多重名義

@STKN

第1話

 人は死ぬと何になるか。

 子どもの頃、よくそんなことを考えた。

 幽霊? 銅像? ライバルの哄笑? あるいは絶対的な無?

 神話によれば鳥だという。死者の魂が身体を抜け出して空に向かって飛んでいくというイメージは、幼い頭にもすんなり入ってきた。死は天空への旅立ち。ふとんに潜って、闘いに敗れた戦士の魂が夕焼け空に舞い上がる光景を想像したものだ。

 あれから時が経ち、三十二歳の今になって原田幹夫の脳裏にあのときのイメージが甦ってきた。神話は正しかった。人は死ぬと空を飛ぶのだ。ただしなるのは鳥ではない。

 保険金の請求書だ。

 生命保険の加入率が世界最高水準のこの国では、たいていの人は死ぬと一枚の紙切れになるのだ。そして保険会社へ向かって飛んでいく。遠い記憶の中の鳥は白く輝いていた。当然だ。請求書は白い紙なのだから。

 ――ふん――

 くだらないことを思い出した。マウスを乱暴に操作しながら原田は胸の中で毒づいた。鳥だろうと虫だろうと知ったことか。人の死はただの入力データ。ここでの仕事はそういうものだ。

 毎朝オフィスに届けられる大量の請求書類を、百人以上の事務処理部隊がその日のうちに査定し、端末で処理していく。そうしないと着金が遅れて苦情になる。病気、事故、自殺。死因や年齢はさまざまだが、悲惨な事故も子どもの難病も、ここに十日もいれば慣れてしまう。日々際限なく繰り返されるルーティーン作業に、いちいち感情移入などしてはいられない。

 ――うんざりだ――

 事務処理なんて、誰がやっても同じ。だったらその他大勢の連中にやらせておけばいい。どうしておれがやらなくてはならないのか。

 早く営業の第一線に返り咲きたい。

 ――理不尽な人事め――

 原田はエンターキーを叩きながら、我が身の不運を呪った。


 確かにちょっとやりすぎたかも知れない。今になって原田はそう思う。

 営業で高級住宅街を回っているときに小金持ちのばあさんを見つけた。狙い通りだった。さっそくさまざまな「営業技術」を駆使して、大口の契約に「ご加入いただいた」。

 その月、原田は営業成績部内トップで表彰された。

 部長主催の表彰パーティへの招待、高額の販売手数料、そしてライバルたちの嫉妬と羨望のまなざし。仕事で他人に勝つというのは何度味わってもいい気分だ。数カ月間の不調の後だったから感激もひとしおだった。

 味をしめた原田は、それからの三ヶ月間で同じばあさんから合計五件の大口契約を得た。連続のトップ。収入がかなり上がったので彼は欲しかった腕時計を買ったものだ。

 ところがその数カ月後、ばあさんの息子と名乗る男が本社のコールセンターに電話をしてきて、預けた金をそっくり返せと言った。変額年金なんてリスクの大きい金融商品に自分の母親が加入したのは何かの間違いだというのだ。

 通常、契約が成立した後でそんなことを言ってきても無駄だ。たいへん申し訳ありませんがご希望には沿いかねます。中途解約ならお受けできますが、ご加入直後だとだいぶご損になりますよ。電話に出たオペレータは、マニュアルにしたがって丁重に門前払いを食わそうとした。

 しかし息子は引かなかった。うちの母親は歳が歳だし、少しだが認知症も始まっている。複雑な金融商品の内容を理解できるわけがない。おたくのセールスは、顧客に商品のリスクをきちんと説明し、理解させなければいけないのにそれをしていない。だから契約は無効だ。キャンキャン吠える子犬みたいにそうまくしたてた。

 じつは息子の言う通りだ。元本割れリスクのある金融商品を販売する業者には、顧客にそのリスクを十分理解させる義務がある。これがなされていないと契約は無効になる。そんなことを知っているのだから、この息子は保険業界かそれに近いところにいる人物に違いない。そう察知したオペレータはいったん電話を切り、再びマニュアルに従って、担当セールスである原田のところに連絡をよこした。

 ――まずい――

 なんて思わなかった。

 何しろ書類はばっちり揃っているのだ。「リスクを承知した上で申し込みます」と書かれた書面に実印までもらっている。相手の言うことが事実だとしても、証明なんかできやしない。たとえ訴えられたってこちらが負けることはない。

 ひどい話? そうだろうか。相手だって勝手なものじゃないか。母親がだまされたと思ったのならなぜすぐに言ってこないのか。運用成績が好調だった三カ月間、何も言わずに放っておいたのは一体どういうわけなんだ。

