17.罪悪感






「……ふう、この辺りだったかな?」


私は額に流れる汗を手で拭いながら、とある通学路に立ち止まった。


それは、健治さんを待つためだった。


前回の時も、この辺りで鉢合わせたので、ここがおそらく健治さんの帰り道。


(ここで待っておけば、いつかは来てくれるはず……)


そんな期待を胸に待機すること20分、やっぱりこの前と同じように、顔をうつむかせながら歩いている健治さんを発見した。


「健治さん!」


私がそう声をかけると、彼は私の方へ目をやった。


「やあ、深雪さん」


暗くうつむかせていた表情から一転して、健治さんは私に向かって柔らかい微笑を魅せてくれた。それが私は嬉しくて、つい自分の頬も緩ませてしまった。


「奇遇ですね、健治さん。今日もここで会うなんて」


「ええ、本当ですね」


「この辺りなんですか?おうち」


「そうですね、ここから歩いて15分くらいかと」


私はすっと自然に、健治さんの隣に並んで歩く。


「あの、深雪さん」


「はい?」


「この前は……ありがとうございました。深雪さんのお陰で、少し気が楽になりました」


「いえいえ、そんな。私にできることがあったら、何でも言ってくださいね」


「ええ、ありがとうございます」


そう言って、彼は穏やかに笑ってくれた。






……それからしばらく、私は健治さんと他愛ない会話を広げていた。


「そう言えば、DARK BLUEがもう完結したみたいですね。僕はまだ読めてませんが、深雪さんはどうですか?」


「そうなんですよ~、私も受験前で全然読めてなくて……」


「ああ、深雪さんは中学三年生でしたものね。受験が終わるまでは、大変ですね」


「ええ、漫画とかアニメとか、見たいのがたくさん溜まってて、うっかり手を出してしまいそうになります……」


「ふふ、僕もその気持ち、よく分かります」


健治さんの声は、高すぎず低すぎず、とても耳馴染みのいい声をされている。


言葉使いが綺麗なのもあって、ずっと彼の声を聞いていたくなってしまう。


「健治さんって、不思議ですね」


「え?」


「言葉使いとか、凄く綺麗じゃないですか。なんだか上品な感じで、カッコいいです。とても高校生には見えません」


「い、いやそんな……恐縮です」


「どうしてそんなに、上品な話し方ができるんですか?親とかが厳しかったんですか?」


「いえ、僕は小説も好きなので、小説のような話し方に憧れているだけなんです」


「小説のような……」


「僕は昔から『銀河鉄道の夜』というお話が大好きで、何度も読み返したんです。それこそ、本がクタクタになるまで読み込んだものです。台詞だの文章だのを暗記して、それを諳じていたこともあります」


「へー!銀河鉄道の夜は私もあらすじだけ知ってますけど、実際に読んだことはないんですよね」


「機会があったら、是非一読してみてください。深雪さんなら、きっと気に入ってくれると思います」


健治さんはなんだか子どものような眼差しで、私のことを見ていた。


銀河鉄道の夜かあ……。勉強の休憩中にでも、ちょっと挑戦してみようかな。





「……さて、と。僕はここを右に行くんですが、深雪さんはどちらですか?」


丁字路にさしかかったところで、健治さんは私にそう尋ねてきた。私は健治さんとは逆方向の左だったため、その旨を彼へ伝えた。


「私は、左になります」


「わかりました。じゃあここでお別れですね」


「……ですね」


名残惜しい気持ちにかられながらも、これ以上はさすがにどうしようもなかったので、私は胸がキュッと捕まれる感覚に襲われた。


(どうしよう、せっかくのチャンスなんだから、次に会う約束とか……ここで、ここでなんとか……)


私は受験前で、安易に遊んでいい立場じゃない。かと言って、お姉ちゃんと別れてフリーになったばかりの健治さんを、放置しておくのも怖い。いつ他の女の子が健治さんを狙ってくるか分からないから。


