第19話 お絵描きの時間

「……おかしいな……。バレないと、思っていたのですが」


 闇より深い、深い水底に心を落としたような漆黒の瞳には、何者も映らないし音も反響しない。

 まるで、今いる狭い路地裏のようだった。

 アリィが少しでも身動みじろぎしようものなら、彼女の首に回ったブラフの腕が力む。その度、うっ、と小さくアリィが呻くので、ハントは下手に動けずにいた。

「あれだけ殺気立っていたら、気づくよ」とハントがスーツの胸ポケットに手を入れようとした瞬間、ブラフの腕にさらに力が入ったのが分かった。

 ああ、彼は本気なのだ。自分と同じで、本気で自分に課せられた目的を遂行しようとしている。そのためには主人の旧友、ましてさえも手を下すことを厭わないのだろう。そんな意思がブラフの深淵の瞳から見て取れた。


「ああ動かないでください。本当はこんなことしたくないのです。ですが、これもエルルーニア様の御心のため。少しばかり、私の願いをお聞き入れくださいませ、ハント様」

「…………分かった」


 ハントは諦めて胸ポケットに触れていた手をそっと下ろした。そんな彼の様子を見たブラフは柔らかい笑みを零している。犯罪などとは縁遠い、爽やかな笑顔だった。


「なぜこんな大掛かりなことを?」

「大掛かりなこと、でしょうか? 我が主人の脅威となりうる、もしくはなるであろう存在の駆除をするのが私の役目ですから、むしろ当たり前のことのようにも思えますが?」

「主人の姉妹を脅威だって? 見たところアリィはとてもそうは見えないよ。そもそもあんたが直接手を下そうとしている意味が分からない」

「意味ならございます。私が判断した――これでは意味にはなりませんか?」

「では、質問を変えよう。?」


 ハントの質問にブラフの顔から笑みが消えた。隙と言うには小さすぎたため動けずじまいだったが、ハントは自分ではなくアリィに何かが絡んでいるのだと思ったのだ。そして彼の推測は当たったらしい。ブラフは長い沈黙の後、すぅ、と小さく息を吸った。


「……は、にとっては脅威以外の何物でもない」

「え……?」


 低音で呟かれたブラフの声は、アリィにしか届くことはない。その言葉に気を取られた瞬間、渇いた音が彼女の頬をぎる。数秒して、その音の鳴った方向に視線を向けると、右腕を赤く染めたハントが脂汗を掻きながら立っていた。


「ハント、様……?」


 ブラフの手にはいつの間にかトカレフ型の拳銃が握られていた。銃口からは硝煙が上っている。ブラフがハントを撃ったのだと理解するのにそう時間はかからなかった。


「……さあ、イア様、の時間ですよ」


 ぞわりと冷気が背を這う。アリィは動けずに、ブラフにされるがままだ。白いオペラグローブがスルスルと脱がされる感触が気持ち悪い。


 血に塗れた、穢らわしい、左手が――世界にその姿を現した。


「ぃやっ……!!」


 アリィは必死に、今持てる力の全てを行使してブラフに反抗をしているものの、男性と女性とでは力の差は歴然であり、その勝敗は決まりきっていた。

 ブラフは器用に自身の紳士服に着けていたブローチを外し、その針でアリィの指を刺した。プツ、と小さな傷がアリィの左手親指で鳴ると、ぷっくりと赤い玉が指先に浮かび上がる。


「いや……離して!」

「なぜ? 貴女の大好きなお絵描きではありませんか」

「ひ、左手で描くものなんか、無い……!!」

「ありますよ。ほら」

「――ひ……ッ」


 アリィはブラフに左手を触れられ、そのまま宙に絵を描くように傷ついた指を動かした。自分の意思でない左手の動きに悪寒が走る。


 描きたくない、描きたくない、描きたくない!


 目の前で今にも倒れてしまいそうなハントを、アリィはただ眺めることしかできない。ハントは静かにアリィの様子を窺っていた。


「ほら……そうだ。昔、エルルーニア様の御屋敷で飼っていた犬でも描きましょうか」


 ゆびは踊る。主の意志など、とうに関係なく。


「大丈夫。下手でもいいのです。――――……ただほんの少しだけ、ご想像いただければ」


 しまった――とアリィが気づいた時には遅かった。

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