第3話 冥界でのプロポーズ

『ところで、そなたはこれからどうするのだ?』


 どうにか彼の顔から眼を離せるようになった頃、彼は唐突に私に問うた。

 これからどうする…とは、一体どういうことだろうか?


『そなた、死ぬつもりだったのだろう』


 自ら死を選ぶくらいだ、もう戻る気はないのではないか?

 彼の言葉は一応疑問形にこそなっていたが、その言い方はほとんど断定に近いもの。何も知らない筈の彼だが、確かにその通りだ。

 このまま帰ったって、何も変わらない。私の力じゃ、何も変えられない。


『…では、生きる気がないのなら、私の元へ来んか』

「…あなたの元?」


 その提案は、やはり唐突だった。


『その、詳しくは言えんが…そなたが嫌がることはせんし、嫌な者がいるようなら排除してやってもよい。元より我々とは縁の深そうな娘ではあるしな、あやつらも歓迎することだろう』

「…縁って?」

『いや…そうだ、一度私の世を見てみないか。もし気に入らないようであれば、そなたをこの世に返してやっても良いし。…どうだ?』


 基本的に余裕たっぷりな様子だった彼が、彼の『世』についての時だけやけに口ごもったように話している。その様子に、私は逆に興味心をそそられた。

 それに、元より私はこれ以上この世で生きる気はない。彼の世だという世界を、私が気に入ろうがなかろうが、ここから離れられるのなら、それでよかった。


 そんなある意味暗い思惑と、単純な好奇心から、私は彼の言葉に頷いた。


『では、しっかり捕まっていなさい。目は瞑っておいた方がいいかもしれないな』


 頷いた私を抱え直す彼の声は、なんとなく上機嫌そうだった。言われた通り目を瞑れば、抱きかかえられた身体がぐいんと引っ張られるような感覚を感じる。

 辺りに漂っていた磯の香りが鼻をついたが、しばらくすると温かく、梅のような爽やかな香りへと変わって行ったのが分かる。


「もう開けても良いぞ」


 彼の声に従い、私は目を開いて…驚愕した。


 目を開けた先では、広大な海と私が最後に立っていた崖は姿を消し、そこには平安時代の日本のような古めかしい世界が広がっていた。

 現実世界特有の濁った空気は、嘘のように清らかな大気へと変化していた。


 濁った空気と清らかな空気の境目─おそらくは現世と彼の『世界』の境目なのだろうが─にあった、むわっとするような靄を潜り抜けてからは、彼の声にかかっていた靄も消えたようだ。

 下手なアイドルレベルの美男子なら裸足で逃げ出しそうなくらいの甘い美声が、今まで以上にクリアに聞こえてくる。


「ここ…どこ?」

「そうだな…。…あの世とこの世の境目、と言えば分かるか」


 無意識に呟いた私の言葉に、彼は緩やかに飛行しながらも答えてくれた。

 あの世とこの世の境目。ということは、俗に言う冥界というやつだろうか。現世で亡くなった霊たちが、あの世へ行く前に行き着く場所。

 そんな彼の言葉を信じるなら、其処が霊的な存在で溢れているのは全くおかしくないことである。けれど、その先に見えたものは少々異質だった。


「え…なに…?」

「…ほほう、あれが見えるか。どう見える?」


 実際、その先の世界に見えたのは、着物姿の人、人、人。

 その姿は現実世界に生きる人々と遜色ないが、どこか半透明に見える。つまり、彼らは霊体ということだろう。

 一方、普段から私が見ていた彼ら霊魂は、簡単に言えば人魂のような、ふよふよした物体としてしかその形が見えなかった。いつ見ても空間に漂っているだけで、意思疎通ができるとは到底思えない姿をしている半透明のオバケ、それが私が見てきた霊だ。


 …そう。ここにいる霊たちは、私が普段見ているそれに比べてどうにも異質だったのである。

 そのことを告げれば、彼の雰囲気はどこか柔らかくなった(…ような気がした)。


「そなた、名は何という?」


 どうやら面白がっているらしい彼のその問いに、わざわざ答える筋合いはない。

 …けれど。


「…鈴。笠原鈴かさはらすず


 この時は、不思議と口が動いていた。


 私の名前を聞くと、彼は「鈴か、良い名だな」と頷いた。

 そして彼は、お返しとでも言うように自らも名乗った。


「我が名は薫。この地を管理する…まあ、神のようなものだと思ってくれればいい」


 ただ者ではないとは思っていたが、やはり彼は人間ではなかったらしい。

 冥界を治める神。彼の言葉は、普段なら「そんなわけあるか」と一蹴したくなる物言いだが、彼の人智を越えた美しさ、並々ならぬ雰囲気といったものには、そんな突拍子もない言葉も信じさせる力があるようだ。


 だからこそ、今回はそこまで驚かなかった。

 いや、もしかしたら、その後に告げられた"その言葉"があまりにも唐突だったものだから、すっかり頭から抜け落ちたのかもしれない。


「そなた、私の妃になれ」


 ただでさえお互いの身体が密着するお姫様抱っこの体勢。

 独特な響きこそあるものの、充分美声と呼んで差し支えないような甘いイケメンボイス。

 薄布の下に隠れてはいるものの、その顔面の良さは先程見た通り。


 こんな状況じゃなかったら、私の心が壊れていなかったなら。その言葉はまるで夢であるかのように響いていたのだろう。ロマンスものの小説や漫画でありそうなそれに、軽率に恋に落ちていてもおかしくない。


 だが、現実は漫画のようにはいかないようだ。


「…はあ!?」


 突然告げられたそれを咀嚼するのに、数秒かかった。

 思わずぽかんとしたまま、〈彼〉の見えない顔を見上げれば、薄布の向こうの口元はにんまりと上がっているように見えた。


「そなた、家族が欲しいのだろう?ならそれが手っ取り早いではないか。それに、私にも少々事情があってな。ほら、お互いに良い事しかないではないか」


 出会って数分、互いの名前を知ってからはほんの数十秒。

 彼は私に、プロポーズ命令したのである。


「なるわけないでしょお!?!?」


 私がこれほどまで声を張り上げたのは、およそ一年ぶりのことであった。

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