「……あの、健治さん」


私は唇を舌で濡らし、乾いた口を湿らせてから、健治さんへ告げた。


「もしよかったら、勉強……教えてくれませんか?」


「勉強?」


「お姉ちゃんから、健治さんはとても成績がいいと聞いています。健治さんから教えてもらったら、私もきっと成績が伸びるんじゃないかと」


「ま、まあ……僕も勉強自体は頑張っていますが……」


「どうですか?今度の土曜日に、県立図書館とかで会いませんか?そこで勉強を教えてほしいです」


「……………………」


健治さんは一瞬だけ顔を強張らせた後、少し切なそうに目を伏せた。


も、もしかして……嫌だったのだろうか?さすがにまだそこまで仲を深められてなかったかも知れない。


(ど、どうしよう……。私、ちゃんと恋愛するの初めてだし、こういうとこよくわかんないかも……)


不安という手が心臓をぎゅっと掴むかのような気持ちにかられていた時、健治さんは私の方へ目を向けて「いいですよ」と答えた。


「土曜日、ですね?ちょうど空いております。僕でよければ、勉強を教えましょう」


「ほ、本当ですか!?ありがとうございます!!」


不安が大きかった分、承諾された時の喜びの反動は凄まじかった。思わずその場でジャンプしたくなるくらいに、胸が弾んでいた。


「よかった……!健治さん、少し顔が曇ってたので、嫌だったらどうしようと思っちゃいました」


気が抜けたせいで、胸の中に留めていた気持ちがポロッと口から溢れてしまった。それを聞いた健治さんは、焦った様子で「いえいえ!嫌なんてことはありません!」と否定した。


「ただ……なんというか。そうですね……」


「どうかしたんですか?健治さん」


「……県立図書館は、佳奈さんと昔、一緒に勉強したことがあったなあと、そう思いまして」


「!」


「いや、すみません。感傷に浸ってしまって。お気になさらないでください」


そう言いながらも、健治さんの眉は悲しそうに歪んでいた。


「……………………」


「ごめんなさい、深雪さん。そろそろ僕……行きますね」


「え、あ……」


「土曜日に、また会いましょう」


そうして、彼はくるりと背中を向けて、自分の帰路を静かに歩いていった。


私はただただ、静かに遠ざかっていく彼の後ろ姿を、見つめている他なかった。











……私が家へ帰ったのは、夕方の四時すぎだった。


いつものように部屋へ行き、制服から部屋着に着替えて、それから机に向かって黙々と勉強する。


でも今日は、いつもより勉強が手につかなかった。なんたって、健治さんと会う約束をしたんだから。


「土曜日か……。どんな服着ていこうかな」


そんな邪念が頭に生まれると、もう勉強どころではない。机から離れて、クローゼットを開ける。そしてそこから、自分が一番可愛いと思うコーディネートを確認してしまう。


「このワンピースがいいかなあ?うーん、でもちょっと地味かも……?」


こういうシチュエーションは、どんな服で行けばいいのか分からない。そんな時に頼るものと言えば、やはりスマホ。


「デート 服装」だの「女の子 可愛い 服」だのという検索ワードを入れて、出てきた画像を参考にする。


「わあ……。みんな可愛いなあ。私、こんなの持ってないよ」


自分とのギャップに落ち込みながらも、私はうーんと唸りながら服装を考えていた。




「……深雪ー、ご飯よー」


ふと気がつくと、もうすっかり夕方の六時をまわっていて、お母さんがリビングから呼ぶ声が聞こえてきた。それまで全く勉強の方が進まずにいた私は、「わ!何してんの私ってば!」と自分に悪態をつきながら、部屋を出て一階へと下りていった。


食卓にはもう既に、お母さんとお父さん、そしてお姉ちゃんがいた。


「さ、座りなさい深雪」


お母さんにそう促されて、私はお姉ちゃんの横の席に座った。


「いただきます」


そうして、いつものように家族でご飯を食べる。今日のご飯は、ご飯とお味噌汁に、おかずが豚キムチ。


私は辛いものが好物なので、豚キムチも大好きだった。今日はなんだか良い日だなあ~と思いつつ、豚キムチを口に含む。


頭の片隅で、私はまだ健治さんと土曜日に会う服装について悩んでいた。


(うーん、健治さんってどんな服が好きなのかな?せっかくなら、それに合わせたいんだけど……)


