揺らぐ夜の時波

ナナシマイ

第1話 森溜まりのスプーン

 ファッセロッタの街外れ、深い森の奥にて木々が見下ろす小径を抜けた先にその家はあった。

 春を迎えた森の中でも雪をまとったかのように白く輝く木は異質で、そこに住まう者の性質が表れている。これから向かう先はそういう・・・・場所なのだと、森の魔術師は息を飲み込んだ。

(大丈夫、しっかりするんだテーリアルト。何回も挑戦して、ようやく今日、見つけられたんじゃないか。森の魔女の弟子になるって、僕は決めたんだ!)

 人間とは違って長い時を生きる魔女はその住処を隠す傾向が、あるいは周囲の思惑によって隠される傾向がある。この家がそのどちらであるかをテーリアルトは知らない。それでも人間には珍しく魔法の要素を持っている彼がここまで苦戦したという事実が、住人である森の魔女の強大な力を示していた。

 事前にファッセロッタの商人たちから聞いた噂では、森の魔女はその伝説とは裏腹に気さくな性格をしているという。よく店を訪れるのだと誇らしげに話していたペーパーショップを営む妖精は若草色の羽を優しく光らせていたし、高級レストランで働く給仕は知り合いの人間がたいへん世話になっているのだと穏やかに微笑んでいた。

 だが、噂は噂でしかないらしい。

 穏やかな春の陽射しを浴びた森の中。にもかかわらず家のあたりだけ夜の要素が強く滲み出ているようすはあまりにも荘厳で、森の魔術師たるテーリアルトは今一度気を引き締めた。

 ここには正真正銘、森の魔女の物語があるのだ。

 ローブの上から、手土産にと持ってきた魔術具の感触を確かめる。小さいが、今の彼が使える最高の魔術を練りあげて作成したものである。

(よし、準備はできているぞ。魔女がどんなひとだって、驚きはしないさ)

 そして扉をノックしようと腕を上げ――いきなり開いたことにさっそくびくりと身体を揺らす。

「あら。はじめましてのお客さんです」

 しかし思いのほか清廉な響きの声にほっとしたテーリアルトが視線を下ろすと、こっくりとした、どこまでも深い葡萄酒色の瞳と目があった。

「……貴女が、森の魔女さま?」

 微笑みながら頷いた彼女の、瞳と同色の髪がふわりと揺れる。かすかに星の銀色が煌めくのは強すぎる魔法の力ゆえだろうか。どれだけ懐かしさのある色合いをしていても、魔女のそれは周囲から隔絶された美しさを持っている。

「そういうあなたは森の魔術師さんですね?」

「ぼっ、僕のことをご存知で!?」

 歓喜に頬を染めたテーリアルトの目の前で「まさか」と首を振る魔女はそのまま顔を寄せてくる。さらに赤まる森の魔術師の顔。しかしそんな彼を気にした様子もなく、森の魔女は、くんと鼻を動かした。

「森の香りがします」

「…………それは、貴女に会いに来たのですから」

「ふふ、今日のわたくしは人間にとても人気があるようです。さあどうぞ、お入りくださいな」

 魔女の言動にひとり翻弄されたことを恥じつつ、ともかく歓迎されたようだとテーリアルトは安堵した。そうして森の魔女に促されるまま足を踏み入れて。

「うわっ!」

 きん――と頭を揺らす音と、向けられた鋭利な夜の切っ先。

 テーリアルトは慌てて立ち止まる。

「おい。不用心に人を家に入れるなよ」

 聞こえてきた声は残酷なほどに昏く、硬質な夜の響きを含んでいた。


「――で、どうして夜の魔術師なんかが森の魔女さまの家にいるんですか」

 案内されたテーブルには先客がおり、魔女が飲み物を用意するために奥へ消えると、知り合いと表現するにはいささか苦い思い出のある相手を軽く睨みながらテーリアルトはその向かいに腰掛けた。

「お前に言われる筋合いはないな。この家を見つけたのだって、どうせ俺の証跡を辿れたからだろ」

 先ほどテーリアルトへ向けられた夜の刃はそれなりに物騒なものであったが、森の魔女がたやすくはじいてしまったからか、あるいは結果としてテーリアルトが守られるかたちになったからか、夜の魔術師の機嫌は悪い。磨かれた黒檀のように艷やかな瞳にはきっちりと着込んだジャケットの藍色が映り込んで複雑な昏さを宿し、一見平凡に見える青墨色の髪は嘆息とともに妖しく揺れる。

