【怪異】行方不明者の出ている団地を調査したら…【ガチ】
山本冴子はシングルマザーだ。
10年間連れ添った旦那とは、3ヶ月前に別れた。
原因は―――…正直に言えば、これといった原因はなかった。
10年前、彼女は夫の事を確かに愛していた。
必ずキスをして夫を見送っていたし、夕飯は必ず一緒に摂った。
それが変わってしまったのは、7年前に娘の優香が生まれてからだろうか。
優香が生まれてから、彼女の中で本当に大切だったものが変わってしまった。
何よりも、娘が最も大切になったのだ。
だから、休みの日に何もせずテレビを観ている夫が疎ましくなった。
可愛い優香の面倒だけを見て、ゴミ出しもしない夫が疎ましくなった。
時折思い出したようにキッチンに立ち、不味い料理を作って出す夫が疎ましくなった。
夫など居なくても、いや、居ないほうが、私がちゃんと優香を育てられる。
そう思ってしまった。
10年の間に溜まった『嫌』が離婚という形になったのだ。
冴子と優香は、郊外のマンションに引っ越した。
夫はローンを組んで家を建てたが、使いづらいキッチンに、狭い浴室の、あの家のことが嫌いだった。建てる時には、お互いに相談して建てたはずだが、それでも気に食わなかった。
それと比べれば、新天地は素晴らしい場所だった。
築30年の古いマンションだったけれど、リフォームによって別物になっている。収納も多く機能的なアイランドキッチンに、優香と二人で入っても余裕のある大きな浴槽。ランドリールームにはドラム型洗濯機も置ける。トイレが少し狭いけれど、そんなものは彼女にとって些細な事だった。
「ゆーかちゃん! 遊びましょ!」
「いまいくー!」
「またあの変なお姉さん達来てたよ!」
「え!? ホント!?」
引っ越して直ぐに、優香には友達が出来た。
階下の部屋に住む大沢さんの娘だった。
「お母さん、エリちゃんと一緒に公園で遊んでくるね!」
「ええ、行ってらっしゃい。5時までに戻ってくるのよ?」
「はーい!」
夕飯のシチューを焦がさないようにかき混ぜながら、玄関を飛び出していく娘の背中に声を掛ける。
公園とはこのマンションの公園のことだ。
マンションのリフォームに伴い公園も改装され、安全な遊具と広い芝生に変わっている。昔は、錆びたブランコと不安定な滑り台、いつも枯れてる花壇があった公園だった。
戻ってきてよかった、と冴子は思う。
かつて、彼女はここに住んでいた。
彼女は7歳まで、リフォームされる前の、このマンションに住んでいたのだ。
もう25年も前のことで、記憶は曖昧だったけれど、あの枯れた花壇だけはやけに印象深く覚えている。
いつも枯れているので、きっと花を育てる係の人が水やりをサボっているのだと、幼馴染のリンちゃんと話した。
二人でブランコを漕ぎながら、マンションを見上げた。
その巨大な灰色の壁は、夕日の影になると巨人のように見える。屋上の給水塔が、まるで頭のように見えるから。
確か、あの時―――…
「でも、あのタンクに水がいっぱい入ってるんだって。パパが言ってた」
「じゃあ、タンクの蛇口を捻れば、水やりもできるし、お花に水もあげられるね!」
「すっごい! 滝みたいになりそう!」
「虹もできるかな!?」
「見てみたいね!」
リンちゃんと、そんな話をした。
そんな幼馴染のリンちゃんは、いつの間にか遊びに呼んでくれなくなった。
公園で待っていても来ないし、学校にも来なくなってしまった。
そうこうしている内に、リンちゃんの家族は引っ越してしまった。
どうして来なくなったのか、どこへ行ってしまったのか、自分のことが嫌いになってしまったのか―――…
あのときは悲しくて、とても悩んだ。けれど、ここへ来るまで忘れてしまっていた。
ふと思い出し、物憂げな気分になる。
窓から見える夕日が、あの頃と変わらない強い光となって差し込んでいた。
ポタ―――…
ふと、天井から水が落ちてきて、頬に当たる。
「え? 何…? 雨漏り…?」
雨は降っていない。
給水塔から水が漏れてるのだろうか?
