オキナグサ

鮎川伸元

誰もいない教室で

 誰もいない放課後の廊下を僕は歩いていた。日陰だというのに、真夏の熱気は凄まじく、額や首筋に汗が流れる。やっとの思いで目的の教室まで行くと、そこには先客がいた。長くて艶のある黒髪、奇麗な横顔、華奢で色白のその子は休みがちな僕のクラスメイトだった。

「やあ、また会えたね。今日は授業受けてなかったから、心配したよ。大丈夫?」

「うん、大丈夫。ありがとう。何で君はこんなところに?なにか忘れ物したの?」

「いや.............そういうわけじゃないんだけど.............ひとりになれる場所を探していたんだ」

「そう。それじゃあ私は邪魔ね。もう出ていくから、ここを使ってくれていいよ」

「いや」

 僕は気づいたら声を出していた。

「どうせ、君も行く当てがなくてここに来たんだろ?なら一緒にいてくれよ」

 彼女は少し動揺しながらも

「いいよ。きみがそう言うなら」

 僕が提案したのになにを話せばいいんだろう。そもそもなんで一緒にいてくれなんて言ったんだろう。

「最近どう?何か変わったことはない?」

「変わったことって?」

 やっぱり彼女と何を話したらいいのか、本当に分からない。

「ごめん。俺が一緒にいてって言ったのに、何も話題が浮かばない」

 僕は素直にそう言った。でも彼女はクスクスと笑い出した。

「もしかして、私に好意を抱いてほしいと思って虚勢貼ってる?」

「それは.............」

 僕が何も言い返せないでいると、

「人の前で何か虚勢を張ったり、嘘をつくのって難しいよね。しかも変にそういう時だけ失敗したりする」

「あはは.............本当にそうだよ。僕は虚勢を張らないと怖くて何もできないんだ」

 彼女は微笑む。

「じゃあ、さっきので一歩前進したってことじゃん」

 彼女の返事は意外そのものだった。

「そんな.............普通の人だったら簡単にしてのけるだろ。できないのは僕だけ」

「でもそんなのどうでも良くない?世間体とかそんなに気にするの?」

「そりゃあ、誰でも虚勢を張りたい人くらいいるでしょ」

「そりゃあ勿論いるだろうけど、君はどんな理由で虚勢を張るか考えたことはある?」

「そりゃあ、相手にいいところを見せたくて.............」

「でも、それで相手はどう思ってるのか知ってる?」

そこまで言われて僕は、言葉を詰まらせる。確かに相手の心なんて分かりはしない。それでも、

「でも、そんなこと。相手のこと何も分からないのにどうしろって?」

「さあね。それは人によって違うんじゃない?」

「相対主義じゃあ何も始まらない」

「じゃあ絶対普遍的なものはあるの?」

「いや、そんなのない.............けど...........................」

「君のその虚勢は自分を守るためのものじゃあないのかい?」

 その言葉は図星以外のなにものでも無かった。

「キミの恋はキミ自身に依存しているんだ。キミはその相手がどう思うのかよりも、自分が傷つかないということを最優先に考えている。でも、それが悪手で良くないって言っているわけじゃあないんだキミは...」

「知ったような口を聞くなよ!!!」

 僕は気が付いたら大声を出していた。

「ああ!そうだよ!!僕が怖くて踏み出せないのは、キミに振られるのが怖かった。キミが僕の目の前から消えるのが怖かった。僕の心の中から消えるのが怖かった。僕自身の弱さが招いた結果なんだよ」

 僕がそう言い終えると、彼女は優しく微笑んでいた。

「ごめん、気持ち悪かった?最悪だよな、僕なんて.............」

「そんなことないよ!!」

 今度は彼女がそう言った。

「君にもなにかあるのか?こういう経験が.............」

 彼女の肩が少し震えていた。僕はそっと彼女に手を伸ばす。

「私ね.............分かんなかったんだ。自分の恋の依存先...........。そもそも私の恋って何だったんだろうね」

 彼女は俯く、俯く拍子に彼女の髪が垂れて、彼女の顔が見えなくなった。

「女の子に恋するのは何?親のあの歪んだ恋は?なんであんなやつらが私を否定するの?」

 僕はなにも言えなかった。彼女を救うには、僕はあまりにも無力で、何も知らなかった。ふいに彼女が僕を見る。今の彼女の顔を見て、僕の恋は揺れる。

「君はどう思う?私がカノジョを好きになるのをやめて、キミのことを好きになったら君は喜んでくれるの?」

 彼女の顔や流す涙の雫、頬の濡れた線、ゆがんだ眉間、すべてが僕を惹きつける。

「僕はキミを手に入れたかった。でも、キミのすべてはもう手に入らない。だから、今はもう自分がどうしたいのか本当に分からなくなっちゃったんだ」

 そう。彼女の声はかぼそくて、まるで死んでいる人の声そのものだった。

「でも、これだけは言える.........」

 彼女はゆっくりだけど、言葉を紡ぐ。

「自分の恋に嘘をつくなら、私はもう生きる意味なんてないんだ.............」

「そんなこと.............」

 僕は否定したかった。でも、僕に否定できるようなモノなんてない。

「だから、君はこうしたんだね」

 二人の前には一つの白い花瓶。そこにはオキナグサが飾ってあった。

「じゃあさ、恋じゃない何かで僕はキミを繋ぎ止めたい。だから、僕もそっちにいくよ。君の本命が手に入るまで、ずっと一緒にいよう」

 僕は教室の窓を開ける。4階から見た景色は、ほんの少しだけ高かった。

「確かにここなら死ねるよね」

 夏の暑くて乾いた風が、今は気持ちいい。僕は今度こそ、彼女の手をつかんだ。



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オキナグサ 鮎川伸元 @ayukawanobutika

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