3-3:自殺霊と幽霊騒ぎ
下校時刻になっても外はまだ明るく、窓から夕陽が差し込んでいた。
教室は真っ赤な色に染まり、奇妙な空気に満たされている。
あれだけ学校中が幽霊騒ぎになったのは計算外で、この教室から人が消えるのを待つのも大変だった。
幽霊なんて、信じる人はいないと思っていたのだ。
だがやっと人気が失せた。
これでまた出来る。
無造作に退かされた机と椅子を一組ずつ持ってきて、それを教室の中央に配置する。
ドアの鍵は持っていないので施錠は出来ないが、念の為閉めておこう。
カーテンを閉めないのは、……何となく密室になるのが嫌だからだ。
赤い光に照らされながら、机の真上にある蛍光灯にロープを引っ掛ける。
引っ張ってみて強度を確かめて、上履きをきちんと揃えて脱いだ。
さあ、それじゃあ……行くぞ。
深く息を吸い込んで、深く息を吐き出す。
鼓動が早くなり、両手がじわじわと痺れてくる。足先はスーッと冷たくなって、不思議な高揚感に支配される。
この瞬間、この状態こそが、生きていることを一番に実感出来る時だ。
頭だけ輪を潜り、夢心地のまま。
机を蹴った。
「あっ…………かっ……」
ビンッと張ったロープに喉元が圧迫され呼吸が止まり、目の前がチカチカと光る。
自由になった足をバタつかせればスカートが揺れ、頭にどんどん血がたまって行くようなそんな感覚が脳みそを叩く。
ギッ……ギッ……と擦り切れる音と、パタパタと衣服が揺れる音がしばらく続くと「ブチッ」と終わりを告げる音が聞こえた。
直後にドサリと何か大きな物が落ちた音が聞こえて、締め付けられていた頭に酸素が行き渡る。
上がり切った体温は徐々に下がり、開放感に背筋がゾクゾクした。
自殺未遂。
やってはいけないことで、一歩間違えれば本当に死んでしまう危ない行為。
他人が見れば〝危ない遊び〟だと言うだろうが、本人からすればコレは自分の〝生存確認〟であり、その手段なのだ。
死のギリギリを味わうことにより、そしてそれから解放された時に、自分はこの世にきちんと生きているんだと実感する。
自分は、生きていいんだと。
自分自身に肯定する。
自分は何も悪いことはしていない、悪いのは皆なんだ。
皆が「死ね」と、「生きている価値もない」と言うから。
私が私を「生きていていいよ」と言ってあげないでどうすればいい?
毎日生きているのが辛い。学校にだって来たくない。
でも行きなさいと親は言うし、先生だって来なさいと強要する。
学校が嫌なら、その理由を言いなさい。力になるから、……と。
だったら早く、毎日下駄箱に入れられる動物の死骸を無くして下さい。
奪い取られる鞄を取り返して下さい。
切り刻まれた教科書を直して下さい。
階段から突き落とされるのを受け止めて下さい。
二階テラスの外れてしまう手摺を直して下さい。
横断歩道で押し出されないように見ていて下さい。
こんな風に苦しんでいる姿を、ちゃんと。
「見てるよ」
「ひっ!?」
突然背後から声がして振り返ると、目と鼻の先に誰かの顔があった。
こちらを見る男子生徒の前髪が、こちらの顔にも当たる。
「見てたよ……ましたよ?」
「な……何、あな……た」
敬語に言い直したのは学年が下だからか? 上履きの色を見ると一年生だったが、距離を取ってその男子生徒が誰かを確認すると思わず腰を抜かしそうになった。
「な、何で……ここに!?」
つい昨日、横断歩道で車に轢かれそうになっていた少年。
望永未来が、その少女を静かに見下ろしていた。
「キミ……死にたいんでしょ?」
「え……」
突然の切り出しに言葉を返せずにいると、望永は構わず続けた。
「だって、ドアの鍵なんて用務員室からすぐに取って来れるし……そのカーテンだって」
「……」
「誰かに見て欲しいから、開けてるんでしょう?」
その言葉にうんと頷けず、少女はすぐ後ろにあった机にしがみついた。
まさか、自分が疑似首吊りをしている最中にここに来たのか?