健治さんが好きな服……。そう考えた時、頭の中に浮かぶのは、別れ際に見せた健治さんの悲しそうな顔だった。




『……県立図書館は、佳奈さんと昔、一緒に勉強したことがあったなあと、そう思いまして』


『いや、すみません。感傷に浸ってしまって。お気になさらないでください』




「……………………」


あの反応を見て、私はまだ健治さんが、お姉ちゃんのことを好きなんだと思った。


もちろん、それは仕方ないと思う。だって、まだ別れてから数日だし、裏切られたショックが大きすぎてなかなか立ち直れないはずだから。


「……………………」


私は、横で静かにご飯を食べているお姉ちゃんへ目をやった。


お姉ちゃんも最近、元気がない。前よりもやつれているし、何より生気が感じられない。


(健治さんが落ち込むのは分かるけど、お姉ちゃんは落ち込んじゃダメだよ。だって、あなたは健治さんを傷つけたんだから。傷つけた側がそんな顔して良い訳ない。いつも私に意地悪したりしてた時は、そんな顔一切しなかったくせに……)


この前お姉ちゃんを殴った時と同じように、お姉ちゃんへの怒りがフツフツと沸いてきた私は、また仕返しすることにした。


「ねえ、お母さん」


私は対面へ座るお母さんの方へ顔を向け、敢えて声を明るく弾ませてこう言った。


「今度の土曜日、私お出かけしてくるね!」


「あら、そう。勉強は大丈夫なの?」


「勉強を教えてもらうの!健治さんっていう先輩から」


その時、カチャンッと隣で食器の鳴る音がした。


横目でちらりとそっちを見やると、お姉ちゃんがお箸をテーブルに落としていた。


そして、ひきつった顔を私の方へ向けた。


「……………………」


私はそんなお姉ちゃんへは一言も触れず、また視線をお母さんへ戻して言った。


「その人、成績が凄くいい人なの。そういう人から教わるのはいいんじゃないかって」


「そうだな、確かに成績のいい人に聞くのはいいことだ」


私とお母さんの会話を聞いていたお父さんが、うんうんと頷きながらそう呟いた。


「だから私、土曜日は1日いないと思う」


「そう。あんまり遅くならないようにね」


「うん、分かってる」


「佳奈も来年は受験なんだから、もうそろそろ本腰いれて勉強を……って、佳奈?あなたどうしたの?」


怪訝な顔をしていたお母さんに連られて、私もお姉ちゃんの方へ目をやった。


「……………………」


私は、思わずぎょっとした。


お姉ちゃんは震えるくらいに、涙を流していたから。


口をへの字に曲げて、ビー玉のように大きな粒の涙が、頬から顎へとつたっている。


「お、おい佳奈?どうしたんだ?」


お父さんの方も心配になったらしく、そう言って声をかけるけれど、お姉ちゃんは肩を震わせて息を荒くするばかりだった。


「……ご、ごめん。アタシ、もうご飯いい」


ようやく絞り出すようにしてそう口にしたお姉ちゃんは、すぐにパッと席を立って、脇目もふらずに自分の部屋へと帰ってしまった。


「……あの子、どうしたのかしら?」


「分からない。最近元気がないなとは思っているんだが……」


お母さんとお父さんが顔を見合わせて、眉をひそめている。


「深雪、あなた何か知らない?佳奈に何があったのか」


「え?う、うーん……私も知らないかな」


そう言って、私はシラを切った。


心臓がバクバクする。まさか、あんなに泣かれるとは思わなかった。


ちょっとやきもち焼けばいい、少し嫌な気持ちになればいいって、そう思っただけだったのに。


(……い、いや、私は悪くない。だって、お姉ちゃんが悪いんだもん。健治さんのこと傷つけて、別れることになったのも自業自得……!全部身から出た錆でしょ!?だから私は悪くない!)


自分にそう言い聞かせて、豚キムチを口に入れる。


さっきまであんなに美味しかったのに、なんだか今は……まるで味がしない。


(知らない知らない!私は……!私は……!)


ぎゅっとしわが寄るくらいに、目を強く閉じる。


泣いているお姉ちゃんの残像が目蓋の裏に残って、仕方がなかった。








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