第3話 画廊の名もなき少女
貧民街の入口から少し南に進んだ場所に、老婆から聞いた噂の隣町がある。知り得た情報だと、程なくして現れる小さな画廊にその少女はいるという。
画廊にいるということは、少女は画家として雇われているのか、それとも不思議な絵を描くというから金の成る木として飼われているのか。
画廊が現れる気配を微塵も感じずに目的地へとたどり着いたハントは「ま、そんなもんだろ」と短く息をついた。
所詮は噂。ハナから期待はしていない。
ハントは、とりあえず次の情報を得ようと周辺を散策する。と言っても、人っ子ひとりいない状況では得ようにも得られないことの方が多い。ハントは動けないもどかしさに大きなため息をついた。
人を探し始めて数十分が経った頃、初めて人の声のような音が彼の耳に届いた。人を求めているから人の声に聞こえるだけで、野犬か何かかもしれない。そうも考えたハントだったが、一縷の望みをかけて声のした場所へ向かった。
◆
結論から言えば、声の正体は「人」だった。
興奮しているのか荒い息で、何かを蹴る音が併せて聞こえる。目的地の側にある路地裏で、暴力の現場があった。
貧民街ではよくある事だ。今までも沢山見てきたが、少しでも地位や財がある者はカースト階級において力の無き者を支配したがる。
なんて醜い心か。
さて、どうしたものかと思考していると「ゲボッ」という今まで聞こえていた空咳とは似て非なる重たい音がハントの耳を掠めた。その音が妙に気になったハントは、ゆっくりと近づき怪しまれないように現場を覗く。
そこにいたのは、酷い姿をした少女だった。
少女は血を口の端から流しており、側には肩で息をしている中年男性があった。見ればそこは老婆の言っていた画廊だった。店の前にキャンバスがいくつも投げ捨てられる度、大きな音が周囲に響き渡った。
おそらく少女が目的の人物で、中年男性が雇い主の画商だろう。
「お前、何してくれてんだ! 俺が描けと言ったのは命を持ち勝手に動き出す絵だ! なんだこれは、餓鬼の落書きじゃねえか!」
「うっ」
中年画商は容赦なく少女の腹部に一蹴する。少女は痛みを少しでも逃がそうとしているのか、腹部を丸めていた。反抗する意志も見えず、かと言って死にたがりにも見えず。不思議な少女だった。
「こんにちは。美しい絵ですね。これいくらですか?」
ハントはこれ以上目的の少女が傷つけられるのを見過ごすわけにはいかないと、彼らの中に割って入った。
貴族姿のハントを、画商は少し警戒しながら見つめた。どうしてこんな貧民街に貴族様が? という疑問を小さく呟いている。
そんなことはどうでもいい。ハントはもう一度「これ、いくらですか?」と画商に訊く。画商の気が削がれている今が観察のチャンスだった。
年の頃は十五から十八の間に見える。身なりはここにいる子供たちと同等、いや、それよりも低い。ボロボロの服と曇天色をした髪が、彼女のこれまでの人生と心体を物語っている。痩せ細った体は触れたら最後折れてしまいそうだ。
ふと彼女の手元に散らばったキャンバスを見ると、確かに何を描いたのか分からないものがそこに描かれてあったが、ハントが気になったのは絵ではなく、彼女の左手だった。
厳密に言えば、左腕が気になった。
右手には無い、左腕にだけ装着された白くくたびれた手袋。
問題はその長さにあった。
基本手袋は手首までの長さだと思われるが、どこでそんな長さのものを拾ったのかその手袋は肘の辺りまであった。俗に、オペラグローブと呼ばれるものだろうか。両方に着けられているならまだしも、左腕にのみというのも、ハントの興味をそそるには十分だった。
(……当たりだな)
ハントは確信めいた笑みを浮かべて、キャンバスの一つを手に取った。
「……不思議な絵だな」
「え」
ハントはここで少女に接触を試みた。少しして、ハントに声をかけられたことに気がついた少女は、ビクリと肩を震わせて恐る恐る目線を上げた。
「これは生き物か?」
「い、いいえ……。特に、何も、考えてないです」
「そうか」
確かに、考えていないと言うのも頷ける、ただの線が何層にも重なっただけの絵だった。これを「絵」だと言うには微妙な気もするが、彼女がそうだと言えばそれは「絵」となり価値がつく。絵のモチーフが生き物でないことに若干落胆したが、それは仕方がない。
ハントは、この少女が「そう」だと思った。
「よし。君のこの絵、言い値で買おう」
「え」
「……いや? 僕は君が欲しくなった。君いくらだ?」
「お待ちください旦那様、こいつは」
「僕は今この娘に聞いているんだ! あんたとの交渉じゃない」
ハントと少女の交渉の場に割り込んできた中年画商はハントの気迫におののいた。
少女は長く考えた後「1ペイン」と呟いた。せいぜいパンが1斤買える程度の金額を、自分の価値だと提示した。
ハントは「ノッた」と笑った。
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