会社から見れば無茶かもしれないが、それぞれの受取人から見たらどうか。保険金の一部でも自分に支払われたら、保険会社が自分に受取りの権利があると認めたと解釈するのが自然だ。それぞれの受取人にとって、他の受取人の取り分など知ったことではないから、なぜ満額の一億円じゃないんだ、と言ってくるだろう」

「そんなこと言ったら、合計で三億になっちまう」

「その通り。だから訴訟になっても、裁判所が理不尽な判断をするとは思えないが、安易に三分の一ずつ払ったりすれば事態が複雑化し、解決が遠のくおそれがある。だからそんなことはすべきじゃない」

「安易ね。悪かったな」

 そのとき笹口佳奈子が二人の会話に入ってきた。原田と同じく今回の異動で支払サービス課にやってきた一般職だ。小柄で、外見はまだ高校生かというような幼さだ。

「あの……さっき荒川課長代理に頼まれた書類のコピーです」

 荒川は礼を言ってそれを受けとると、デスクに広げた。

「そして――これだ」

 父親からの死亡保険金請求書類だった。

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