第5話 描く左手と、君の名前
少女は解放した左手の人差し指を噛むと、血の流れる指でそのまま地面に触れ絵を描き始めた。
(何をするつもりだ……?)
ハントの中の好奇心と疑心とが揺れ動く。この間にも放火魔の放った炎は轟轟と燃え盛っており、ついには建物が全壊した。このままでは近くの建物全てに火の手が移る。そうなる前に、周りの人と共に救護の応援をしなくては。
その思考の答えにたどり着いたハントは行動を起こそうとした。――しかしできなかった。
できなかったのは、彼女が「絵」を描き終えたからだ。
彼女が描いていた物――それは《雨雲蛙》だった。
国では田舎の方に多く分布・生息する生き物で、そのぷよっとした豊満な体から放たれる鳴き声は見た目とは裏腹に大柄の獣のようだという。その鳴き声は天にも届き雨雲を発生させ雨を降らせるのだとか。
ハントは実際にその生物を見たことは無かったが、図鑑で見た通りの一寸の狂いもない絵に彼は目を奪われた。
次の瞬間、何かぷよっとした物がハントの頭にぶつかった。何がぶつかったのかと、ハントは重みを感じる頭に自身の手を持っていく。そして物体がいるのを確認してそのままそれを掴んだ。
「なにっ……? ……カエル?」
信じ難い光景だった。地面に描かれていたはずの雨雲蛙が、町の空から降ってきたのだ。
降ってきた雨雲蛙に驚いていると、周辺から悲鳴のようなものが聞こえてくる。ハッとして顔を上げると大量の雨雲蛙が空から降ってきていた。見渡す限りの数にハントは思わず一歩引く。
雨が降るように、平然と、雨雲蛙が降ってくるこの光景は異常だった。
(……これはなんだ? この娘がやったことなのか?)
「ガコ」
ハントに捕まっている雨雲蛙が、彼の心の内に答えるように鳴いた。
次の瞬間、共鳴を始めた蛙の大合唱が町全域に駆け巡った。まるで獣の遠吠え。耳を塞いだところで意味をなさないほどの共鳴音に酔いそうになる。
雨雲蛙の合唱が続く中、どこかでゴロゴロと雲が発生し、雨が降り始めた。雨雲は分厚く、まだそこから蛙の雨も降っている。
雨のおかげで頭が冷静になったハントは周囲を見渡した。人々がバケツに水を汲み消火活動を行っていた手は、雨雲蛙たちの大合唱によりもたらされた雨によって止まった。この状況では、人力より魔術を利用した方が早く鎮火が進む。雨は、火が完全に鎮火するまで降り続けた。
◆
「すごいな……鎮火した……」
憎き魔女の力のその一片を見たハントは、今だけは憎悪よりも関心を抱いた。
ふと足元に違和感を感じて下を見ると、放火魔だと思われる犯人が、数十体の雨雲蛙の下敷きになって伸びていた。
そのうちの一匹が「ガコ」と、まるで「犯人は私が捕まえたぞ」と言わんばかりの目をしていたのを、ハントは見逃さなかった。
完全鎮火から数分が経った頃、民間の自警団が数名現場に到着した。ハントたちは伸びていた放火魔が逃げられぬようずっと監視をしていた。
のちに自警団から聞いた話によると、放火魔は仕事をリストラされたことによる恨みから、雇用主であった人物の家に火をつけたらしい。自供と共に、証拠のマッチが当時着用していた衣服から見つかったそうだ。
私怨による犯行。ハントには犯人の気持ちが痛いほど解った。
◆
「よかった、人が死ななくて……」
彼女の声が聞こえて、ハントは我に返った。
「……ああ、ごめん。何か言った?」
「いえ。ただ被害が少なくて良かったなって」
「ああ……」
確かに、今回建物は倒壊したが、その前に雇用主は逃げ仰せていたらしく怪我も軽傷で済んだそうだ。辺りにも
「良かったな。これは君の手柄だよ」
人前ではその功績を話せないだろうけれど。
ハントは言いかけたその言葉をぐっと飲み込んだ。きっと彼女は理解している。それを解っていて、ハントは敢えて言わなかった。
「――アリィ」
「え……?」
ハントは、彼女を見て、閃いた。
雨を呼ぶ姿が凛々しく、それでいて不覚にも美しいと感じてしまったこの気持ちを言葉にすると、彼女に相応しい名前は《
「僕の故郷では、雫のことをそう言うんだ。今の君の名前にピッタリだろ?」
半分はからかいの気持ち、もう半分は、本心。
覚悟を決めていたはずの彼の心が、揺らぎ始めてしまった。
揺らぐ気持ちを彼女に悟られぬよう、ハントは口角を上げて微笑んだ。
「君の名前は、アリィだ」
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