第2話 夢逢いの水晶玉

 ぬくい風に、彼らの高貴なる女王の光が混じり始めた。

 淡い朝焼けにも似た光は可憐な野花の香りを纏い、広大な空と大地を自由に駆け巡る。やわらかに、しかし濃密に春の要素をまき散らせば、世界の春は安定していく。

 春風の誘いを受けて飛び立つ陽光綿毛の妖精にとって、それは甘美で抑えようもない歓喜を喚び起こす光景だ。

(母さんの言ったとおりだわ)

 春風の精の女王が放つ光はとりわけ鮮烈で芳しい。その眩さに、年の初めに生まれたばかりのティルファはくすぐったいような、わぁっと叫びたいような、そんな気持ちで胸がいっぱいになる。

 しかし同時に、あと少しで陽光綿毛の妖精たちは旅立ちの時を迎えるのだという実感が、歓びをじくじく重たく侵していくのだ。

「……今夜ので、最後なのよね」

 一族の住まう大樹、その枝に隣り合って腰掛けたティルファの母親は彼女の言葉に曖昧な笑みを浮かべた。

 陽光を浴びる母娘の、綿毛に似た温かみのある白い髪が煌めきながら春風になびいている。同色の羽は軽やかに透き通り、風を濾過するようにふわりと光った。

 ティルファは自室のベッド横に置いてきた、花貝殻のように美しい春の結晶石たちがつまった水晶玉の容れ物を思う。入手はそれほど難しくないとはいえ、決して安価なものではなく、それを何度も用意してもらったのだという罪悪感を。

 ゆえに彼女は決意する。なんとしてでも今夜は成功させなければと。

 ――自身の魔法の要素を得なければと。


 陽光綿毛の妖精というのは元来魔法の要素を少なく持って生まれる。

 妖精という種からすればそのこと自体は珍しくない。魔法の代わりにと魔術を生み出したのは妖精であるし、気質も魔女や竜のそれと比べれば基本的に魔法を持たない人間に最も近い。

 しかし陽光綿毛の妖精は、陽光を蓄え、春風に乗って旅をするのだ。膨大な魔法の要素に身を晒す彼らは、自身の要素をしっかりと保っていなければ溶けて消えてしまう。それが魔法を持ち難い一族でありながらも積極的に魔術を育まない理由だ。

 寝間着に着替えたティルファはもそもそとベッドに上がり込み、美しい水晶玉の容れ物を腕に抱える。

 春の小川を思わせる魔法のさざめきの中、いざなうように春を揺らす結晶石たち。

(この中に、わたしが得られる要素はあるかしら)

 ティルファは一族の中でもとりわけ魔法の要素が少なく、ほとんどないといってもよいくらいであった。魔法の要素を得るための魔術具である夢逢いの水晶玉をいくつ消費しても、春の結晶石はなかなか共鳴してくれないのだ。

 夢の中で結晶石たちの見せる春に触れていく。

 今夜、結晶石が応えてくれなければ。

 間近に迫った一族の旅立ちに、彼女は溶け崩れてしまう。


       *


 ほどけるような青のやわらかさ。身を包む海水はひんやりとしていて、しかしかき混ぜる春風がほのかに匂いを残す。

 呼吸を始めた高山のあえかな芽吹き。陽光の抱擁に葉は清廉な緑を帯びていく。

 雪たちの、翌年の再会を願う声。

 穏やかな夢うつつに笑み溢れる宵ひなげしの花。

 巣作りをする鳥と木枝の攻防。

 結晶石の数だけ景色は変わっていく。ゆらゆらと夢を旅するティルファの意識は温かくほぐされて、まさに夢見心地といったようすだ。

(わたしは、この季節がほんとうに好きだわ……!)

