33.恋人と義母(1/2)
……ピ、ピ、ピ、ピ……
弱々しく鳴る心電図の音を聴きながら、私は健治の顔を丸椅子に座って覗き込んでいる。
健治の胸が呼吸することで、布団が少しだけ上下する。
こうして見ると、本当にただお昼寝をしているだけのように見える。今にも不意に目を覚まして、「おはようお母さん」と言ってきてもおかしくない。
でも、そんな風に起き出すことは、きっと……。
「…………………」
私は一体、どうしたらいいのだろう。
健治まで私の元から離れてしまったら、もう生きていけない。健治の帰ってこない家に一人でいるなんて、耐えられない。
「……健治」
小さな声で息子の名を呼びかける。
反応はない。ただただ無慈悲に、いつもと同じように心電図の音だけが聞こえるばかり。指先ひとつ動かない。
「…………………」
私は、足元に置いていた紙袋の中から、とあるアルバムを取り出した。それは、健治の小さい頃が写っているアルバムだった。
生まれて間もない頃。ミルクを飲んでいる頃。初めてはいはいした頃。初めて歩いた頃。初めて保育園に行った頃……。
そういう健治の思い出が、このアルバムにはたくさん詰まっている。
ああ、今の健治にも、その時の面影がある。寝ている時の顔は、赤ちゃんの頃から変わっていない。
「……あかいめだまの、さそり……」
私は健治の胸の上に手を置いて、か細い声で歌い始めた。
「ひろげた鷲のつばさ。あおいめだまの小いぬ。ひかりのへびのとぐろ……」
これは、健治が幼い頃から好きだった「星めぐりの歌」という曲。昔はこうして、この子にこの歌を歌って寝かしつけていた。
アルバムに写っている健治の顔と、今の健治の顔が重なっていく。
「オリオンは高くうたい……つゆとしもとをおとす……」
カラカラカラ
私が昔の思い出に浸っていたその時、病室の扉を開ける者がいた。振り返ってみると、そこには……健治の同級生である金髪の子がいた。
「む……」
金髪は私の顔を見た瞬間、あからさまに嫌な顔をしていた。口許を尖らせて、眉をしかめる。
私は私で、その子のことは嫌いだった。前に一度、この病室で喧嘩したことがあるからだ。
「……なに?またケンジになんかするつもり?」
金髪は私に向かって、鋭く睨み付ける。
「ケンジから離れてよ。アタシ、あんたみたいな奴は、親だって認めたくない」
「……うるさいわね。あなたに私の何が分かるのよ」
金髪も私も、互いにギスギスした視線を送り付けていた。
金髪は「ふんっ」と鼻を鳴らして、つかつかと病室へ入ってきた。私の横に立って、こっちをじっと見下ろしている。
「ケンジに何かしたら、ただじゃおかないからね」
「……あなた、健治と一体どういう関係なのよ?」
「…………………」
「まさか……あなたが健治の、恋人だとでも言うの?」
「……あんたに話したくなんかない。アタシと、健治のことを」
金髪は眉間にしわを寄せて、力強い眼差しを送ってくる。
私も私で、負けじと金髪を睨み付ける。生意気な子ね、本当に。私、こういうタイプは昔から大嫌いなのよ。
「……ん?」
不意に、金髪は私の顔から目を逸らした。そして、私の手元にあるアルバムを指さしてこう言った。
「それまさか……ケンジのちっちゃい頃のアルバム?」
「…………………」
金髪にそう言われて、急いでアルバムを閉じて、足元の紙袋の中に入れた。
「あなたに見せたくなんかない。私の健治のことを」
さっき金髪が言ったセリフと、似た表現の言葉を告げてやった。
金髪は本当に、苦虫を噛み潰したような……心底悔しそうな顔をしていた。
「…………ちぇ」
小さく舌打ちをしながら、金髪は私の隣に丸椅子を置いた。そこに腰掛けて、健治のことをじっと見つめていた。
……ピ、ピ、ピ、ピ……
病室の中は、また静かになった。心電図の音と、健治の微かな寝息の音だけが、私の耳に届いていた。
(……それにしても、こんなに派手な子が、本当に健治の恋人なのだろうか?)
