第18話 味のしない紅茶
ブラフの主人であるエルルーニアなる人物は、この町にはいないらしい。なんでも、リュトの中層域にある森の屋敷に引きこもっているのだという。
これまでの経緯を話し終えたハントが(もちろんアリィを買ったことは伏せ、それどころか将来の妻として共にしているのだと言った時は、アリィの心臓は爆発するかもしれないと思うほどに早鐘を打った)、ぜひ一度挨拶に伺いたいという意を彼に伝えたのだが、
「主人は心の病を患っておりまして、あいにくと人と会うことが難しいのでございます」
と、話し合いの場にと、偶然入ったカフェテリアのコーヒーを飲みながら、ハントはブラフに軽くいなされたのだった。
ここで踏み込みすぎても怪しまれるだけ。ハントは反撃することなく「それは残念だ」と大人しく身を引いた。
彼らの会話をビクビクとしながら聞いていたアリィは、味の全くしない紅茶をいつの間にか飲み干していた。
「イア様、おかわりを頂きましょうか?」
「え……あ……大丈夫です」
「アリィ、遠慮は要らないよ。あんたも、足りなければ追加で注文をしてくれ。ここは僕が持とう」
「でも、ハント様」
「僕は嬉しいんだよ。こうして君のことをもっと知れるのが。イア、と言うんだね。いい名前じゃあないか」
「は……い」
イア、とはこの新大国において「左手」という意味を持つ。それをいい名前だとハントは言った。皮肉以外の何物でもない。
アリィはこれほどまでにハントの笑顔が怖いと思ったことはなかった。たった数日の関係だが、彼の心情は掴みかけていたはずだった。
けれど、今この場にいるハントは、きっと心を復讐に切り替えた「ハント」だ。
喉が渇く。アリィはハントの言葉を信じて飲み物を追加で注文した。届くまで、緊張は続くだろう。
「――仲睦まじいのですね」
ふと、ブラフが不思議そうに呟いた。彼のか細く通った声に、コーヒーの香ばしいにおいが漂うカップ・ソーサーに手を触れたハントが反応を示した。
「何か、不都合なことでも?」
「……いいえ?」
「そうか? ……僕にはまるで、アリィが幸せになることをよく思わない人がいるような、そんな印象を受けたけどな」
「誰がそんな……。そんなの、私情ではありませんか」
「私情だろう?」
静かに小さな火花がちりちりと、彼らが言葉を発する度に爆発する。そろそろこの会話を止めなければ、場の空気は最悪になる。
アリィはそれだけは避けたいと、口を開きかけたその時――。
「お待たせ致しましたー、ご注文のミルクティーですー」
店のウエイトレスがタイミングよくアリィの注文した飲み物を運びに来た。人が来たことにより静かな攻防戦は、こうして幕引きしたのだった。
それから数十分ほど沈黙の痛い時間が続き、気がつけば空は傾き始めていた。三人の前にあった飲み物も無くなり、そろそろいい頃合だとハントが口を開いて、この茶会はやっとお開きになったのだった。
◆
会計を済ませ、ハントよりも先に外に出ていたアリィとブラフは気まずい時間を過ごしていた。先に沈黙を破ったのは、アリィだ。
「……あの、ブラフ……。もう屋敷へ戻った方がいいのではないですか? エルルーニアも、心配ですし」
「そうですね。そうかもしれません」
「……?」
一向に、その場を動こうとしないブラフにアリィは違和感を抱いた。それは出会った時から感じていたもので、彼の瞳の色に光が無いことにも通づる何かがあったが、その正体は彼女には分からなかった。
「お待たせアリィ」
「ハント様……」
「ハント様、この度はご馳走頂きまして誠にありがとうございました」
「こちらこそ有意義な時間をありがとう。とても楽しかったよブラフ」
「これからどちらへ?」
「ああ。尋ね人がこの先の町にいるらしいんでね、そこに寄るつもりだよ」
「そうですか。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ありがとう。そっちも、エルルーニアによろしく伝えてくれ」
「ありがとうございます」
貼りつけたような笑顔。けれどハントとは違う、影の色濃い、闇のようなブラフの笑みにアリィはゾッとする。
別れ際「ああそうだ」とハントが突然言葉をつけ加えた。
「その隠しきれていない殺気を少しは抑える努力をしたらどうだい?」
ハントのその言葉が終わるが先か、アリィの小さな悲鳴が先か、次の瞬間にはアリィはブラフの腕の中にいた。
ガチリ、と硬い音がアリィの耳を掠めた。
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