 まだ半分の季節も経験していない彼女であるが、春風に歓びを見出す陽光綿毛の妖精としての気質か、春を想う気持ちはどこか確信をもたらしていた。

 それなのになぜだろう、とティルファは思う。

 伸ばした手の、指の隙間からするりと零れていく春の灯火。その最後の感触がひどく儚い。


       *


「…………駄目、だったのね」

 つう、とこめかみを伝い落ちる涙に魔法の要素はないままで、ティルファの母は今まさに目覚めのさなかにある娘が零した涙を指で掬い取る。

 微かに触れた指の優しさを、ティルファは甘やかな微睡みの中で感じていた。それは自分の手指では掬えなかった幸福が継ぎ足されるようで、しかしわずかに足りない。ぱかりと空いた虚しさに押し出されながら彼女は瞼を持ち上げる。

「母さん。わたし……」

「ティルファ」

 見上げた母の瞳に潤うものを見つけて、このような時でありながらも妖精の涙はなんて綺麗なのだろうとティルファは感心した。

 自分が春風に溶けてしまっても、きっとこの温もりは消えない。そう考えて微笑む彼女を悲痛な表情で受け止めたティルファの母は、なにかを決心するようにふうっと息を吐く。

「あのね、ティルファ。実はひとつだけ、まだ試していないことがあるの」

「母さん?」

 思わぬ言葉にティルファは身体を起こし、どこか浮かない表情を残したままの母に顔を寄せる。そうしてふと現実に気づき、首を横に振るのだ。

「駄目よ、母さん。この水晶玉だって、もういくつ使ったかわからないわ。……きっとわたしは、なにをしたって無駄なのよ」

 抱えたままの水晶玉の中、眠る前まではたしかに春の煌めきを宿していた結晶石はひとつ残らずその光を失っている。何度も目にしたその沈黙に、ティルファの胸はぎゅうっと苦しくなった。

 その苦しさを上書きするように、魔法を持てない陽光綿毛の妖精を母親は抱き締める。

「そんなこと、言わないでちょうだい。あなたは母さんの大事な娘。娘を生かすためならなんだってするのが母親というものよ」


 春風のざわめきは日々強くなっていく。

 彼らがさらに力を増し、夏の気を呼び込むほどになれば、陽光綿毛の妖精たちはたちまち飛び立っていくだろう。

(その中に、わたしはいられないんだわ。でも、母さんは……)

 夢逢いの水晶玉の最後のひとつを使ってしまったあと、ティルファの母はまだ試していないことがあると言ってどこかへ出かけてしまった。どのような伝手があるのか知らないが、数日も大樹を離れるのはティルファが生まれてから初めてのことだ。

 もしかすると危ない橋を渡っているのかもしれない母親に対する心配と、そこまでしてもらっても期待には応えられないのではないかという諦念と。

 積み重なる不安に目覚めた朝。ようやくティルファの母は帰ってきた。

 しかしその手の中にある物を見て――否、それ・・を持つ母の手の爪を、羽を、瞳を見て、ティルファは陽光を蓄えたような白金色の瞳を揺らす。

「母さん……?」

「驚いたかしら? この水晶玉は人間の魔術師から譲ってもらったのよ。純粋な春の要素ではない、夜を紡いだ結晶石だけれど」

 夢逢いの水晶玉の中に入っている結晶石はひとつだけだった。しかし深い夜の色が複雑に揺らめいていて、繊細で優美な曲線に磨かれた表面は芸術品と見紛うほどに美しい。よく見てみれば、よほど要素が濃いのか水晶玉の中で小さな夜が始まっている。

 人間が紡いだとはとても思えない、ぞっとするような夜の深さを、ティルファは心底恐ろしいと思った。

 なにより滲む夜の昏さに母親が侵食されていることは明らかで。

 涙目で見上げたティルファの視線を受け止めるのは、星屑の風を含んだような瞳。

「母さんも、あなたみたいに生まれつき魔法の要素がひどく少なかったわ。だからティルファの気持ちもよくわかる。……でも、でもね。それでもと抗いたくなるの。あなたにはどうか、生きていてほしい」

