第2話
荒川直樹は、入社以来十年間を保険金部だけで過ごしてきた課長代理である。
人事異動のはげしい保険業界で一か所に十年はめずらしい。社内のみならず、業界他社でもけっこうな有名人らしいが、それは在任期間の長さのせいだけではなかった。
五月十一日、異動初日。原田ははじめて荒川と顔を合わせた。
「よろしく」
「こちらこそ」
必要最小限の単語だけを発し、そのままつい、と行ってしまう。およそ愛想というものがない。年齢不詳のつるりとした顔立ち。どちらかといえば端正な部類だが、無表情で、鳥が驚いたみたいな目をしている。視線が強く、見られると訳もなく威圧を感じる。
――営業向きじゃないね――
それが第一印象だった。
支払査定には、実務に加え、医学や法律に関する専門的な知識が要る。新入りはまず表層的な研修を受ける。十人ほどの新入りが会議室に集められた。退屈な数時間の後、最後に講師として荒川が出てきて言った。
「相手によって対応を変えてはいけません」
硬質で突き放したような口調。会議室の気温が少し下がった――気がした。
「多くの請求の中には払えないものもあります。約款上の支払い要件を満たさない案件です。支払えないと伝えるとほぼ全件が苦情になります。しかし、だからといって査定結果が変わることはありません。相手が反社や警察官、芸能人や総理大臣であろうと、払ってはいけないものは絶対に払ってはいけない。脅迫まがいの圧力を受けたり、訴訟を起こされてもです。それが保険事業の根幹をなす契約者間の公平というものです。保険料つまり掛け金は年齢、性別、健康状態などのリスクに基づいて公平に算出されているのですから」
――沈黙。
「会社に届いた請求書類はスキャン室で機械に読み込まれ、査定担当者あてに画像データで送られてきます。査定は端末の画面上で行います。通常は必要項目を順番通りに入力していけば、機械が自動的に計算と振込みをしてくれます。中には高度な知識やむずかしい判断を要するものもありますので、迷ったら指導担当に相談してください。ただし、間もなくみなさんも独り立ちしていただきます。そのときのために覚えておいてください。査定の基本は三つです。厳正な本人確認、隙のない検討、そしてルール通りの事務」
原田はあくびをかみ殺した。
――相手によって対応を変えてはいけないだと――
営業の世界では考えられない。顧客一人ひとりのニーズや経済状態はもとより、性格や趣味、家庭環境、その日の天気まで配慮したアプローチを行い、次々と立ち現れる障害をいかにクリアして契約をもらうか、臨機応変の課題解決こそが仕事の醍醐味じゃないか。
マニュアル仕事しかするなというのは、担当者の個性を認めないということであり、裏を返せば誰でもできる仕事だということだ。その他大勢の一人になれということだ。コンサル営推で成績トップの、このおれに。
――馬鹿馬鹿しい――
初日の夜には歓迎会のようなものが企画されていたが、原田は適当な理由をつけて断った。五時半頃に仕事を終え、転職サイトを見ながら帰ろうとオフィスを出たところで、スマホが震えた。営業企画部の津田次長だった。
「今日からだったよな。どうだ、新しい職場は」
「ごぶさたしています。別にどうということもありません」
津田次長は三年前のコンサル営推部立ち上げのときの責任者だ。証券会社にいた原田を東西生命に引っ張ってきた張本人である。原田が初めて部内一位を取ったときは、お祝いだと言って銀座で散財してくれた。
「よく残ってくれたな」
「どこも拾ってくれませんから」
津田はハハ、と明るく笑った。
「君に限ってそんなことはないだろう。とにかく少しの我慢だ。風向きが変わればすぐに現場に戻してもらえるさ。会社だって君の適性はよく理解している」
煩わしいと思った。理由は二つ。
一つは自分が相手の期待を裏切ったという後ろめたさ。もう一つは相手の保身の心理が見えたこと。津田は、原田の不祥事が自分の責任問題になることを恐れている。採用したのが自分だから……。
