32.憧れ
うまれでくるたて
こんどはこたに
わりやのごとばかりで
くるしまなあよに
うまれてくる
──永訣の朝より
……田代さんの大幅な変化は、クラスメイトのみならず、学校中で話題になった。
私、柳原も、彼女の変わりようには驚かざるを得なかった。
「おはよう」
まず始めに私たちを驚かせたのは、田代さんの髪だった。
朝方、教室に入ってきた田代さんの髪を見て、私たちクラスメイトはみんな大きく眼を見開いた。
前は背中の肩甲骨にかかるくらいまで伸びていたのに、今は耳にちょっとかかるくらいしかない。そのくらい、ばっさり切られていた。
「か、佳奈ちゃん?どうしたの?その髪」
彼女に向かってクラスメイトがそう尋ねると、田代さんは「ああ、これ?」と前置きしてから、こう答えた。
「今までの自分から変わるためのけじめとして、切ったの」
「変わるための……?」
「うん」
「変わるためって、どういうこと?」
「まあ、いろいろとね」
田代さんは言葉を濁すと、静かに席についた。そして、鞄から数学の教科書とノートを取り出すと、真剣な顔つきで勉強し始めた。
「…………………」
今までと変わる。
一心不乱に勉強する彼女の姿を見て、私たちクラスメイトは、田代さんの言葉は本気なんだと実感させた。
キーンコーンカーンコーン
授業の合間の休みも、お昼休みも、なんならHRの時すら、田代さんは勉強していた。
何かの試験でも迫っているかのような必死さで、彼女はずっとノートと睨めっこしていた。
周りの人たちがお喋りしていても、まるでそのことに気がついていないかのように、ボールペンを持つ右手が忙しく動いていた。
「ねえ佳奈ちゃん、今日カラオケ行かないー?」
「アタシはいい」
放課後の遊びの誘いも、田代さんはバッサリ断る。少しの談笑もなく、鞄を持ってスタスタと家へ帰ってしまう。
前の田代さんとは、本当に変わってしまった。最近は文化祭があったからあまり遊べなかったけど、それ以前は毎日のように遊んでいたのに。
「……どうしたんだろうね?田代さん」
私は内藤ちゃんとともに、ハンバーガー屋さんへ来ていた。
がやがやと他のお客さんたちの騒ぐ声に混じりながら、私はぼんやりと呟く。
「一体なんであんなにいきなり……勉強しだすようになったんだろう?」
「…………………」
「何か大事な試験でも控えてるのかな?でも、ウチらの学校は実力テスト来月だし……。塾か何かの……」
「……たぶん」
「え?」
「いや、間違いなく斎藤くんのためだと思う」
内藤ちゃんはポテトをひとつ掴むと、小さく齧った。
「……斎藤くんの、ため?」
「うん。あの田代さんがあれだけ本気になるのは、斎藤くん絡みだと思う」
「斎藤くんの……。でも、田代さんが勉強することが、なんで斎藤くんのためになるのかな?」
「…………………」
「あ……もしかして、田代さん自身が医者になって、斎藤くんを治すんだーとか、そういう感じかな?」
「んー……どうだろ?さすがに非現実的すぎる気もするけど、田代さんならやりかねないね」
内藤ちゃんはなんだか苦しそうに眉をひそめて、窓の外を見ていた。
「どうしたの?内藤ちゃん」
「いや……ちょっと私、心配なの」
「心配?」
「なんだか田代さん、無理してるような気がして」
「…………………」
「こう言うとあれだけど、田代さんは今まで勉強が得意なタイプじゃなかったから、急にあれだけ勉強し出すのは、ちょっと大変なんじゃないかって」
「…………………」
……実は私も、そのことは懸念していた。
自分のことを追い詰めてやしないだろうか?自分の限界を超えるほどにやってはいないだろうか?と、そう憂いてしまう。そんな風に思わせるくらいに、田代さんの勉強する姿は鬼気迫る迫力がある。
「そう言えばさー、この前あーし前田と別れたんだよねー」
隣の席にいる同年代の女の子たち二人が、恋バナに花を咲かせていた。
格好はとても派手で、水色のネイルやピンクのシュシュ、そしてピアスを何個もつけている、いわゆるギャルだった。
「えー?なんで別れたんー?」
「なんかー、お箸の持ち方が変でさー。それで蛙化したー」
「あー、お箸の持ち方キモいのイラッとするよねー」
「ねー、幼稚園からやり直せってねー」
「ウチの彼氏もさ、この前のデート奢ってくんなくってさー」
「えー?女の子に奢んないとか選択肢あんの?」
「それなー!あり得んくない?」
恋人の愚痴を呟きながら、二人はスマホをいじっていた。
そんな彼女たちの光景が、なぜか私の目に焼きついて仕方なかった。
……田代さんが突然勉強し出した理由を聞くことができたのは、内藤ちゃんとハンバーガー屋さんに行った日から数えて10日後のことだった。
この頃になると、もうみんな『田代さんの勉強を邪魔しちゃいけない』という空気になっていて、声をかける人はほとんどいなかった。
先生すらも、田代さんには「田代、今いいか?」とおそるおそる声をかけるようになった。
そんな声のかけ辛い田代さんと私が話すことができたのは、放課後のことだった。
「ねーねー!今日部活って監督来るっけー?」
「広瀬ー!ゲーセン行こうやー!」
「そう言えばさあ、利香んちって結構学校から近かったよねー?」
