16.一番の幸いに至るために





「ああ、ほんとね。熱があるわ」


保健室の先生は、僕の体温計を見てそう呟いた。そして、「水分補給は、しっかりね」と言って、冷蔵庫からスポーツドリンクの入ったペットボトルを僕へと渡した。


僕は掠れるような声で「ありがとうございます」と礼を述べ、そのペットボトルに口をつけた。


「とりあえず、ベッドで横になりなましょうか」


「はい……」


半分ほどまで飲んだそのスポーツドリンクを机に置き、よたよたと歩きながら、僕はゆっくりとベッドへ仰向けに寝転んだ。


真上に見える天井さえも、今の僕にはぼんやりとしか見えなかった。熱に当てられてしまったのか、頭がぼーっとしてモヤがかかっているみたいだ。


「もし、しばらく寝てもキツいようなら、早退しても構わないからね」


「はい……ありがとうございます」


霞がかった意識の中、僕はうつらうつらと襲われる眠気に負けて、そのまま眼を閉じた。







……どれくらいの時間が経ったのだろう?僕が自然と眼を覚ました時には、眠る前よりも意識がクリアーになった気がした。


(よかった……。少し体調が回復したみたいだ)


自分の身体が戻ってきた安堵感がありつつも、もしかしたら早退して早めに家へ帰れたかもしれなかったという、少しばかり残念な気持ちを胸に抱えながら、僕は上半身を起こした。


「あら、もう大丈夫なの?」


僕が起きたことに気がついた保健室の先生が、そう言って話しかけてきた。


「ええ、なんとか大丈夫そうです」


「それならよかった!どうする?そろそろお昼休みになるけど」


「なら、教室へ戻ります」


「わかったわ。それじゃあ、お大事にね」


先生は僕の飲みかけのペットボトルを渡してくれた。彼女にお礼を告げて、僕は保健室を後にした。



キーンコーン、カーンコーン



教室へ向かう道すがら、昼休みになったことを告げるチャイムが鳴った。


それと同時に、いろんな教室から先生や生徒が出て行って、一気に周りが賑やかになった。


「あ、斎藤くん」


その時、最初に僕を保健室へ運ぼうとしてくれた、保健委員の女の子……柳原さんとすれ違った。


「体調はどう?大丈夫?」


「ありがとう柳原さん、もう大丈夫だよ」


「そっか、よかった!」


柳原さんはそう言って、ニコッと明るく笑っていた。でも、ふと「あ、そういえばさ」と前置きして、急に話題を変えてきた。


「こんなところで聞くのもあれなんだけど、斎藤くんと田代さんって……付き合ってるの?」


「え?」


「いやほら、田代さんが斎藤くんのこと下の名前で呼んでたし、なんとなく距離感近い感じだったから、もしかしてそうなのかも?って、ちょっとクラスで話題になってたよ」


「……………………」




『大丈夫?ケンジ』




ああ……そうか、そうだったかも知れない。確かに彼女は、僕のことを下の名前で呼んでいた。僕はもう今は、「田代さん」と名字呼びになっているけど、彼女は付き合ってた頃と変わらない呼び方のままだ。


「……………………」


僕が黙ってしまったのを見て、柳原さんも何かを察したらしく、「もしかして、触れちゃいけなかったかも?」と言って焦り出した。


「体調悪い時に、変なこと聞いちゃったね」


「いや……いいよ。ちなみ僕は、佳奈さんと付き合っては……いないよ」


「そうなの?」


「うん」


「そっか、思い過ごしかな」


「……………………」


「ごめん、いろいろ急に訊いちゃって。じゃあまたね、斎藤くん」


「うん」


そうして、僕らはまた別れた。


(……佳奈さんとの噂か)