 変額年金とはようするに、投資信託みたいなものだ。株式や債券を組み合わせてできている。価格は相場次第で、一年で三倍になることもあれば一週間で半分になることもある。早期に解約すれば解約控除というペナルティもつく。

 そんな複雑な内容を七十代半ばのボケかけた年寄りが十分に理解できるわけがない。それは息子の言う通りだ。説明するだけ時間の無駄。だからこそ原田はパンフレットの大きな字だけを拾い読みして、「定期預金みたいにしっかりした商品で、心配なんてありませんよ」と、ごくごく簡単に説明をしたのだ。時間を節約してやったのだ。

 じゃ、あとはお名前書いてくださいね。はいはいここですか。相手は孫の自慢話をしながら笑顔で署名し、いそいそと実印を出してきた。それで完了。楽勝だ。そう思ったのに。

 息子との電話は水掛け論に終始した。すると相手は戦法を変えてきた。ある消費者団体に苦情を持ち込んだのだ。これはうまいやり方だ。団体は本社のお客さま相談室に事情照会をしてくる。そんなところから訊かれたら会社も優先的に対応せざるをえなくなる。

 相談室はここでまたマニュアルに従って迅速に対応した。すなわち苦情対応専門のスタッフを息子のもとへ差し向け、いくばくかの金を渡して黙らせたのだ。餅は餅屋。まったく鮮やかなものだ。長引いたら面倒だと思っていた原田の心配は杞憂に終わり、あっけなく解決した。苦情そのものは。

 数日後、原田は人事部から呼び出しを受けた。

 めずらしいことじゃない。会社が苦情に金を払った以上、所定の記録を残さなければならない。所定の手続きだ。

 殺風景な会議室で、妙に腰の低い男が調査担当だと名乗った。髪を七三に撫でつけ、黒ぶちの眼鏡をかけていた。緊張していた原田はちょっと拍子抜けした。黒ぶちは忙しいのにごめんねえを連発しながら、型通りの質問をしてきた。原田は神妙な顔で私はちゃんとご説明しましたと答えた。

 これだって嘘じゃない。少しばかり小さな声だったかも知れないが……。認知症なんて全然気づきませんでしたし、理解されていないなんて思いもしませんでした。だってお客さまは書類に実印までついているんですよ。こんな論法は保険のセールスなら誰だって心得ている。黒ぶちは、うんうんなるほどそうだよねえ、としきりにうなずいた。これは単なるセレモニーで、今後は十分注意してよねえ、そんな小言をもらっておしまいだと思った。

 ところが予想外のことが起こった。黒ぶちは件の契約の申込書類をばさりと机の上に抛り投げると、ある箇所を差してこう言ったのだ。

「ここの○印だけどさあ、やけに筆圧が高くて、きれいな形をしているよねえ。まるで七十五歳の女性ではなくて、三十代の男が書いたみたいだ」

 その通りだった。ばあさんの動作があんまりとろいものだから、苛ついた原田が代筆したのだ。その日は女との約束があった。

 次の瞬間、黒ぶちは急に鋭い口調になった。

「これはおまえが書いたんだろう」

 豹変に気圧された原田は、つい認めてしまった。それが決め手になるとは思いもせずに……。

 じつはこの時期、株価の下落による変額年金の元本割れをめぐる苦情が全国で多発していた。これに対し、監督官庁である金融庁が実態調査に乗り出す構えを見せたので、あわてた営業管理部門が社内ルールを改正していたのだ。○印一つでもセールスが代筆すれば『不適切な募集手続き』に分類されるように。

 一週間後、人事部から処分通知が届いた。原田は目を疑った。

 ――減給。

 解雇、降格に次ぐ重い処分である。減給の額は知れているが、処分が下ったという事実が重い。東西生命での原田の経歴に決して小さくない×印がついた。

 それと同時に、例のばあさんからもらった五件の契約はすべて取り消し――つまりなかったこと――になり、合計で約三千万円に上る保険料は全額返金されることになった。

 無論、原田の手数料も会社に返上である。一回の給与では精算しきれないというので、分割で天引きされることになった。明細にあのパーティの料金まで含まれていたことが原田の神経を逆なでした。後には不名誉と、高級腕時計代の引き去り記録だけが残った。

 人事処分が社内で公表されることはない。しかし大きなケースの情報はどこからともなく漏れていく。人事が見せしめのためにリークしたという噂もある。

 コンサルティング営業推進部のエースが処分されたというニュースは、またたく間に本社ビル内を駆けめぐった。気がつけば、数ヶ月前には目に嫉妬の色を浮かべていたやつらが、今はうす笑いを浮かべて原田を見下していた。