問題なんか起こしやがって。これ以上おれの顔に泥を塗ったら承知しねえぞ。この電話は暗にそう釘を刺すためのものだろう。銀座の店では、おねえちゃんたち相手に原田のことをさんざん持ち上げ、自慢しまくっていたというのに……。
――さすがだねえ――
そうでなければ有能とはいえない。サラリーマンなのだから保身だって仕事のうちだ。
四十代半ばで営業企画部の次長というのは悪くない。もっと上を狙える。つまらない石ころなんかにつまずいてはいられない……。
「とにかく元気そうで安心したよ。何かあれば連絡してくれ。いつでも相談にのるよ」
思いつめて変な気を起こすんじゃねえぞ。転職するなら事前に知らせろ。翻訳すればそういうことだ。
「ありがとうございます」
採用のとき、彼は何度も原田のところにやってきて新組織のビジョンを熱く語った。次の時代のビジネスモデルをぼくたちで作ろう、そう言って原田を口説いた。青臭いと思ったが、その熱意に動かされたのも事実だ。それだけに今は色あせて見えるものがある。
スマホを切ると、地下鉄の入り口はすぐそこだった。この季節、この時間の日差しはまだ十分に明るい。そのまぶしい光のせいで、地下への階段は奈落に続く暗い穴のように見えた。
――たかが減給――
階段を下って行く。目はすぐに慣れる。いつもと変わらぬ地下の世界。そこで働く人たちだっている。
ホームに立ち、到着した列車に乗り込む。津田の電話は別におかしなものじゃない。しょせんはみな自分が可愛い。ただ、相手の言葉の裏を読まずにいられない自分の性分が、少しばかりうっとうしいだけだ。
動き出した列車の暗い車窓をにらみながら、思った。
齢をとることは幻滅の積み重ねだ。
特に、自分に対する。
異動二日目から新人は執務フロアに移り、実際に査定をやらされた。指導担当には荒川がついた。
「マニュアル通りに入力してください。わからなかったら指導担当まで」
むずかしいことは何もなかった。もの覚えの悪いやつらが何回も荒川を呼んでいたが、原田は一度も呼ばなかった。午後にはベテラン連中によるチェックがなされ、原田はミスなしと告げられた。当たりまえだ。この程度の事務がこなせなくてどうする。
他の新任者たちのチェックが行われている間、原田は手持ち無沙汰でぼんやりとフロアを見回した。
自然光をふんだんに採り入れた清潔感あふれるオフィス。OA機器の発する低い音がいかにも現代的な執務空間を作り出している。
――ここに日本中の死が集まってくる――
四方八方から飛んできた無数の白い鳥たちが、ビルの上空を旋回している光景が頭に浮かんだ。やがて分厚いコンクリートの天井が、ゴウンゴウンと重厚な音をたてて開くと、鳥たちは一斉に、このフロア目がけて舞い降りてくる……。
めぐらせた視線が荒川をとらえたとき、原田はへえ、と目を見張った。
荒川は指導の合い間に自席へ戻り、査定案件を処理していた。そのスピードがとてつもなく速いのだ。背筋をピンと伸ばしたまま、指先だけを目にもとまらぬ速さで動かしている。無駄のない動きは機能美という単語を思い起こさせた。
時おり、若手職員が書類をもって何かを相談しに来ていたが、彼は手を止めずに応じていた。話の内容までは聞こえないが、相談に来た若手の困ったような顔が、ある瞬間にぱっと明るくなるのは共通していた。荒川は面倒そうな素振りも見せず、えらそうにするでもなく、ただ淡々と応じていた。
――鉄仮面――
違うな。やつの顔を覆っているのはそんな重々しいものじゃない。もっと薄い天然素材だ。皮膚と一体化した、あるいは皮膚そのものが変化した絶対にはがせないやつだ。
こいつにあだ名をつけるとしたら何だろう。表情貧乏。冷凍淡々仮面。マニュアル系岩石男。デスマスク型事務マシーン。
そんなことを考えていると、フロアの空気がふと不穏に揺れた。見ると、法人営業部長が取り巻き二人を連れて入ってきた。原田は思わず顔を下げた。取り巻きの二人を知っていたからだ。
