機材を新調しました。アクションカム、いいですね。

 某大企業の支店勤務のその女性は、今日も膨大な残業をこなし、終電を降りた。

 ここからは徒歩になる。

 いつも乗る快速列車が駅に到着する直前まで、夢現の境界を揺蕩っていた彼女は、ぼんやりする意識をフル稼働させ、これ以上の労働を拒否する肉体を使役して、深夜の帰路をフラフラと歩き出した。

 人もまばらな改札を抜け、ロータリーをなぞるように進む。

 いつもなら、このまま片側二車線の大通りに出て、駆け抜けていく車のヘッドライトに照らされながら帰宅する。

 だが、線路に沿って設けられた自転車置場が彼女の目に入る。

 大通りまで行かずとも、この自転車置場と、その先につながる細い路地を使えば、彼女が左折する道まで抜けられる。時間にして約10分の時間短縮だ。

 普段であれば、薄暗く狭いこの道を使おうとは思わない。

 何故なら、誰もいない暗がりには何が潜んでいるかわからないからだ。数ヶ月前にも、ここで痴漢があったらしい。

 だけど、今の彼女は労働によってズタボロだった。一刻も早く身体を休めたい。

 そして何より、大通りなんか通ったら、何かの拍子に走る車の前に飛び込んでしまうかもしれなかった。

 だから彼女は自転車置場を抜けていくことにした。


 自転車置場には、心もとない小さな明かりが灯ってる。

 昭和に生まれ、平成の間に忘れ去られたこの自転車置場に、新世紀の技術革新は訪れておらず、LED電球などという文明の利器は利用されていない。

 パチパチと、死にかけの白熱灯が、揺れる灯籠の火のように暗い道を照らしていた。

 意を決する、なんて、そんな必要はなかった。

 彼女は虚ろな視線のまま、自転車置場へ踏み込む。

 不意に冷たい風が吹いた。深夜の冷たい風。

 夏であれば心地よいはずのそれは、粘着くような湿気を帯びていて、その冷たさと相まって、風邪を引いてしまいそうだと思った。

 いっそ、そうなってしまえばいい。

 だって仕事を休めるから。

 コツ、コツと、むくんだ足を収めるハイヒールが、ひび割れて色褪せたアスファルトを、橋の強度検査のように叩いていく。

 ちか、ちかと、頭上の白熱灯がメンテナンスの必要性を訴えている。自分が消えてしまえば、この道は暗闇に支配されてしまうぞ、と。

 いや、違うかもしれない。

 彼は、もっと別のことを訴えていたのかも。

 パチッ、と短い悲鳴を残して消えて、本当に伝えたいことはわからなくなった。


「何よ、もう」


 急に暗くなり、彼女は悪態をつきながら携帯を取り出す。

 暗証番号を入れる直前、メールの通知から21件も新規メールが届いているのが見えた。

 何もかもが暗鬱になる。

 件名からして、明日の業務に関わることのようだ。

 どうしてこんな時間にまでメールが来るんだろう。

 打ってるやつは、休んでないのか?


「クソだわ」


 スマホを投げそうになる気持ちを抑える。

 暗い夜道を照らすには、そのか細い光がどうしても必要だから。

 暗証番号を入れると、一瞬の暗転の後にメニュー画面が開く。


「――――」


 そう、一瞬の暗転。

 その一瞬、鏡のように自分自身の顔が映る。

 その背後に居る者も、偶然映ってしまう。

 映ってしまった。

 恐る恐る、振り返る。

 一瞬見えたそれが、働きすぎの自分の見た幻覚であることを信じて。

 けれど、現実は夢よりも奇なることがある。

 怪異とは、そういうものだから。


「ひっ―――」


 手からスマホが滑り落ちた。

 幸運か、不幸か。

 落ちた面は表。

 スマホの心細い光が、フットライトのように真後ろに佇むを照らし出した。


 ひふぅぅぅぅ――――…


 一言で言い表すのであれば、それは、ゴミ袋になった肥満男。

 詳しく言い表すのであれば、それは、全身がビニール生地のようなぬらぬらした質感になった異形の男だった。横にも縦にも巨大なそれには目も鼻もない。全て、ビニール生地の下の押し込んでしまったかのように、かつての輪郭だけがそこにある。

