第5話 黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)
案内されたのは、とある部屋の一室。その入り口で、私は茫然と立ち尽くしていた。
「どうかしたか?変なものは入れてないぞ」
「いや…別にそこは疑ってないけど」
不思議そうな表情の薫に促され、私も室内へと踏み入った。
部屋の真ん中には、御膳がぽつんと置かれていたのである。漆塗りの赤い台の上には、こちらも上等そうなお皿と椀がのっているが、その中身はと言えば。
「おにぎりとお味噌汁…?」
皿と器の中身はそれぞれ、三角に握って海苔を巻いたおにぎりと、お豆腐とわかめのお味噌汁。なんというか…色々と高級そうな屋敷の割に、その献立は随分と庶民的である。
「慣れたものの方が良いかと思ってな。嫌なら違うものに変えさせるが」
「…これでいい」
「そうか。いやな、いくら私でも、未だ寿命の残った人間をそのままここに置いておく訳にはいかなくてな。そなたには酷かもしれないが…やるか?」
「…
あの世の食物を口にすると、心身があの世のものとなり、現世には二度と戻れなくなる。それが黄泉戸喫である。有名な所で言うと、ギリシャ神話のペルセポネや日本神話のイザナミの話がそれにあたるだろうか。死後の世界のものを口にしていたからこそ、イザナミはイザナギの元へ帰ることができなかったし、ペルセポネはハデスの元で暮らさなければならなくなった。
まだ寿命を残した人間が死後の世界で暮らしていくためには、やはり避けては通れないのだろうか。
「まあ、そうとも言うが…あれほど厳格なものではないからそこまで気負わずとも良い」
彼曰く、この場所はあの世…つまりほんとうの黄泉ではなく、あくまでも現世との境目でしかない。その為、此処のものを食べたとしても(少々面倒臭くはなるが)現世に戻ることは一応可能だとのこと。
厳密に言えばこの儀式は、本当の黄泉戸喫とはまた異なるらしいが、説明すると少々長くなるので割愛された。よく分からないが、大体は同じものだという認識でいいようだ。
「食べる気が無いと言うなら強要はせんが、本当にこの場所で暮らす気があるのなら」
「…食べるわ」
私は御膳の前に座って、「いただきます」と手を合わせた。何故か彼もその隣に座ってきたが、それは一旦気にしないことにする。
試しにおにぎりを口に入れてみれば、その美味しさに驚いた。ふんわり握られたお米は一粒一粒がつやつやしているし、お味噌汁はお出汁のきいた優しい味わいだ。
気づけば、私の両目からは熱いものが溢れ出していた。
「…どうした?何か問題でも…」
「…あったかい…」
いつしか、私の頬には涙が流れていたのである。突然泣き始めた私に、彼は冷静さを保っているように繕ってはいたが、どこかおろおろとし始めたようにも見えた。
しばらく経ってから、彼は懐から手巾を取り出した。それで優しく目元を拭ってくれるのに、また涙が溢れ出す。
こんな死者の行き着く世界でも、誰かが作ってくれたのであろうご飯は温かくて優しかった。愛の無い現世のそれよりもずっと。
こんな場所で、ご飯を食べて泣くだなんて。
(…良かった)
とっくの昔に壊れてしまっていたかと思っていたけれど。
私の心、まだ生きていたみたいだ。
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