第10話 初めての音
案の定、宿の主人が朝食の用意ができたと知らせに来た。すでに二人は各々の部屋に戻っていた。
あのままの状態で主人に呼ばれていたら、きっと変な噂が流れるに違いない。貴族と娼婦が一夜を過ごした、なんて噂が触れ回るのだけはハントとしては阻止したいところだった。
何も起きてない、普通の朝を装って部屋を出る。
ダイニングに向かい、軽く朝食を済ませて宿を後にする。外はすっかり晴れていた。
◆
ふと気になったことをハントはアリィに訊いた。
「……そういえば、君のその左手は《想像を具現化する力》だろう? 着衣服なんてすぐに出せれるものじゃないのかい?」
「……多分、わたしの左手で具現化できる物は生死に関わるものだけで、無機物は具現化不可能なんだと思います」
「試してみたことは?」
「あります。お腹が空いていた時に一度だけ……。パンを出そうとして、描いたんですけど……」
彼女の様子からして、それは失敗に終わったのだろう。
生き物を描けば猛獣が具現化し、生き物でない衣類や無機物を描けば何も現れず。
「……便利なのか、不便なのか、分からないね」
となると、使用するにも誓約があるのか。力の使い時は考えなければならないなと、ハントは今後の課題に頭を悩ませる。アリィは困ったように笑った。
そもそも利用するにしろ、アリィをどう利用するかまではあまり考えていなかった。
《青薔薇の魔女》に娘を探せ、と言われているだけであって、あの魔女の許へ娘たちを連れて行くことが目的なのだ。
そもそも、どうして《青薔薇の魔女》は娘たちを招集したいのか。彼女の目的が見えないことが、何よりも不気味だった。
(……あの魔女も、おかしなことを言う)
ひとつ目的を果たしたというのに、ハントの心は妙に陰りを帯びていた。
◆
「さて、昨日伝えた通り君の服を買いに行こう。何か着たいものや要望は?」
宿からまっすぐ市街に出るとすぐに、ブティックやレストランが建ち並ぶ【カルラッタタウン】が現れる。
ここは
どれだけ富を手にしても、特に欲しいものがなかったハントはその思考に首を傾げるばかりである。
(もっとも、僕が今一番欲しいものは、富では決して手に入らないから困ったものだな)
富で買えるのなら、どれだけ楽だろう。ハントは、答えの無い問いに苦笑した。
アリィの答えを待っている間、ハントはじっくりと周辺に映る店を見る。どの店も、割と繁盛しているように思えた。むしろ今まで自分が暮らしてきた富豪階級の店よりも賑やかな印象だ。
「……アリィ、いつまでもここにいて考えていては、思考も煮詰るだろう。少し歩こうか」
「あっ、はい……。申し訳ありませんハント様」
初めて見る煌びやかな世界にアリィは目を輝かせていた。だが、その場に長居していても埒が明かない。ハントはアリィを半ば強引な形で移動させた。
彼の歩幅はアリィの倍あったが、アリィは必死に彼について行く。ちゃんと逃げずに傍にいることにハントは少しだけ驚いた。
彼女は、自分が恐くないのかと訊いた。だがこの言葉はブーメランであり、ハントから彼女に対しても言えることだった。けれどアリィはなんの躊躇いもなくハントについて行く。行く宛てがないためか、何か心境の変化でもあったのか。それは測り兼ねるが、ハントにとってはこの上なく好都合だった。
不意に、目の前を馬車が通った。
昨日の雨で泥になった道をそれなりの速度で馬車が走る。端に避ければよかったのだが、アリィが考え事に集中していたために彼らはすぐには避けきれなかった。とりあえず自分に引き寄せておけばいいと瞬時に判断したハントは、アリィの体をそのまま自分の方へと引っ張った。
「えっ?」
しばらくアリィは固まっていたが、泥のはねた先がハントの足元だと気がつくと彼女は一気に青ざめた顔でハントに謝った。
「も、申し訳ありません!!」
「構わないけど。それよりも、考えてくれることはすごくありがたいんだけど、集中しすぎるのはいけないな」
「……はい……」
気をつけなさい、とハントが言い切る前に再び馬車が横切った。後方を確認すればまだ何台か馬車が通るようで、ハントは面倒くさそうにしながらもぐっとさらに強くアリィを自身に寄せた。
トクトクと心臓の音がアリィの耳を撫でる。初めての音に、アリィの顔は茹だった。
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