 特殊な背景を持つはずの森の魔術師から見ても同じ人間とは思えないような雰囲気を醸し出しているのが、夜の魔術師という人間なのだ。

「おや。では森の子を呼んだのは君ということになるね、夜の子?」

「……ったく」

 しかし、そんな森の魔術師と夜の魔術師の睨みあいに割り込むのは、花蜜を垂らした氷のように、甘やかでありながらもひやりと鋭い声。それは森の魔女が持つ鮮烈な色彩と同じで、明確に人とは異なるものであった。

 夜の魔術師さえも黙らせたその声は、この家そのもので、さらに言えば森の魔女の家を周囲から隠している張本人(家……?)であるという。

「あの子は前に、僕のことを『森と同じ』と言ったのだよ」

 腹の底から凍らされるような声色に森の魔術師は息を呑み、その言葉が持つ意味に夜の魔術師は息を呑んだ。

 そんな夜の魔術師の表情の変化をテーリアルトはいまだかつて見たことがなく、ふむ、と心の中で頷く。

(僕たち人間の魔術師と違って、冠する名はそのひとの要素そのものでもあるんだ。だからこの場合、森の魔女の家を損なうことは彼女自身を損なうことと同義に違いない)

 そうなった森の魔女がどのように恐ろしい変貌を遂げるかは知らないが、それはきっと、人間にとっては災厄にも等しいものであるだろう。

 ちょうどその時、お盆にほっこりと湯気の立つ三人分のお茶を乗せた森の魔女が戻ってくる。

 意を決してローブに手を入れたのを夜の魔術師が警戒したことに気づいたが、テーリアルトは気にせずに中の物を取り出した。

「森の魔女さま。僕を、貴女の弟子にしてください!」

「……え?」

「…………は?」


 テーリアルトの発言に困惑を示した森の魔女であったが、それは一瞬のことで、次の瞬間には差し出されたものに釘付けになっていた。

 彼が手土産に持ってきたのは森の要素を多分に含んだスプーンの魔術具。木漏れ日を映したように光る金属と、優美な曲線で伝う枝の意匠が美しく、まるで初めから魔女の家に置いてあったかのように馴染んでいる。

「対象物の幸せを掬いとるための魔術具ですよ。森溜まりのスプーンとでも呼びましょうか。魔法の材料として幸せを使うこともあるでしょうし、これから二人・・で、さまざまな幸せを掬っていきましょう」

「まぁ……」

「おい」

「あら。こんなにも素敵な贈り物を受け取らずして、どうするというのでしょう?」

 さっそく伸ばされた森の魔女の手を掴んで止める夜の魔術師に、テーリアルトは「はあ」と息を吐いた。

「師弟の邪魔をするのはやめてもらえませんか」

「ほらみろ。余計な繋ぎを紡いでいるぞ」

「そうなのですか?」

「……ええ、まあ」

 相変わらずの目ざとさには辟易とするが、そもそもこれは森の魔術師としての提案であり、残忍で享楽的な夜の魔術師には関係のないことなのだ。

 引っ込められてしまった魔女の手を残念そうに見つめながら、テーリアルトはなおさら丁寧にスプーンを差し出した。

「森を愛する者どうし、僕たちは共にあるべきだと思いませんか? それにほら、僕は人間の魔術師ですが、見ての通り魔法の要素を多く持っています。それなりに長生きしますし、魔女さまのお相手にぴったりだと思うんです」

「……お前、こいつの寵愛を得る気か?」

「さて。でもまあ、長く一緒にいれば、愛が芽生えることだってあるでしょう。誰だって孤独は寂しいですからね」

「ほう、そうか」

 森の魔女よりも夜の魔術師のほうが強い反応を示したことを怪訝に思いながら返事をした瞬間。

「――っ!」

 先ほどに向けて溢した舌打ちよりも鋭さを増したそれは、散らした夜。

 闇へと引きずり込むような夜空には、容易に触れればこちらに傷がつくであろう荒削りの星々が混じる。

 べとりと沈んだ空気に森の魔女が仕方なさそうに微笑むのを、テーリアルトは得も言われぬ恐ろしさとともに見ていた。

「魔術師さん?」

 夜の滲む虚空を見つめた魔女の呼びかけには区別のための言葉が付属していなかったが、それがテーリアルトへ向けられたものではないことは明白だった。

 まるで彼女にとって、この場にいる魔術師はただ一人であるかのような。

 呼びかけられた当の魔術師は、森の魔女を一瞥して片方の眉を器用に持ち上げる。その下の瞳に浮かぶのは、堪えきれないほどの愉悦だろうか。

(なんなんだ、この二人は……)