ガヤガヤざわざわとクラスメイトたちの声で溢れ返る中、私は黙々と帰り支度をしていた。
(今日は帰って何しようかな~……。何もすることないな~)
無趣味な私は、早く帰ったところで何もやることがない。
部活にでも入ったら、そんな退屈な気持ちもなくなるんだろうけど、興味のある部活がなくて……結局二年生の終わりになっても、未だに帰宅部だった。
「……ん?」
ふと、私は田代さんに目がいった。
いつもなら颯爽と帰るはずなのに、今日はまだ教室に残っていて、ずーっと勉強している。
「えーと、地軸の傾きは……23.4度……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、彼女は眉をひそめている。
「…………………」
そんな彼女をしばらく見つめていると、いつの間にかクラスメイトたちはもう誰もいなくなっていた。
この教室には、私と田代さんしかいない。
田代さんは未だに帰る素振りがない。帰りのチャイムにすら気がついていなさそうだった。
「……田代さん」
私がそう言うと、彼女は「んー?」と、問題集に目をやったまま答えた。
「大丈夫?帰らないの?」
「うん、ちょっとキリのいいとこまでやろうかなって」
「…………………」
「えーと、地球の自転周期は、23時間56分4秒と……」
「……どうして」
「うん?」
「どうしてそんなに、勉強してるの?」
「…………………」
田代さんはその時、初めてシャーペンを止めた。
パタリと問題集の上に置き、息を少し吐いてから、こう答えた。
「アタシのため、だよ」
「……え?」
「アタシが、ケンジのそばにいるため。だから勉強してるの」
田代さんはすっと顔を上げて、私と目を合わせた。その顔は、私が思っていたよりもずっと明るかった。
口許には優しい微笑みが浮かんでいたし、目尻も下がっていて、穏やかな感じ。勉強している時に感じる鬼気迫った雰囲気は、今どこにもない。
「斎藤くんのそばにいるために……勉強してる?」
「そう、ケンジが起きてきたらさ、びっくりさせようと思って!」
「…………………」
「あんなに頭の悪かったアタシが、こんなに成績伸びたんだよー!って、そう言いたくって」
「……田代さん」
「それに、勉強たくさんしたらさ、就職に有利じゃん?ケンジはこれからも目が覚めないかもしんないからさ、入院費とか絶対めっちゃかかると思うんだよね。だから、お金たくさん稼げるとこで働けるようになりたいなって」
だから勉強してんの、と……田代さんはにこやかにそう言った。
「…………………」
『そう言えばさー、この前あーし前田と別れたんだよねー』
私はこの時、昨日のギャルたちの会話を思い出していた。
「……田代さんってさ」
「うん?」
「もし斎藤くんのお箸の持ち方がおかしかったら、なんて思う?」
「え?ケンジのお箸が?」
「うん」
「なんて思うって……別に、『持ち方おかしくない?』って言うだけだと思う」
「……それで、別れたいとか思う?」
「えー!?まさかまさか!そんなわけないじゃん!!」
「…………………」
「なになに?なんかの心理テスト的なやつ?」
「あ、いや…………ちょっと昨日、ハンバ……テレビで蛙化の特集があって」
「蛙化?あー、なんかちょっとしたことがカッコ悪く見えちゃうやつ?」
「う、うん。そこでね、お箸の持つ手がおかしくて別れたって言ってた人がいて」
「へー!そんな人いんだ」
「うん、私らと同年代だったよ」
「うーん、まあ前までならアタシも共感できたけど、今は無理かなー」
「そうなの?」
「うん。だってさ、嫌いな理由を探すより、好きな理由を思い出す方がずっと楽しいもん」
田代さんはそう言って、ニッコリと笑った。
「…………………」
「ねえ柳原さん、そろそろアタシ、勉強してもいい?」
「あ、ごめんごめん。邪魔しちゃったね」
「んーん、平気平気」
田代さんはまたシャーペンを手に持ち、問題集に向かっていった。
「勉強、頑張ってね。いきなり飛ばしすぎると大変だと思うから、根詰めすぎないでね」
「大丈夫大丈夫、大変なんて思ってないから」
「え?」
「楽しいの、今すごく」
「楽し……い?」
「うん」
田代さんはシャーペンを動かしながら、私に言った。
「ケンジのために何かできることがあるなら、なんだってやりたい。その気持ちでいっぱいなの」
「…………………」
「だから、問題がひとつ解ける度に、ケンジから『さすがだね』って、『凄いね佳奈さん』って言われて貰えてるような気がするの」
「…………………」
「ケンジが起きてくるまでに、アタシ……たくさんたくさん、勉強するんだ」
「……田代さん」
「えーと、本初子午線はイギリスのロンドンを通る……と」
……私は。
私はこの時ほど、誰かを羨ましいと思ったことはなかった。
こんなにも誰かを好きになれて、こんなにも何かに打ち込めるなんて。
(……私も)
──私も恋をしたら、こんな風になれるんだろうか……?
静かな教室の中で、シャーペンがカリカリと走る音だけが響いていた。
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