「嫌だわ…。明日、大家さんに連絡しないと…」
後日、大家さんが呼んだ業者に天井を調べてもらったが、別段雨漏りの原因は見つからなかった。
雨の日が来るまで様子を見てみましょう、とのことだった。
「きっと給水塔だわ。アレから漏れてるのよ。25年前から形も変わってないし、きっと老朽化してるんだわ。あっちも見て頂戴。」
「あれはちょっと管轄が違うんですよね…。もしまだ雨漏りするようならそっちが原因だと思いますんで、また連絡してください」
冴子は不満を感じた。
集合マンションの管理者なんて、どいつもこいつも適当な連中ばっかりだと思った。
ポチャン――――…
まただ。
今度は入浴中に、水滴が湯船に落ちてきた。
入浴剤によって薄緑になった湯船の中に、じんわりと、暗い色の水が広がる。
汚い、と冴子は眉を潜めた。
直ぐに湯船から出て水を捨てた。
ポチャン―――…
ポチャン―――…
2つの水滴が、夕食中に落ちてきた。
淹れたばかりの紅茶のカップに水が落ち、綺麗な透き通る赤の紅茶が濁る。
「何なのよ、これ…!」
冴子は再び大家に電話し、業者を呼びつけた。
「絶対にあの給水塔が原因だわ! 市でもなんでもいいから連絡して、調べて頂戴!」
「は、はぁ…」
濁った紅茶のカップを見せて言う。
天井からは、ポタリ、ポタリと、薄く濁った汚水が滴って、テーブルの上を汚していた。
水が滴っている惨状を見たならば、調査せざる得ない。
水道工事業者の男は、直ぐに関係各所に連絡を入れ、屋上へと向かった。
そうして、数時間。
待てど暮せど、男は戻ってこない。
「ちょっと、お宅の雇った業者がバックれたんだけど!?」
『いえ、そんなはずは…』
「すぐに変わりの人を呼んで頂戴! 雨漏りが止まらないんだから!」
冴子は大家に電話で怒鳴りつける。
背後では、天井から滴る黒い水がポタポタと落ちてきている。テーブルの上は、薄い墨を零したようになっており、いまは鍋を置いて雨漏りを受け止めているが、鍋の中も黒く濁っていた。
雨漏りのせいで、せっかく作った夕食がダメになってしまったので、冴子は出前を取ることにした。
「わたし、ピザがいいー!」
「そうね、偶には悪くないわね」
優香の進言で、夕飯はピザをとることにした。
大家の呼ぶ別の業者とピザ屋。一体どっちが先に来るだろうかと思っていると、階下が何やら騒がしい。
窓の外を見れば、赤いランプが瞬いている。
公園に人だかりができ、警察と消防隊が何かを調べていた。
「一体何かしら…? 優香、ちょっと見てくるわね」
「うんー」
エレベーターを使って階下へ向かう。
ポタ―――…
エレベーターの中でも雨漏りだ。
リフォームしたと聞いたけれど、古いマンションだ。雨漏りくらいするのかもしれないが、これはあまりにも酷すぎる。
家賃が安いからと選んだ冴子だったが、後悔し始めていた。
「あ、山本さん!」
「大沢さん。一体何があったんですか?」
「いやね、それがね…、なんだか、自殺みたい」
「えぇ…!?」
「屋上からね、落ちてきたみたいなのよ…」
「い、一体誰が…?」
「水道の業者さんみたいなんだけど、でも変なの。墨を浴びたみたいに、全身真っ黒になちゃってるらしくって―――…」
「え…?」
冴子は思わず、マンションを見上げる。
月のない夜の闇は深く、マンション屋上の給水塔は良く見えない。
だけど、巨人の頭は変わらずそこにある。まるで彼女を見下ろすように。
不気味に感じ、冴子は直ぐに部屋に戻った。
まだピザも、次の業者も来ていなかった。
その誰よりも早く、警察がやって来た。
冴子は正直に、落下死した男は雨漏りが酷いので大家に連絡して呼んだ業者だと、何もかも説明した。警察官もそれはわかっていたようで、音声メモを取りながら頷いている。
「あ、あの、こ、これからどうされるんですか…?」
「屋上で現場検証を行います。もしかしたら、少し騒がしいかもしれません。ご了承ください」
