第7話 買われた意味
アリィはずっと考えていた。
目の前にいるこの貴族が、いかなる人物であるかを。
自分は化け物だ。
彼女の左手は全身が血に塗れていた。喩えでもあり、物理的にでもあり。気がつけばいつも、左手は赤く染っていた。
母なる人は言う。
それは生を司るものだと。そして死を司るものだとも。
幼いアリィは何を言われているのか、その時は理解できなかったが、その言葉を本当の意味で知ったのは彼女が十五歳の時だった。
◆
「……それで? 何が訊きたいんだい?」
不意にハントの声がアリィの思考を現実へと引き戻した。そうだ、今は過去に足を入れる時間じゃない。アリィはゆっくりとハントへ視線を戻した。そして静かに口を開き、ハントに問うた。
「あの……。ハント様は、どうしてわたしを買ったのですか? ……恐ろしく、ないのですか?」
「何が?」
「わたし、が……」
「どうしてそう思う?」
「だって……人とは、違うから」
アリィは『アリィ』として生きる前、常に人でありたいと願った。普通でありたい。同じでありたいという欲求が強かった。その願いが叶うことはないのだが、名をハントに貰ったことで少しだけ人になれたと今は錯覚していた。
「……君、どう見ても人だろう? 君と僕の、何が違う?」
ハントの言葉が鋭くアリィの心を穿った。これ以上の勘違いはいつか自分を壊す。そう感じたアリィはまっすぐハントに向き直って主張する。ガタリッ、とアリィが勢いよく立ち上がったため、彼女の座っていた椅子はグラグラと揺れた。
「あの雨を見なかったんですか!? あれは、わたしがこの左手を使って描いた絵が、空から降ってきたんですよ! わたしの、この、左手で……っ」
アリィは震える体を必死に抑えた。自分の能力が、自分にとってどれほどの脅威かを彼女は理解していた。
左手で描いたものすべて、具象化する力。
それがアリィの化け物たる
その力をアリィはまだ制御しきれていなかった。だから余計に、左手の能力を行使することを避けていた。
使わないと決めていた。けれど、彼女の覚悟はいとも簡単に崩れ去った。
「だから?」
光のように差し込んだ柔らかな声は、世界から閉ざした視界を開く。怯えた顔でアリィは、目の前の椅子に足組みをして彼女を見つめるハントをその目に捉えた。彼の左目はまっすぐアリィを見つめている。そこに偽りはない。
「“だから”……って……」
「化け物結構。その力は沢山の人の命を救ったんだ。それのどこが悪いんだい?」
「――――」
「人を救う力を持つ者を、僕は恐ろしいとは思わない」
ハントの言葉は、一音一音アリィの心に浸透していく。報われていく。彼女の楔が掛かった心が絆されていく。胸が苦しい。これはどういう感情だろう。アリィは胸もとで左手をぎゅっと握りしめた。
「……何故君を買ったのか、聞きたがっていたね」
ハントは組んでいた足を逆に組み直した。
「……はい」
「僕には叶えなければならない目的がある。その目的のためには、君が必要なんだ。君のその、左手の力がね」
「わたしの、この力が……?」
アリィにはハントの言葉の真意が分からなかったが、ハントに何か思惑があったとしても、アリィはそれでもいいと思った。
自分を必要としている相手がいるというこの事実だけが、今の彼女を生かすのだ。
◆
「……もうこんな時間か」
ふと思い老けた顔をしてハントが窓の外を見た。外は暗く帳が降りており、雨雲蛙の置き土産とも言える小雨が残っていた。
「今日は色々あって疲れただろう。宿の部屋は二つ貰っているから、君はここで休みなさい。僕は隣の部屋にいるから、何かあれば寄りなさい」
そっとアリィの頬を優しく撫でた彼の手は、酷く冷たかった。まるで、屍人のように冷たい指先がアリィの頬を伝う。そうしてひと撫でが終わる頃には、アリィは何故だか彼の指先が離れることが心惜しく思えた。
「あ……」
「おやすみアリィ。……良い夢を」
ハントが部屋を出て行った。
彼の心が見えない。あの無い右目のように、冷たい指先のように、彼自身も冷たい人物なのだろうか。
それでもいい。
今はただ、買われた意味と存在価値を見出すことが自分の
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