でもドアが開いた音はしなかったし……。
そう考えていると望永は少女との距離を縮める。
そしてまた同じ問いをした。
「死にたいんだよね?」
その言葉に、息を呑む。
「……だ、だって……私が生きていたって。もう誰も喜んでくれないし、皆はいじめるし……いじめてるのを見てても、私が不細工だから、誰も助けてくれないし」
いつも自分で自分に言っていた言葉を改めて他人に口にされて、とめどなく言葉と涙は溢れて来た。
「死にたい」なんて言葉を口にすれば、大人達は皆「そんなことを言うんじゃない」としか言わない、言ってくれない。
誰もこの気持ちをわかってくれない。
「死にたいっていつも思ってた。この首吊りだって、去年からやってた。初めは誰にもばれない様にって、初めは本当に死のうとしてたけど……でも、失敗して、それで」
「……そう」
「でも私、もう何回も死のうとしてるけど……でもっ」
「よかったぁ」
「……?」
泣きじゃくる少女に手を差し出す望永。
その手に縋るように、何の疑いもなく手を重ねようとした時だった。
――じゃあ、一緒に死んでくれるよね?
引っ込めようとした手を掴まれる。
「え、な……何が」
「ほら早く、早くしないと鍵かけられちゃう」
先程まで陰鬱だった顔が途端に笑顔になり、望永の力は強く、どんなに引っ張っても離してはくれなかった。
上履きを脱いだままなので踏みとどまろうとしても床を滑ってしまい、どんどん彼に引っ張られてしまう。
そして先程彼が言った言葉を、混乱する頭で反芻する。
「一緒に死んでくれるよね」という言葉を。
「まっ、待って……! 私そんな、こ、と」
「ずっと見てたんだよ。初めはね、幽霊かなって思ってたんだけど……何となく違う気がして……幽霊じゃないなら近付いてもいいかなって」
どんどん足を進める速度が速くなり、何故か階段を上り出した。
今までいたのは三階。その上は四階だ。
「それでちゃんと自分の目で確かめようと思って、あの教室でずっと隠れて待ってたんだ……そしたら、キミが来て」
「っ……!」
振り返りざまに見えた彼の顔を見て、頭の中で警報が忙しなく鳴った。
いくら走る気力を無くしても、抵抗する力を強めても、彼は彼女に構うことなく突き進んでいく。
どうしよう、このままでは、このままではこの少年に。
殺されてしまうかもしれない。
「あんな首吊りじゃ、全然気持ちよくないでしょ?」
不気味に笑う少年は四階の連絡通路に通じる分厚いガラス戸を開いて、人っ子一人いない閑散とした通路へと飛び出す。
下を見ても教員すらいない。
連絡通路の真ん中まで来て真下を見てみれば、そこにはアスファルトが広がっていた。
「探してたんだ……一緒に死んでくれる人」
「い……や……」
「いつもは僕一人でヤってるけど、本当に死ぬなら……誰かと一緒がいいんだ」
「やだ……やだ!」
「ここから落ちたら、きっと頭なんて簡単に割れちゃってね……中身も出てきちゃうんじゃないかなって……! いつも考えるんだ」
「やだ!! 誰か! 誰か助けて!!!」
ガンッと望永が手摺を蹴飛ばすと手すりの一部が音を立てて外れた。
手すりはそのまま落下して、大きな音を立てて地面に着いたことを知らせる。
そんな簡単に手摺が外れるはずがないと見てみれば、ご丁寧にネジが外されていた。
「ほら、見てみて。手摺でもあんなになっちゃって……」
「つっ……!?」
頭を掴まれて無理矢理下を覗き込まされると、目に飛び込んで来たのはひしゃけた金属製の大きな手すり。
しかも最悪なことに、曲がり尖った部分がほとんどこちらを向いている。
もし、この上にでも落ちてしまったら。
「きっと気持ちいいんだろうなぁ……体をあの鉄が刺すんだよ? まるで包丁が肉を突き破るみたいに、内臓も一緒に刺して……腹の中にドクドクって血がたっぷりたまるんだ」
「い、や……やめて、お願い……死にたくなんて」
「全身強打の時にはそれこそ頭のてっぺんから指先まで、電流が走ったみたいな感覚が」
「死にたく……ない……やだ」
ポタポタと流れ落ちる涙は目下へと落下していくが、地面にいつ到達したのかも見えない。
どうすればいい? 本当にこのまま、この少年と一緒に死んでしまうのか?