「は、はぁ…」
「それより、確かに水漏れが酷いですね」
警察官に言われ、振り返る。
いつしか、ポタポタと落ちているだけの雨漏りは、チョロチョロ…と、小水のように流れ落ちていた。
長い、長い夜だった。
時計はもう、22時を過ぎていた。
階下の警察車両のランプがずっとチラチラと瞬いている。
雨漏りの勢いは衰えていない。もう何度も鍋を代えた。直ぐに薄黒い水で一杯になってしまう。
一体何だと言うのだろう、と、流れ落ちる水の受け皿を入れ替えながら、冴子は思う。
優香は私が育てると決めて、夫と別れて新生活を始めたばかりだというのに、こんな事件まで起こって…。
一体何が悪いというのか。私達は平穏に生きたいだけなのに。
サエちゃん―――…
「優香? 今、何か言った?」
「んーん? 何も言ってないよ?」
幼い女の子の声がした気がした。てっきり優香の声かとも思ったが―――…
「それより優香、もう遅いから。お風呂に入って寝なさい」
「え、でも、その水はどうするの?」
「警察の人も調べてくれてるから大丈夫よ」
「うん…」
優香はリビングを出ていった。
残った冴子は、ジョロジョロと流れ出る黒い水を暗鬱に見つめる。
その時、絶叫が落ちてきた。
思わず窓の外を見る。
先程見かけた警官と目が合う。彼は、そのまま逆さまに階下へ落ちていった。
「え…?」
途端、背後で天井から流れ落ちる水が勢いを増す。
天井を突き破る勢いで、粘性すら帯びた黒い水が吹き出してきた。
「きゃあああああ!」
冴子は悲鳴を上げ、リビングを飛び出す。
「優香! 優香!」
何か、尋常ではない事が起きている。それは間違いない。
危機を感じ取った冴子は、愛娘の名を呼びながら風呂場へと向かう。
風呂場の扉が開いていて、真っ黒な粘液に塗れた少女がその入口に倒れていた。
「ゆ、優香!?」
慌てて小さな体を抱き上げる。
リビングを見ると、黒い粘性の液体は留まるどころか勢いを増し、ジワジワと部屋を浸していった。
逃げなければならない、と、冴子は本能で感じた。
どこか、安全な所に逃げなければ。
真っ先に思いついたのは、夫の家と彼の顔だった。
「ッ…!!」
とにかく、ここから逃げようと、冴子は玄関から飛び出す。
玄関の外にも、粘液が滴っていた。
このマンション全体を覆い尽くそうとしているかのように。
廊下を駆ける。
エレベーターのボタンを押した。
「早く、早くしなさいよ!」
カチカチカチと、何度もボタンを押す。
「優香、しっかりして…」
抱いた優香を見る。
異臭を帯びた黒い粘液に包まれた身体は酷く冷たく、微動だにしない。
お風呂に粘液が落ちて、それに飲まれて溺れてしまったのかもしれない。
一刻も早く病院に連れて行かなくては。
「早く来なさいよ! このポンコツ!」
25年前のあの頃から、このエレベーターは恐ろしく遅い。
それが彼女の唯一の誤算だった。
「お母さん?」
自宅の玄関から、優香が顔を出す。
「大声を出して、どうしたの…? それに、リビングの水は―――」
「え…」
優香が居る。
ならば、今抱いているのは―――…
『サエちゃん、遊びましょ…』
恐る恐る、抱き上げた黒の粘液に塗れた少女を見る。
粘液に覆われているけれど、その顔、その輪郭、間違いない。
「リン、ちゃん……」
7歳のころ、居なくなったリンちゃんの変わり果てた姿がそこにあった。
『わたし、わたしね、屋上で面白い場所を見つけたの…。ねぇ、一緒に行こ』
ガシッ、と、リンちゃんの小さな手が、恐ろしい力で冴子を腕を掴む。
『一人は寂しかった…。サエちゃんが来てくれて、嬉しい…』
「い、嫌ッ!」
慌てて引き剥がそうと藻掻く。
しかし、黒い粘液がリンちゃんの目や鼻、口や耳からドロドロと溢れ出し、冴子の身体を覆っていった。
「お母さん!!」
「優香! 優香! 逃げて!!」
母が何かに襲われていると察し、優香が冴子の元へ駆け出そうとするが、彼女はそれを遮った。
