第20話 左手の呪い

 アリィの左手は、当人が表現出来るものであれば、たとえ似せることが出来ずとも記憶だけを頼りに世界への顕現が可能だった。


 つまりそれは、想像を現実にする力。


《魔女の四肢》――その左手は生死を司る。彼女はその左手指から滴る血液を媒介にすることで、生き返らせたいもの、殺したいもの、生み出したいものなどが現実となる。

 アリィは今、過去の記憶にあるエルルーニアのについてしてしまった。

 次の瞬間、アリィの目の前に火花が散り、そこから影炎を纏ったが現れた。


「……なるほど。これはすごいな」


 ハントは苦笑いで獣を見つめた。

 いつか見たあの炎の悪夢にも、似たような獣がいた。

 ハントの運命が変わったあの日が、再び彼の今目の前で起ころうとしていた。


「さあ、願いましょうイア様。目の前の彼は貴女を利用せんと目論む悪党です。あれは、あの方にとっての害悪以外の何者でもない」

「……いやっ、いや、です!」


 アリィは必死に抵抗するも虚しく意味をなさない。ゆっくりと彼女の指がハントに向けられる。まるで今からそちらに向かわせるぞと言われているような、そんな指先だった。


「……往生際が悪いな。これだからも貴女を捨てたんだ」


 ブラフの空気が一瞬にして凍てついた。

 聞きたくなかった、自分の存在の否定を耳元で重く囁かれる。アリィの心はすでに限界を迎えており、抵抗の気力が失われつつあった。それが意味するものは、獣の制御である。

 アリィの体から力が抜けたのを確認したブラフは無意識に口角を上げた。そして獣に向かい叫んだ。



「――――あの男を咬み殺せ‼」



 獣は《ガァアッ!!》と咆哮を放つと、立派な獣爪を地面に食い込ませ、そして思い切り蹴り走り出した。向かう先は一点、ハントだ。ハントは咬まれることを見越して、咄嗟に自身の胸ポケットに手を突っ込んだ。勢いよく引き抜かれたそれは小型の拳銃で、人ひとり、獣一匹殺傷するには充分な代物だった。

 勢いよく向かってくる獣に照準を合わせる。そして獣がハントの体に食らいつこうと跳躍した瞬間、ハントは拳銃の引き金を――



 パァーン……。



 引き金を引いたのは、だった。


 再び彼女の鼻腔に硝煙が香る。ごぽりと鈍い水音が、アリィの目の前で雑音が混じったように聞こえた。ハントの体がゆっくりと傾いていく。まるでスローモーション動画を見ているようだった。


「――――ハント様!!」


 この状況になってやっと、アリィはブラフから解放された。アリィは、ふらふらと足元がおぼつかないまま、地面に倒れてしまったハントに近づいた。

 胸から血を流すハントはもう虫の息だった。ここは人気ひとけの無い路地裏。町からは離れ過ぎていて、叫んだとしても助けが来るような場所ではない。アリィはハントの体を自身に寄せ、ぎゅうっと力強く抱き締める。


 獣は、いつの間にか鉄のにおいを漂わせながら、空気中に溶けるように霧散していった。



 ◆



「――”諦めなさいよ”」



 不意に、この場にいないはずの声がした。

 アリィは俯けていた顔を静かに上げ、その声の正体を探った。答えは、案外すぐに分かった。


「……

「”お元気そうで何よりですわ、”」


 ブラフの肩を寄り木にしたから、エルルーニアの声が聞こえる。おそらく魔法を使って小鳥を操り、アリィと会話をしているのだろう。


「”かわいそうなお姉様。その男に都合のいいようにされていたのでしょう? でももうそんなことしなくてもいいのよ。さあブラフ、お姉様をわたくしの屋敷までお連れしてちょうだい”」

「かしこまりました、エルルーニア様。……イア様、参りましょう」


 ブラフがエルルーニアからの命令を受け、アリィの手を取ろうとした瞬間、アリィは彼の手を拒絶した。パシンという軽く爆ぜたような音が路地裏の静寂に響き渡った。

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