 ただし、口だけはあった。

 でっぷりと肥え太った腹部に、横一文字に紅い裂け目。

 ギチギチと、不揃いの歯で歯軋りしながら、臭う唾液を零してる。


 ふひゅぅぅぅぅ――――…


 異形の口歯の間から溢れる音は、果たしてこの男の声なのだろうか。それとも、風の音か。

 ぬらぬらと粘着く粘液を、煮込んで気体化させたような、粘着く冷たい風が、男の口から溢れてくる。


「ひあああああああぁぁぁっ!?」


 悲鳴を上げつつも、聡明な女性は駆け出した。

 踏み出して直ぐに、パンプスを脱ぎ捨てる。走るのには、パンプスのヒールがどう考えたって邪魔だから。

 これが、時間を稼ぐという功を奏した。

 ゴミ袋男は、投げ捨てられた女のパンプスの片側を拾い上げると、腹部の口を大きく開き、パクンと一飲みする。


 うめえええぇぇぇ―――…


 咀嚼する腹部の奥底から、歓喜の声音が響いた。

 そして、腹部の口は三日月に笑む。


 もっとぉぉぉぉぉぉ―――…


 半ば転がるように、ゴミ袋男は逃げる女性を追い始めた。

 その速さは尋常ではない。

 山の斜面を転がり落ちてくる落石の如く、はみ出した自転車をその贅肉で押しやり、ガシャンガシャンと大きな音を立てながら、男は女性に迫る。

 女性はというと、早くも靴を脱ぎ捨てたことを後悔していた。

 古いアスファルトの地面は、薄暗いことに加えて小石が多い。

 一つ踏み締めてしまえば、それが足を踏み出す恐怖になる。

 二つ踏み締めてしまえば、足裏が裂ける。

 三つ踏み締めてしまえば、苦痛となる。

 逃げるための足は、どんどん鈍っていた。


「うっ、うぅぅ…!」


 荒れたアスファルトにつま先が引っかかり、爪が割れた。

 その痛みに、彼女はバランスを崩してしまう。

 滑るように転んだ彼女は、思わず振り返った。

 背後から迫ってくるゴミ袋の異形は醜悪に嗤っていた。

 どうしてこんなことに、と、女性は激しい後悔を覚える。

 あの時、近道しようと思わなければよかった、と。

 あの時、残業なんてせず帰ればよかった、と。

 自分ばかりがいつもババを引く。

 就職先も、私生活も、いつもいつも、最悪ばかりだと。

 こんな人生ならば、早く終わっておけばよかったと。


 しかしながら、それは間違いだ。

 彼女が、今こうして涙を浮かべ、後悔しながらも逃げ果せているのは、幾つかの小さな幸運と、選択の”正解”を引いてきたからだ。

 あの時、スマホを見なければ、頭から怪異に食われていただろう。

 あの時、大通りに出ていれば、別の怪異によって車列に誘われてたかもしれない。

 そう、彼女は幸運だ。


 が、悲鳴を聞きつけてやってきたのも、彼女が幸運だからだ。


「今日は大量。カメラをいちいち設置しなくてよくなったから、数を稼げていい」


 澄んだ声は、道に倒れた女性の頭上から聞こえた。

 見上げた女性は、すぐそこに、刀を手にした制服の少女が立っているのを見た。

 暗くてよくわからないが、マスクのようなものをしていた。

 首から、小さなアクションカメラのようなものを提げていた。


「あ、貴方―――」


 倒れた女性が声をかける。

 貴方も逃げろと言うつもりだった。


「私?」

「そ、そうよ! 貴方も逃げないと―――」

「どうして?」

「ど、どうしてって…」


 怪異は目の前に迫っていた。

 二人を一度に飲み込もうと、腹部の口を最大にまで広げる。


「ひっ」


 もうダメだ、と女性は目を閉じる。

 それも幸運だった。

 真っ二つになった怪異など、吐き気を催してしまうほどグロテスクだから。

 人を喰う怪異の最期など、見るに堪えないのだから。


 少女の刀から放たれた斬撃は、自転車置場の頼りない白熱灯の光によって白刃に瞬き、黒いビニールの巨体に走った。

 ゴミ袋男は両断され、そのままの勢いで滑っていって、どす黒い血のようなものを撒き散らしながら、道の両側に広がる自転車の群れの中に突っ込んでいく。ガシャンガシャンと、放置自転車達が骨折して悲鳴を上げた。

 やがて音も止まり、静かになる。

 2つになった怪異は完全に動かなくなって、シュワシュワと、泡が溶けるように消えていく。

 覚悟した結末が訪れず、女性は恐る恐る目を開ける。

 眼の前には、何もない。

 あの醜悪の怪異の姿はない。

 ただ、振り返る気にはならなかった。

 代わりに、傍らの少女を見上げる。

 そこには、刀を鞘へと収める少女がいた。


「あ、貴方は、一体―――…」

「ゆーちゅーばー」


 滅殺と描かれたマスクをした、おかっぱ頭の少女は振り向いた。


「チャンネル登録、よろしくお願いします」




 結局、そのライブ動画も権利者からの申立により直ぐに削除されてしまったのだが、怪異抹殺系YouTuber めっさつちゃんねるのチャンネル登録数は1件増えていたという。

 

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