 夜の魔術師による侵食が、「森を夜へ」と魔法の声で囁いた魔女に方向性を与えられる。不自然に断絶されていた窓からの陽光は淡い月光へと姿を変え、しとりと濡らすように居間を照らした。

「お前は本当に、節操がないな」

「せっかく素敵な夜をくださったのですもの。わたくし、夜の森は好きなのです」

「……まあいい。俺の用はこれで済んだからな」

 律儀に出された茶を飲んでから立ち上がった夜の魔術師、その襟もとで灯るような宝石をあしらったブローチが光った。こんなもの着けていただろうかという違和感にテーリアルトは首を傾げる。

 訝しげな視線に気づいたのか、夜の魔術師はひどく満足げなようすでその宝石に指を這わせ、そのまま退出した。


「それで、あなたはわたくしの弟子になりたいのでしたね」

「いっ、いえ…………やはり僕にはまだ早かったようです」

 これまで数々の修羅場をくぐってきたはずの森の魔術師が少しうわの空なのは、夜の魔術師が退出する際に見せつけてきた――と表現するしかないであろうブローチが原因だ。

 正確にはブローチに使われた暖炉宝石・・・・が、であるが。

 溶かした硝子のようにとろりと透明な石の中で灯っていた色を思い出す。それは今も目の前で強烈な印象を与え続けてくる深い色と、先ほどまで目の前にあった酷薄な青墨色で。

「そうですか……。では、こちらのスプーンはお返ししなければです」

 ひどく残念そうに揺れる葡萄酒色の瞳はふつりと消えてしまいそうなほど。その淡さに、テーリアルトは手を伸ばさずにはいられなくなる。

「森の魔女さまに差し上げるために作ったのですから、どうかこのままお持ちください」

「よろしいのですか? ……あ、でも、魔術の繋ぎ、があるのですよね……」

 夜の魔術師の忠告を思い出して呟いた魔女に、何度目かの苦さを感じた森の魔術師は曖昧に微笑む。

 さすがに簡単にはいかないと諦念を抱く彼だったが、ここで思わぬ後押しがあった。

「そうだね。……うん、祝祭の要素に百回ほど浸してからなら君が使っても問題ないだろう」

「ひゃっ……」

 その途方もない規模にテーリアルトは絶句し、しかし森の魔女とその家は彼を気にすることなく話を進めていく。

「それならすぐね。魔術師さんと過ごす時間は、あっという間に過ぎてしまうもの」

「……うーん、まあ、それくらいは許してもいいのかな」

「え、あの、夜の魔術師とはどういう」

 人ならざる者たちらしい会話には焦るばかりだが、までもが夜の魔術師を認めているような発言にはさすがのテーリアルトも口を挟まずにはいられなかった。

 一般的に暖炉宝石とは、女性が愛する男性に対する想いを宝石に込めたものなのだ。人間のあいだでは婚約指輪のお返しや結婚の申し出の贈り物として好まれる。

(魔女のあいだでもこの風習が流行りだしたのか、それとも夜の魔術師が強請ったのかわからないけど……)

 ただ想いを宝石に込めただけでなく、宝石そのものから紡いだのだとわかるあの馴染み具合は、明らかに森の魔女の意思・・であった。

「彼との関係、ですか?」

 こっくりとした葡萄酒色の瞳には、星を散りばめたような光が浮かんでいる。

 その輝きは手を伸ばすことを躊躇わせるほどの美しさだ。先の淡さは錯覚でしかなく、ああこれは自分の手に負える相手ではないのだと、森の魔術師は納得した。

(……たとえばそれは、夜の魔術師みたいに)

 内側から溢れるような恐ろしさや狂気を身に宿した者だけが、彼女の物語に登場できるのだと。

 ゆえに森の魔術師は、この先へ進むという選択肢を手放す。進もうとすれば必ず訪れるであろう我が身の破滅を思いながら。

 自分を損なってまでしてその懐へ入りたいわけではないのだ。

「いえ……。僕は今日、森の根源たる貴女へのご挨拶をしにきただけなんです。献上品もお渡ししましたし、これで失礼しますね。あ、お茶、美味しかったです」

 繋いだ魔術はあえて消さず、異なる形へと紡ぎ直した森の魔術師に気づいたかどうか。

 昼下がりの森の中。侵食の月光を受けた森の魔女は、霞のように睫毛を震わせながら笑みを溢した。

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