できることなら、そんな噂は広まってほしくない。まだ生傷の癒えてない状態で、根掘り葉掘り来られると辛い。


なるべくそっとしておいてほしいし、まだ触れないでほしい。


……でもそう思いながらも、少しだけ、噂が広まってほしいと思っている自分もいる。


それは、僕が佳奈さんのお相手であることへの……自慢。


「佳奈さんっていう素敵な人が、僕の恋人だったんだぞ!」って、そう周りに自慢したいという気持ちが、少なからずある。


その関係性は所詮、偽りだったけれど、嘘でも嬉しいと思っているところがある。


「……………………」


僕は、先ほど佳奈さんの指を掴んでいた右手に眼をやった。


彼女の指先の温かさが、まだほんのり残っているような気がした。












「……えーと、今日は、俺ら二年三組が文化祭で行う劇の役割を決めたいと思います」


お昼休みが終わった後の、次の授業。


教卓の前に立ってそう説明する文化祭委員の男の子は、クラスメイトたちにそう語りかけた。


僕たちのクラスは、今年の文化祭では劇をする。しかもその題材は、「銀河鉄道の夜」。


なんでそんな直球の文学作品が題材なのだろう?と思ったら、どうやら今、銀河鉄道の夜をベースにした実写ドラマが流行っているらしく、それに乗っかってみんなが銀河鉄道の夜をやりたいと言い出したのだった。


僕は漫画やアニメ、小説とかならよくわかるけど、ドラマの方はからっきしわからないので、そういうものが流行っているとは知らなかった。


「まず、役者とBGM担当と、それから照明とか衣装とか、そういう感じで仕事はいろいろあって、とりあえず役者を決めたいと思います。えーと登場人物は、ジョバンニとカンパネルラと~」


文化祭委員がカツカツと黒板に登場人物の名前を書いていく。


クラスメイトたちは黒板に書かれた登場人物の一覧を見て、口々に自分がやりたい役を発言した。


「はいはい!俺、カンパネルラで!」


「あー?お前はいじめっ子のザネリだろ?」


「私、家庭教師役やりたーい」


「じゃあ私は、家庭教師が連れてる~、なんだっけ?姉と弟いるじゃん?あれの姉の方で」


和気あいあいと役名を立候補していく彼らを遠巻きに見て、僕は内心羨ましかった。


実は僕は、昔からこの作品が好きで、何度も読み返していた。小学生の頃にこれを読んで、小説家になりたいと思っていたこともあった。


(僕もできることなら、ジョバンニ役とか挑戦してみたいけど……。クラスメイトたちがびっくりしちゃうよね。『なにこいつ、主役にでしゃばってるの?』って。仕方ないけど、僕は裏方にいよう)


もともと人前に立つのがすごく苦手だし、陰キャな僕が目立とうとするなんてご法度もいいとこ。主役のジョバンニやカンパネルラは、きっとクラスで人気の人たちがするだろう。


(……銀河鉄道の夜、か)


このお話は、いじめられっ子の少年ジョバンニが、親友であるカンパネルラと二人で銀河鉄道に乗るというあらすじだ。


行き着く先でいろんな人と出会い、いろんな別れ方をする。そして最終的には、カンパネルラさえもジョバンニを置いて下車してしまう。


気がつくとジョバンニは、静かな丘の上にいた。銀河鉄道は彼の見た夢だった。


現実の世界では、カンパネルラはザネリという友人を救うために死んでしまっていた。しかもそのザネリというのは、ジョバンニをいじめていた子だった。


……という、美しい世界観とは裏腹に、かなり切ないお話だ。


(子どもの頃は、この不思議な世界が面白くて読んでたけど……今改めて読むと、また違った感想になるかもしれない)




『本当の幸せってなんだろう?』




作中に何度も出てくるこのフレーズが、きっと小さい頃に読んだ時よりも、自分の胸に残る気がする。


「……………………」


僕は不意に顔をあげて、佳奈さんの背中に目をやった。


顔の見えない彼女の後ろ姿を、ただただ黙って見つめていた。












なにがしあわせかわからないです


ほんとうにどんなつらいことでも


それがただしいみちを進む中でのできごとなら


峠の上りも下りも

みんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから




ああそうです


ただいちばんのさいわいに至るために


いろいろのかなしみもみんな

おぼしめしです




──宮沢賢治:著


「銀河鉄道の夜」より抜粋








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る