原田のいたコンサル営推は中途採用による精鋭部隊だが、法人営業部は昔からある生え抜きの総合職員による法人営業部隊だ。両者はいわば同じマーケットのパイを奪いあうライバル同士である。
もっとも、実際には腕も成果もコンサル営推のほうが上だ。そうでなくては後発組織の意味がない。あの二人と競合して負けたことはない。これまで成績でさんざん見下してやった。だからこそこんなところにいるのを見られたくない。
三人はまっすぐに部長席に向かった。幸い原田のことには気づかなかったようだ。
――くそ、何でこんな思いをしなくちゃならない――
原田はまたしても自分の境遇を呪った。
会議室へどうぞという支払サービス課長の誘いを断り、法人営業部長はいいよ、いいよここで、と鷹揚な態度でオープンの簡易応接に腰を下ろした。胸糞が悪くなるような演技。すぐにピンときた。
――何かミスしやがったな――
営業サイドの不始末を事務方に尻拭いさせようという魂胆だろう。
営業と事務では営業のほうが社内での発言力は大きい。まして本社の法人営業部となれば、扱う契約の大きさは桁違いで、業績への貢献度は別格だ。コストセンターでしかない事務サービス部門とは立場が違う。
つまり同じ部長でも、社内での序列はあちらのほうが数段上なのだ。保険金部長と支払サービス課長があわてて立ちあがり、直立不動の姿勢で迎えたのも無理はない。
案の定、法人営業部長は横柄な口調で次のようなことをしゃべった。
ある大口の取引先で役員が死亡した。高額の保険金を支払う段になって、これまで払い込まれていた保険料に不足があったことが判明した。加入時に登録した役員の生年月日が誤っていたのだ。法人営業部の確認もれが原因だった。
契約上、規定通りの保険料をもらわないと保険金を支払うことはできない。荒川が研修で言っていた契約者間の公平というやつだ。担当セールスがおそるおそる追加の払い込みを依頼したところ、先方は激怒した。確認もれは東西生命の責任なのだからこのままで保険金を払え、という苦情になった。
すまんがそういう事情だから、先方の要望を呑んで支払ってやってくれないか、と法人営業部長は形ばかり頭を下げた。保険金部長は困った顔になった。
そのとき自席で聞いていた荒川がすっくと立ち上がった。すたすたと簡易応接に向かうと、何かを告げた。法人営業部長が激昂した。
「当社のミスなんだぞ。それでもできないと言うのか」
「それで誤った保険料が正当化されるわけではありません。保険料率は当局に届け出たもの以外あり得ません。当社のミスは謝罪・訂正して正しい金額をもらうのが筋です」
「先方は感情的になっている。もう理屈じゃないんだ」
「保険契約の締結は法律行為であり、法律は理屈です」
荒川がピシリと言い放つと、法人営業部長は一瞬、ひるんだ。
「し――しかしだな、払込み案内は部長である私の名前で正式に出した文書だ。今さら撤回などできるか。それに向こうはそれに合わせて資金繰りを組んでいる。下手をすれば資金ショートが起きるかもしれないんだぞ」
さすがにそれは大げさだろう、と聞いていた原田は思った。大企業の資金繰りに影響を及ぼすほど保険料が高額になる契約などまず考えられない。法人営業部長は、立場が下のはずの事務部門から予期せぬ反撃を受け、動揺しているのだ。
「先方の資金繰りと保険契約とは関係ありません。正当な数値でない以上、誰の名前であろうとその書面は無効と考えるべきです。それに特定の契約だけ保険料を割引くのは、契約者間の公平性を損ねる行為として保険業法で禁じられています。どうしてもやるとおっしゃるなら、法人営業部長の責任でなさってください。ただし法令と社内規定に違反するおそれがありますので、私はコンプライアンス統括部に通報します」
法人営業部長は言葉に詰まって真っ赤になり、簡易応接のソファをガタンと蹴って立ち上がった。取り巻きとこちらの部課長が、真っ青な顔であたふたと後を追って行く。