私は隣にいる金髪を横目で観察しながら、そう考えた。
(健治はもっと控えめというか……おっとりした子と付き合うとばかり思ってた。こんなギャルギャルしくて、頭の悪そうな子と付き合うなんて……)
いや、ひょっとしたら健治とは恋人なんじゃなくて、単にこの金髪の片思いなのかも知れない。健治がこんな子を選ぶとは、ちょっと考えられない。
私もこういう派手なタイプは苦手だし、友達にもなりたくないと思う。
「…………………」
そんな風に金髪と健治の関係性を考えていた、その時だった。
健治が少しだけ、口を開けた。
何か言葉を発したわけじゃない。でも、間違いなく口を開けた。
「!?」
「ケンジ!?」
私と金髪は、健治の意識が戻ったんじゃないかと思って、一斉に席を立った。
「健治!私よ!母さんよ!」
「ケンジ!!ねえケンジ!!聞こえる!?アタシの声聞こえる!?」
「…………………」
……しかし、何度呼び掛けても、健治は反応しなかった。
私と金髪はまた椅子に座り、深いため息をついた。
「……ケンジの意識、戻ったと思ったんだけどなあ」
「……息を吸うために、口を開けたのかも知れないわね」
「息を……。そっか……」
「…………………」
その時の金髪の顔は、本当に悲しそうだった。
下唇を噛んで、目を静かに伏せていた。
「…………………」
癪に触るけれど、その顔を見て……この金髪は、本当に健治が好きなんだと実感した。
……ピ、ピ、ピ、ピ……
またしばらく、病室の中は沈黙に包まれた。
外からぼんやりとした日差しが、部屋の中に入ってくる。
「……ねえ」
不意に、私に向かって金髪が話しかけてきた。私は何も言葉を発さなかったけれど、目線だけは横にいる彼女へ向けた。
金髪は健治に顔を向けたまま、「ケンジが生まれた時って、嬉しかった?」と聞いてきた。
「……なによ、当たり前じゃない。喜ばないはずがないわ」
「…………………」
「私はもともと、生まれつき身体が弱くて……。下手をしたら、健治も生めず私も死ぬかも知れない状況だった……。そんな中、母子ともども健康でいられたのは、本当に……本当に嬉しかったのよ」
「……だったら、なんでこの前、殺そうとしたの」
「…………………」
私は窓の方へと目を向けた。外ではスローモーションのように、ゆったりと雪が降り注いでいた。
「私自身が……早く、死にたいからよ」
「…………………」
……ふと、隣から視線を感じた。また目を金髪の方へと戻すと、彼女は私のことを見つめていた。
その眼差しには、先ほどまでの刺すような怒りは込められていなかった。
「もうケンジのこと、殺そうとか思わないでよね」
「…………………」
「あんたは死にたいかも知れないけど、ケンジは違うと思うから」
「…………………」
私は、もう一度健治を見た。穏やかに眠るこの子の顔を見つめながら、「そうね」と、小さく呟いた。
……雪の降る量が、だんだんと増えてきた。
風も強くなっているらしく、ひゅーひゅーという音が窓の外から聞こえてきた。
「……ねえ」
今度は私の方が、その金髪へ声をかけた。
「あなたは、本当に健治の恋人なの?」
「…………………」
「健治からは、一回も恋人の話は聞いたことがなかった。まあ健治のことだから、恥ずかしかったのかも知れないけど……」
「……恋人、だった。昔はね」
「だった?」
「うん」
「でもアタシは、今でもケンジのことが好き。ケンジの方はどうかは、分からないけど」
「…………そう」
「…………………」
「…………………」
私は、また窓の外に目を向けた。雪がどんどんひどくなってるのを見て、「さてと」と呟いた。
「私はそろそろ、帰ることにすわ。あなたも雪がひどくなる前に、帰りなさい」
「……うん。でも、もうちょっとだけいる」
「…………そう」
「…………………」
「じゃあ、はい。これ」
「え?」
私は金髪に、アルバムの入った紙袋を手渡した。金髪は目をぱちくりさせながら、私のことを見つめた。
「今日1日だけ、貸してあげる」
「…………………」
「明日、必ず返しなさいよ。いいわね?」
「…………………」
「それじゃあ、私は帰るから」
そうして金髪に背中を向けて、病室から出ようとしたその時。
「ありがとう、ケンジママ」
金髪の声が、背中越しに聞こえた。
「…………………」
私はそれには何も答えず、ただ黙って病室を後にした。
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