「優香は逃げて! お父さんのところへ行くのよ!」
「そんなの、やだよ! お母さんと一緒に行く!」
「わ、私は―――」
『サエちゃん…。ねぇ、一緒に行こう…?』
初めて出来た友達を見た。
変わり果ててしまった彼女は、それでも、あのときと変わらぬ笑顔を冴子に見せている。
「私は、リンちゃんと―――」
「ダメ!! お母さんは渡さない!」
それは、親譲りの気性か。
毅然とした表情で、優香はスマートフォンを怪異に向けた。
「怪異はここだよ! お願い! めっさつちゃん!」
チン――――…
冴子とリンちゃんの背後で、エレベーターが到着を告げた。
冴子は、思わず振り返る。
エレベーターが開き、その明かりが黒い水を裂く。
いや、違う。
それは、光を照り返す白刃だった。
リンちゃんの頭部を、大太刀の刃が貫いている。
『グェッ……え…? な……あ……ぁ?』
刀を握るのは、制服姿で、おかっぱ頭の、マスクの少女。
優香が先日、団地の公園で出会った、怪異を探しているという変なお姉ちゃんだった。
YouTuberだと名乗る謎のお姉ちゃんの連絡先を知っていた優香は、異変が始まった段階で、既に彼女に通報していたのである。
『さ、サエちゃ…ん…助け……』
冴子を掴んでいた強い力が、急に弱まる。
冴子は思わず、リンちゃんを突き飛ばした。
『サエ…ちゃ……』
ずぶり、と刀が引き抜かれ、リンちゃんは廊下に倒れ伏す。
初めて出来た、大切な友達に見捨てられたという、絶望に目を見開き、声にならない声で嘆きながら。
その口に再び大太刀が突き刺さり、その衝撃と痛みに、怪異の小さな身体が跳ねた。
そして今度こそ、動かなくなった。
黒い塵となって、消えていく。
周囲を濡らしていた粘液も同じように消えていく。
冴子の思い出と一緒に、何もかも。
翌日、警察の手によって本格的な調査が行われた。
その結果、マンション屋上に設置された老朽化した給水塔は、リフォーム時に手掛けられておらず、”その中身”も残されたままだったことがわかった。
給水塔の底から、児童の遺体が見つかったのである。
残った骨の状態から、行方不明となっていた刑部 凛ちゃん(当時7歳)と判明し、リンちゃんは25年ぶりに、両親の元へ戻ることになった。
この怪異事件による死者は1名。最初に給水塔を調べるために屋上へ向かい、”リンちゃん”に投げ落とされた水道業者だけだった。
同じく現場検証に屋上へ登った警官は、”リンちゃん”と遭遇し、被害者と同様に階下へと投げ落とされたが、偶然通りかかった高校生によって救助され、軽傷で済んだ。彼は一週間ほどで職務へ復帰し、現在はこの事件を武勇伝のように語っているという。
”リンちゃん”に襲われた冴子と優香にも外傷はなく、事情聴取後、母娘はすぐにマンションを引き払い、別れた夫と復縁して一緒に住み始めたとか。
そして、6階建てのマンションから落下した警官を受け止めて救助し、”リンちゃん”を殺したという高校生の足取りは、結局最期まで掴むことは出来なかった。
この事件は、怪異による事件ではなく、給水塔のメンテナンス不足による不幸な事故として処理され、世間に真実が公表されることはなかった。
だが、
怪異抹殺YouTuber めっさつちゃんのめっさつちゃんねるに、新しい動画が投稿された。
アクションカムで撮影された動画だったが、深夜で光源が少ないことと、あまりに激しい動きにブレ防止機能が作用せず、何がなんだか分からない動画ではあったものの、音声や映像の一部から、この事件と強い関わりがあるとわかった。
例によってその動画も、投稿から約2時間で、権利者からの申立により削除されてしまったわけだが―――…
投稿されたのが2時間という短時間にも関わらず、今回は、歴代で最も視聴数とグッド評価が多かったという。
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