荒川が平然とした足取りで席に戻ってくると、デスクの電話が鳴った。コールセンターからの転送と表示されている。これは課の全員の電話機に同じように表示されるが、オペレータでは対処しきれなかったややこしい苦情が回されてきたに違いないから、誰も出たがらない。
荒川は一直線に手を伸ばす。
「――そうではありません。約款がこうなっている以上、お母さまの場合はお支払いに該当しないということです。訴訟ですか。時間も費用もかかるので、できればやりたくありませんが、弊社がお客さまの裁判を受ける権利を侵害することはできませんから、ご自由になさってください。ただ、おそらく弊社が勝ちますから、お客さまにとっては無駄な時間と出費になるでしょう。おやめになることをお勧めします」
相手が電話口で何か叫んでいるのが漏れ聞こえるが、荒川はかまわず切ってしまう。年配の職員が注意する。
「苦情が拡大するじゃないか」
「正しい説明をしただけです」
「それにしても言い方があるだろう」
「期待を持たせるほうが不誠実です」
年配はやれやれ、と肩をすくめる。
ふん。堅物もここまでくると一種爽快だ。事務の世界にもひまつぶしの見世物くらいはあるらしい。周囲の一般職がひそひそ声でしゃべっているのを要約すると、次のようなことになる。
営業部門から無理難題を吹っかけられることの多い保険金部の、とくに若手の間では、言いたいことをずばりと言ってくれる荒川はヒーローだ。言われるほうの他部署から見れば煙たくてうっとうしい存在以外の何ものでもない。よく言えば真面目な正論派、悪く言えば融通のきかない堅物。それが荒川直樹だ。
部課長にしてみれば、扱いづらい反面、社内で随一の知識と経験をもつエキスパートであることは間違いなく、人手不足の時期にこいつを手放す判断はないようだ。
原田が面白いと思ったのは、本人がそんな評価に無頓着なことだった。絶賛も酷評も関係なくただ自分の仕事をしている。そういうキャラを気取るやつは大勢いるが、心底から無頓着なのはまずいない。こいつは正真正銘のほうだ。へえ。ほんとにいるんだこんな生きもの。そんな感じだ。
課長代理といえば十年選手。最初は相当にとんがっているやつでも、組織にもまれて角が取れ、妥協と効率を覚えていく時期だ。よほど空気が読めないか、堅固な自分を持っていないとこうはなれない。
――こいつはその両方だな――
こういうのが一人でもいると周囲は苦労する。とくに組織内の波風を嫌う中間管理職は。
しばらくすると部課長が戻ってきて、むずかしい顔で会議室に入って行った。見たところここの部課長はアラカワカチョウダイリという珍獣を飼い慣らして、芸を仕込むだけのスキルを持っていない。今からさっきの案件への対応を協議するのだろうが、本音では法人営業部長の要望を飲んでさっさと収めてしまいたいに違いない。しかし先ほどのやりとりは大勢の部下たちが聞いていた。珍獣にあれだけの正論を吐かれた後で、相手を優遇してやるためのどんな理屈があるというのか。
――えらいやつらの困った姿ってのは愉快なもんだ――
それが自分に降りかかってこない限りは。
帰り際、原田は荒川に呼びとめられた。
「君は今のレベルは完璧だ。明日からはもう一段上のレベルの案件を担当してほしい」
「その前にだな」
同じ課になったよしみで忠告してやるが、おまえは表情が乏しく、しゃべり方も冷たすぎる。とっつきにくい印象ってのは何かと損だぞ、とわざとえらそうに言ってやると、
「そんなことはない。そうだとしても仕事には関係ない」
と、無愛想なコメントが返ってきた。人間関係づくりのきっかけにしようと思ったのにあてが外れた。
「明日からぼくの隣りの席に来てくれ」
――マイペースにもいろいろあるが、こいつのは他人を苛つかせるタイプだ――
原田はちょっと反感を覚えた。
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