第3話 時沫の天球儀
しゃりん、しゃりんと星屑がさざめいている。
宙はどこまでも続いているようにも、本物はほんの一部のみで他はすべて張りぼてであるようにも見えた。果てのなさに息が詰まりそうな閉塞感はしかし、わずかな隙間を縫うようにして走る甘やかなチェロの音に緩和される。
じわりと甘美な響きをもたらすその音は、毒。
鋭利な星屑たちに傷をつけられたほうがまだましだと言えるような、聴いた者を昏い狂気へと引きずり込む罠だ。
チェロ弦に弓をあてがう青年はそのことを知っているが、正しく理解をしていない。彼はただ己の感性に任せて旋律を紡いでいるだけであった。
(うん、今日もいい夜だ!)
宙ぶらりんとした悦楽を宿し、微笑む。
角度をつけて繊細に引いた弓が星屑の尾を引くように残響をもたらした。
チェロ弾きの青年が今いるこの場所は、彼がマエストロと呼ぶ夜の魔術師が作った惑いの間――魔術によって組み上げられた閉鎖空間である。
文字通り人を殺める芸術を紡ぐ彼はなにかとその身を狙われることが多い。人間としては例外的に魔法の要素を持つためそう簡単に他人の手に落ちることもないのだが、なにより演奏の邪魔をされることが煩わしい。
その点、外界から隔絶された惑いの間であれば自分が意図しない限り他者の介入に対する危惧は不要だ。
この空間を譲ってもらう際、彼は対価として少なくない音を夜の魔術師に削られた。それでも好きなときに好きなだけ演奏できるという魅力には抗えるわけもなく。
夜の魔術師が直接開く夜に比べると数段、質は劣る。だが気紛れな彼がその夜へ他人を招くことはあまりないのだ。チェロ弾きの青年であれば押し入ることも可能だが、あまりやりすぎると魔術師の機嫌を損ねかねない。
(マエストロの、あの凪いだ夜はいっとうにいい音がするからなー、あんまり崩したくないよね)
息遣いさえも響くような静謐と、絵画のごとく繊細に張り巡らされた悪意の夜。チェロ弾きの青年はその中で紡いだ音をうっとりと反芻し、ふと、そんな毒めいた音を先ほど披露してきたばかりだと思い出す。
「ええと……なんだっけ。シエルレル……違った、シェリラ…………ああ、シェルレリッラ!」
ほんとこれ言うの面倒だなー、と贈与の魔術に対する不満を独りごちた彼の目の前に現れたのは、人間の頭よりふた回りほど大きな天球儀だった。底のない海のようにも、星まで届く空のようにも見える青い結晶石。その周りで星々が幾重にも軌道を描いている。
手にしていたチェロをどこかへしまい、チェロ弾きの青年は天球儀に付与されていた魔術の文字を読む。
『時沫の天球儀。時の波から生じた糸を仮初めの星々によって強く
きらりと本物らしい星灯りを零す仮初めの星を指でつつきながら、「ふーん」と彼は呟いた。
この天球儀は、とある国の王が開催した演奏会という名の粛清にて、
作成者は時の魔術師であるというのはもっぱらの噂だが、魔術師の存在も含め、その真偽は定かではない。
時を司る、永遠に等しい命を持つ時の魔女と、彼女を愛してしまった人間の物語。魔女と同じ時を生きるため、その身に時の要素を取り込んだという眉唾ものの伝説。真実を知っているであろう長きを生きる者は古い竜や魔女くらいで、しかし彼らは二人の話になると口を閉ざすばかりだ。
ただ、時の魔女と時の魔術師の二人はどんな時間からも切り離されたところで仲睦まじく暮らしているのだという噂だけを残して。
もっとも、ユオが世界の選択を揺るがすような危うい品を褒美に選んだのは単純にその造形が好みであったからで、この惑いの間にはそのような経歴で持ち込まれた品々が多く飾られている。演奏家として卓越した感性を持つ彼の選ぶ褒美は芸術的価値の高いものばかりで、さらにその気質ゆえに曰くつきのものが集まりやすい。
そのような品々が(ユオにとってはこだわりがあるとはいえ)無造作に置かれているのだから、実のところ、この惑いの間は魔法と魔術の特異点としても機能しているのであった。