強い力で掴まれてはいないが、この手を振り解くのは自分には到底無理だ。
ぐっと後ろから体重が掛けられて、上体が通路から大きくはみ出る。
「っ!?」
「この高さから落ちても死ねないかもしれないし……ちゃんとあそこに落ちようね」
「い、いやっ! いやああああああああ!!!!」
どんどん体重が掛けられて手を置く場所が無くなり、重たい頭部が重力と共に下へ下へと体を引っ張って行く。
望永はもうどこにも掴まる気もなく、少女の頭と腕だけをしっかり掴んでいた。
「よし……じゃあ……」
「いやああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
体を支えていた手が遂に滑り、ガクンと体が傾いた。
こんなことなら自殺未遂なんてするんじゃなかった。
あんなことさえしていなければ、彼に目を付けられることは無かったのに。
そう悔いてももう遅い。
目がくらみ、血の気が全身から引く。
腕に強い衝撃が走る。
意識が一瞬飛んだ次には、背中に何か冷たい感触があった。
「……え?」
目の前に広がるのは赤い空。
何の障害物もない、空だけが広がっていた。
「ま、……間に合った」
「!?」
体を動かすと、自分が連絡通路に寝転んでいることを把握した。
すぐ脇に望永が転がっていて、自分たちの後方には一人の男子生徒が疲れ切って息を切らしている。
「……な、何が。わ、私……助かっ」
「コラ! 何をしてるんだ!?」
勢いよく開かれたドアの向こうには数人の教師がいて、口々に何かを怒鳴っていた。
声が重なってよく聞き取れないが、内一人は一階に落下して来た手すりの文句を言っている。
なるほど、あれを聞いてここまでやって来たらしい。
「私……助かったんだ…………」
そう呟いた少女は上の空のまま教師に連れられて行ってしまった。
床に転がったままの望永は動くことなく顔を伏せたまま、駆け付けた円道が教師にあることないことをでっち上げて説明し、何とかその場から退散させる。
結局通路には二人が取り残されて、円道も脱力して尻から座り込んだ。
「あ、危ねー……」
「…………」
「〝幽霊〟の正体って、あの先輩だったんだな」
「…………」
「何をしたせいで〝幽霊〟なんて勘違いされたかはわかんねーけど、とにかく間に合ってよかった……」
「……そうだね」
「やっと喋ったか」
望永は起き上がることはなく、そのまま丸まってブルブルと体を震わせていた。
「ホント……毎度毎度、こういうのはもうやめろって言ってんだろ」
「……うん、そうだね……フ……やめなきゃ……」
「…………」
「フフ……危なかったねぇ…………フフフ」
体を震わせて、望永は笑っている。
目をつぶったまま、先程の光景を何度も何度もその瞼に焼き付けるように思い出しては口元を綻ばせる。乱れた髪も気にせずに、至高の余韻に浸って。
何度も死の間際を味わう。
そんな彼を円道は冷ややかな目で見ることはなく、ただ静かに哀れんでいた。
「この時間までオレがセンセーの手伝いさせられてて結果オーライ、か」
まさかと思って気にはしていたのだが、あの女子生徒の悲鳴が聞こえて首の皮一枚繋がった。
あの声が聞こえなければ、間に合っていなかっただろう。
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