 まるで自分はもう生きられないというふうにも受け取れる言葉に、ティルファはひゅうっと息を飲み込んだ。

「心配しないで。母さんも損なわれるわけではないのよ。魔術師の扱う夜があまりに濃いものだったから、その要素をもらってしまっただけなの」

「そんな……」

「彼は、たしかに人間にしては厄介な気質だったわ。けれど、なにか目的があったみたいだから」

 だからこの夢逢いの水晶玉に関しては期待できるのだとティルファの母は言う。

 ティルファの心配は別のところにあったが、母親の、純然とした表情は今までと変わらない。そう気づき、彼女はそっと口をつぐんだ。

 軽やかな綿毛色をしていたはずの母の羽がもう、陽光を透かすことはないのだとしても。


       *


 それはティルファが今までに見たことのない景色だった。

 深い深い夜の隙間から、なにかよくない・・・・ものがこちらを覗いている。

 星々は美しくもどこかひりつくように鋭く煌めいて、周囲に散らされる光はその残像だろうか。

 快楽の沼へと堕とす囁き。捕らえたものを逃さない茨の鎖。

 悪意と絶望と、底しれぬ狂気。

 孤独な夢だ。

(ううん)

 夢逢いの水晶玉が見せる夢はいつだってそうだった。得るべき要素を掴むのはティルファひとりにしかできない。たとえ恐ろしい夜の中であっても、自分でゆくしかないのだ。

 今は、母親が自分のために用意してくれたのだという事実だけが彼女を後押しする。

 夢の奥へ進めば進むほど、めちゃくちゃに絵の具を重ねたように闇はべとりとしていく。暖かな陽光を愛する陽光綿毛の妖精にとってその光景はおぞましさ以外のなにものでもなかった。

 それでも、とティルファは気持ちを強く持ち直す。

 そう願ってくれた母親の思いを無駄にはしたくない。


       *


 目覚めたティルファが最初に感じたのは、ずっと横で見守ってくれていたのであろう母の存在の希薄さであった。

 それは消えゆくものの質ではなく、どこか遠くへ行ってしまうような揺らぎ。

 しかし彼女が疑問を口にする前に、ティルファの母は喜びと安堵を隠しきれない口調で、溢すように呟く。

「夢の中で、あなたはなにを見つけたのかしら」

「あ……」

 たったひとつだけの結晶石がティルファに見せた景色はたくさんあった。けれど母親が聞きたいのはそういうことではないのだと、ティルファはもう知っている。

 静かで、しかし引きずり込むように強烈な意思を持った月光。その狂わしいほどに婉然とした視線に、ティルファは惹かれたのだ。

「そう……ティルファ、あなたは月光綿毛の妖精さんに生まれ変わったのね」

 愛しそうに髪を梳くその手指を、自分の中で明確に変わったなにかを、ティルファは黙って受け入れる。指の中で魔法を帯びて光る髪の綿毛色はこれまでと同じように見えて、正反対の性質をしていた。

 陽のもとではなく、月のもとでこそ輝くように。


 しかして陽光綿毛の妖精たちが春風に旅立つ日はやってきた。

 たくさんの兄弟や親族を見送って、とぷりと陽が沈んでいく。滲むように藍が広がっていき、そうすれば、ティルファの時間がやってくる。

「ティルファ」

「母さん」

 方向性を持たない夜に侵食されて狭間妖精となったティルファの母。存在自体が揺らぎ、それでもここにいるのだと確認するように握った手の感触はやはり儚い。

 夢逢いの水晶玉を使い正式な手順を経て夜の要素を得たティルファとは違って、母のそれは不協和音だ。安定しない要素が他の要素に触れるだけで、意図しない場所へと繋がってしまう。

 それでも同じ要素を持つティルファであれば、探すことは不可能ではないのだ。

 なにより、母親のこの選択は自分に対する愛があったからで。

 だから悲しんではならないと、ティルファはやわらかな春の夜風に羽を揺らし、透き通る月光を胸いっぱいに吸い込んだ。

「わたし、何度だって会いに行くから!」

「ええ、ええ。待っているわ。……さあ、ゆきなさい」

 その言葉にティルファは一瞬、瞳を揺らし、しかしもとの気質を思わせる晴れやかな笑顔を浮かべる。

 世界でたったひとり、月光綿毛の妖精が飛んでいく。


 ひそりと落とされた月影の中。いつまでも、いつまでも、娘の旅立ちを見つめ続ける妖精がいた。

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