 一年後輩に原田とトップを争う内田精二がいる。派閥が趣味のギラギラしたやつ。彼が廊下ですれ違いざま、歪めた口でこうつぶやくのが聞こえた。「ふ。ざまぁ」。

 原田は誓った。

 ――見ていろ。すぐに挽回してやる――

 ところがそうはいかなかった。処分は減給だけで終わらなかったのだ。何と異動が決まった。営業の第一線から、事務サービス部門へ。

 ――馬鹿な――

 部長から手渡された異動通知には、見慣れぬ部署の名が書かれていた。

 職種は総合職員なのだから、人事制度上はあらゆる部署への異動がありうる。しかし自分は営業枠での中途入社だ。経歴や適性、入社の経緯を考えれば事務部門への異動など本来はあり得ないはずだ。

 たしかに数カ月間、不振が続いていた。普段は大口の企業保険ばかり募集しているのに個人契約に手を出したのは、背に腹は代えられないほど成績が苦しかったからだ。その月はあてにしていた大口の二件がほぼ同時にポシャった。

 とはいえ入社から三年、会社には十分に貢献してきたつもりだ。誰もできなかった大口の新規開拓をいくつも成し遂げた。他社の縄張りに食い込んで大きなシェアを奪いとった。そんな例ならいくらでも挙げられる。不調はあくまでも一時的なもの。誰が見たって明らかだろう。それなのに、役所からの風圧が少し強くなっただけでこの仕打ち。

 ――辞めろということか――

 唇をかんだ。

 原田は、東西生命が三年前に新設した大卒男性による法人向けセールス部隊「コンサルティング営業推進部」の一期生だ。

 バブル崩壊以降、生保各社は既存の主婦中心、いわゆる保険のおばちゃん部隊に頼った営業モデルに限界を感じ、販売ルートの多様化を進めてきた。コンサル営推の設立もその一環だ。おばちゃん部隊に比べて待遇が格段によいかわりに、一人あたりのノルマも大きい。得意先も大企業や経営者層が多い。

 原田はかつて自動車販売会社でセールスをやっていた。営業手腕を買われて証券会社に転じ、さらにスカウトされて東西生命に移った。転職のたびに収入は上がっていった。

 会社というのは何かしらモノを売って成り立っている。車や電化製品のように形のあるものだろうと、保険のように形のないものだろうと、本質はあまり変わらない。そして売るためには、顧客と会社をつなぐ営業の機能が不可欠である。

 つまり営業とはあらゆる会社に必要な機能なのだ。だからこそ真に優秀なセールスはどんな不景気になろうと仕事にあぶれることはない。

 一方、事務仕事はその補助に過ぎない。重要性、難度、使える経費の額、どれをとっても営業のほうが上だ。会社に収益をもたらすのは社外との接点である営業以外にありえず、事務組織はそれを支える裏方だ。少なくとも原田にとってはそうだった。

 ――その裏方に回れだと――

 冗談じゃない。原田はただちに転職の準備を始めた。真っ先に考えたのはライバル生保だった。国内の大手はどこも似たような大卒男性の営業部隊を持っている。

 卒業以来セールス一筋で三十歳を超え、金融それも生命保険は肌に合っていると感じていた。実績も固定客もあるのだから転職なんて簡単だ。そう思って立て続けに二社の面接を受けた。ところが結果は芳しくなかった。一社からは直前に枠が埋まってしまったと告げられ、もう一社はボーナスの算定方法について折り合いがつかなかった。

 転職はタイミングが大事である。不本意にも異動日までに内定が出なかった。いっそ辞めてしまって転職活動に専念することも考えたが、直前の職業がプータローでは履歴書の見栄えがよくないし、現在の高給を条件交渉で使わない手はない。

 ――少しの我慢だ――

 原田は結局、腰かけのつもりで異動に応じた。異動先は保険金部・支払サービス課。そこでの仕事は、朝から晩まで請求書類の記載通りにデータを端末に入力していくことだという。そんな仕事が面白いわけがない。

 ――すぐにいなくなってやる――

 それが二〇〇九年の春の終わりのことだった。空は高く、街をさわやかな風が吹き抜けていた。そのさらりとした風のように、東西生命・支払サービス課での職務経験は、原田幹夫のサラリーマン人生の中でもっとも印象の薄い数カ月間になるはずだった。

 そこにあいつがいなかったら。

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