第6話 冥界暮らしの始まり

 黄泉戸喫の儀式を終えたが、特に体への変化はない。…あれだけ泣いてしまったものだから、寝る前くらいまでずっと目元の辺りが赤く腫れてたくらいで。

 晴れてこの世界の住人となった私は、彼ら冥界の住人から歓迎を受け、そこで生活を始めた。


 冥界で数日ほど暮らしてみて、いくつか分かったことがある。


 まず一つ、この場所で彼に仕える従者たちは皆、菊枝きくえと名乗ったあの侍女さんと同じように、顔を上手く認識できないこと。人によってはほとんど見えないくらいにまでぼやけてしまっているから、この場所に仕える従者の数は私が見ているそれよりももう少し多い可能性がある。

 この世界ではどうやら、信頼した相手以外の存在に顔を見せるのはタブーとされているらしい。薫も含め、この世界で素顔を晒している人物はほとんどいないようだ。ならば何もしていない私はどうなるのだろうかと気になったが、曰く、私にはあの人が術をかけてくれているらしい。

 私自身はがっつり素顔を晒して生活しているというのに、他人には私の顔は見えていないということだろうか。なんとも不思議な感覚である。


 そして二つ目。この世界にも、時間という概念は存在するということ。

 太陽らしい光は見えないが、朝が来れば明るくなるし暗くなって夜になれば眠たくなる。

 夜には星が見えるし、庭では咲いていなかった桜も、暦が春になれば途端に咲き出すらしい。


 三つ目。典型的な和風建築かつ、和風の暮らしをしているこの屋敷だが、頼みさえすれば大体のものは揃えてくれるようだ。洋風のお菓子でも服でも、頼みさえすれば洋食のメニューだって作ってくれるらしい。

 試しに本とかを取り寄せてもらったけど、所々ページが焦げていたり、水に濡れたのかふやけているものが多かった。そして、なぜか軽い。実体と質量自体は存在するが、大きさと分厚さに反して重さがない。読めはするからいいけれど、慣れるまでは違和感がすごそうだ。

 まあ、郷に入っては郷に従えと言う。とりあえずは和室暮らしも楽しめているし、作ってもらったご飯は有難く頂くことにしている(流石にペンとかまで和風にするのは無理だから、その辺りは諦めるが)。



 …そして、最後に。


「…なんであんたもここに居るのよ」


 この神様も、睡眠が必要だということ。


 畳の敷かれた寝室に、二組並べられた布団と枕。その片方には、昨晩に引き続き夜着姿の薫がいた。

 昨日もそうだったが、夜になると彼はこの部屋にやって来て、私よりも先に布団に入っていた。神様は人間のように睡眠や食事は必要なのかと思っていたが、そこだけは随分と人間じみているらしい。

 余談だが、寝る時には彼も顔の薄布は外すようで、美麗な素顔を晒している状態だ。


「駄目か?」

「駄目でしょ、色々と」


 流石にマズいのではないだろうか。いや、どうせ今日もただの添い寝で、そういうことは決してしない人なのは分かっているけれど。…そもそも、神様にそういう行為が必要なのかも分からないが。

 あとはまあ…その、なまじ顔が良いものだから、真正面にそれがあるとどうにも落ち着かないというのはある。


「一応は夫婦ということになっているからな。寝室が別々では皆からいらぬ疑いをかけられるだろう?」

「まだ結婚してないわよっ!!」

「地獄の閻魔と天の神にそのように言って許可を貰ったから、そなたをここに置いていられるんだ。それくらいは許してほしいものだが」


 苦笑い気味のその言葉に、私は正直耳を疑った。

 てっきり、私がここに居られるのはこの人の独断で、自分勝手な思い付きとお情けでやったことだと思っていた。

 そんなこと聞いてない、と抗議すれば、「言ってないからな」という答えが返ってきた。


「…あんた偉いんじゃないの?」

「死後の世界も一枚岩ではないのだよ。私一人だけでどうこうできる事ではなかったのだ」


 確かに、ギリシャ神話でも日本神話でも、神という存在は一人ではない。どんなものにだって神は宿る、というのが日本の教えだ。そう思えば、この世界の神が彼一人であるはずはないし、そこにはそれぞれの神的存在の思惑というものが存在するのも当然だ。

 根底となる提案をしてきたのが彼であるのは確かだけれど、彼には少々甘えすぎていたのかもしれない。


「…迷惑かけて、申し訳ありませんでした」

「謝ることではないさ。…さあ寝よう、明日も早いからな」


 罪悪感から目を逸らす私の頭を、彼は優しく撫でてくれた。

 そしてその日もまた、私は彼に寄り添われて眠りについたのである。

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