魔法に長けた者であればその濁りに眉をひそめるだろうし、魔術を扱う者であれば乱雑な配置にめまいがするかもしれない。そしてそもそもこのように濃い魔法とさまざまな魔術が混線する空間では、普通の人間であればたちまち崩れてしまうのだということを、チェロ弾きの青年は知らない。
*
無数に思える星々を動かし、時の流れの
時沫の天球儀が見せるのは本流にはあるはずのない景色。
竜の生み得ない事象が起こり、魔女や聖人たちの作り上げた理は歪み、妖精の見守る大国の衰退も異なる顛末を迎える。
歴史家が見れば興奮に胸が張り裂けるような光景を、しかしユオは興味がないと軽く流す。天球儀の星を動かし、また別の世界を紡ぐ。
そんな彼が目を留めるのは夜の風景だ。
陽の届かない闇に満ちた世界。死者たちが闊歩する祝祭。凝るような悪意と怨嗟の声に悦びの旋律を見る。
特殊な背景を持つチェロ弾きの青年がこうして思うまま深淵に心を動かすようになったのは、ひとえに夜の魔術師の存在があったからだろう。
魔法の要素を持って生まれたユオの発する音には、純粋なほどの淀みが織り込まれている。
歌えば聴衆が病に倒れ、紡いだ旋律は毒を孕む。
なんの因果か、淀みを持つ彼は物心ついたころにはすでに音楽に心惹かれていた。そうして大好きな音を紡げば紡ぐほど、周囲には誰もいなくなる。誰も演奏を聴いてくれなくなる。
魔術を極めれば音の魔術師として名を馳せたであろう彼はしかし、演奏家でいることにこだわった。人を殺める芸術を生み出す自分が演奏家として大成しないことを知りながら、それでもなお。
緻密に組まれた旋律は彼が成長するにつれ複雑な魔術へと育ち、無差別に残虐な毒を散らしていく。
また聴衆は減っていく。
そうして幾度となく演奏の機会を奪われ、腐りかけていたユオを見つけたのは夜の魔術師だ。
駒として使われる運命だとしても、それは彼にとってこれ以上ない僥倖であろう。夜の魔術師は音毒のチェロ弾きと呼ばれるユオに、道を外れたままでいることを望んだのだから。
*
その日ユオが時沫の天球儀を使って見たのは、かつて空の怒りに触れて滅びたはずの聖人が存在している世界であった。事象を守るという本質を持つ聖人のいる世界はどことなく和やかで、彼はざらざらと肌なじみの悪い音に眉をひそめる。
それでもすぐに流してしまわなかったのは、映る聖人に寄り添って星を眺める女性に引っかかりを覚えたからだ。
(これは森の魔女……かなあ?)
ただの投影でありながら強く滲む森の要素と、ふわりと儚い雰囲気を醸しながらいっとうに美しい深淵の気配はまさしく力のある魔女のもので。仲睦まじく夜に語らう二人の関係性は言うまでもない。
近ごろの夜の魔術師の目が森の魔女へ向いていることは明らかだ。彼の紡ぐ夜はより人ならざる者の凄絶さに似て洗練されたものに近づきながら、どこか切実で甘やかな香りをくゆらせるようになっている。
ただページを埋めるためだけに夜を過ごした女たちとは違う、彼自身が登場人物となることを望んだ相手。
その魔女の、あったかもしれない聖人との未来。
(わー、マエストロが見たら荒ぶりそ……)
淀みに鋭く歪んだ感性を持ちながら――否、それゆえユオは夜の魔術師を他者より理解する。
とはいえその理解が夜の魔術師に対する助けになるとは限らない。
(うーん、でも、マエストロ自身に向けられるんならいいのかも。それはそれで……激情に翳る夜って感じがして)
きっとそれは静かに燃える星のように、強い熱を孕んでいるのだろう。しかし夜の魔術師が紡ぐのであればどこまでも美しいはず。なんだかとても素敵なことのように思えてきて、チェロ弾きの青年は唇の端をへらりと緩ませた。
張りつめた硬質な金属のような響きも、甘やかで濃密な睦言のような響きも。
ユオは自由自在に操ってみせる。
深くおぞましい夜の中で、彼は思う。いちばん美しい夜を紡ぐ魔術師が、少しでも長く続けばよいと。
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