聖杯

 非可換な価値について考えることがある。社会の力学とは、たとえ効用関数の存在を我々が否定したとしてもなお残る、交換の法則に他ならない。私たちは確かにセル・オートマトンとは言えないだろうが、概念の伝播というのは確実にゲーム的で、相補的である。私がトレーダーとして得ているものの、因果関係の実在を疑うことは常にある。私の行っていることは、社会によりよい分配を与えるという一つの建前であり経済的事実だが、この結節点でブーリアンを反転させることに私自身の欲求が関わっているのかと言うと、とてもそのようには感じられなかった。もし市場が完全に効率的で、市場に何らのテンデンシーも存在しなかったとしたら、私はただコイントスに勝ち続けているだけの男だった。


 ある時、私は自身のSNSに不審なDMが届いてるのに気付いた。まあ、大体予想はつく。簡単に儲ける方法があるという話だ。一応開くと例の如くだったが、私はそれをみて思わず吹き出した。


 『三日後のチャートをお教えします!』


 三日後のチャートをお教えします!と書いてある。嘘広告もここまで来ると笑えてしまうものだ。しかも無料らしい。何がしたいのか、私は気になってリンクを開いた(無論、URL先のリンクの安全性は確認した。当たり前のことだ)。

 なるほど、このサイトによると、三日ごとに、三日後の金融市場の価格情報が 全て記載されるという。リアルタイムでは動かないが、ここに表示されるのだと。うーん、何かのゲートウェイがあって、そこで金を徴収されるのかと思ったが、違うのか。


 それからしばらくして、予定の時刻になり、チャートらしきものは掲載された。私はそれを無感動に眺めていた。日経平均の終値は23,839円49銭になるそうだ。

 へえ。占いの類の手口じゃないのか、と思った。どうとでも取れることを言って、当てた感を出すあれだ。この文脈だと、たとえば、「日経は望ましい方向に向かっています。債券市場の金利も無視できない変化があります」とか?



 結局、私は取引にいかなるバイアスも生じさせないために、三日間一切のトレードを行わなかった。こんなことをしている時点で、もはや術中にいるというべきだろうか。しかし、私はどう見てもヘッジファンドではない。何もしないことは、ただ何も生み出さない。


 このサイトの制作者はいかにして金をもぎ取ろうとしているのか?


 一番あり得そうな仮説は、これをあっさり信じた愚か者が行ったトレードの痕跡を摘み取るということだ。例えば、出来高の薄い銘柄の株が高騰するように仕組んでおけば、それと反対のトレードを直ちに行うことで、その金を拾うことが出来る。

 適法性はどうかというと、エリオット波動を信じている証券会社さえいることを思えば、おそらくならないだろう。信じたい人が信じているだけのことだ。三日後なら、信じてしまう人がいるかもしれない。

 とはいえ、これはスキームの複雑さに対して収益性が悪そうに見える――。しかし、これ以上常識から説明可能なことは思い浮かばない。


 時間が近くなって、私は異様にそわそわしていた。何をバカなことを、と理性の部分の私が激しく自身の生理的な反応に拒絶反応を示している。なぜお前は愚かな仮説検証に主体的に関わろうとするのか?

 10分前になった。24,125円。チャートを眺めていると、いつも通りそれらは何の指向性も持たず、ふらふらと上下に揺れている。そして、気まぐれな取引はどこまでも続いていく。24,157円。ほら、何もない。お前はただ単に、大人になって特に何もスペシャルな出来事が起きなくなった日常に飽いて、ときめきをスパムに求めているんだ。恥ずかしくないのかい。チャートを見ろよ。24,104円。そして、そして、しかし、何か例の値に近づいているような。いや、これはバイアスだ。近づいているように見えるのはまやかしだ。そうあって欲しいからだ。些細なことに因果関係を見出すのは、人間の本質的欠陥だ。24,052円。株価はランダムウォークする。しかし、株価はランダムウォークしなければならないだろうか?プラグマティストを自称するおまえは、多分ヒュームの因果性の説明に同意するだろう。23,926円。恐ろしくなってきた。これはどう考えても、近づいている。心臓の早鐘が聞こえてきた。現実が願望に合わせにきている。


 日経平均終値は、23,839円49銭だった。


 偶然こうなる事前確率はいくらだとか、そういう理性の部分は、どこかへすっ飛んでいった。

 

 現実がおかしくなってしまった。


 全く、徹底的に、何も理解できない。なぜこんなものが存在していいんだ?


 まず第一に、未来は予測できない。現実はあまりに複雑だから、それがもし古典的な決定論で説明可能だと仮定しても、通常の物理理論では予測できない。カオスなのだ。

 現実ほどではないにせよ、金融市場は驚くほど複雑だ。確かに原理的には、物理のそれよりも遥かに簡単に市場参加者の行動へと還元できるだろう。しかし、世界は何も隠さないが、プレイヤーの行動は非公開である。では、こいつはラプラスの悪魔の所業と言うことになるのか。私は地球の周りの素粒子の位置の変化を全てシミュレートし、人の心理をもコードしてしまう何某かの存在に想いを馳せた。気が遠くなってきた。


 何の理由もなしに未来が見えるなんてことは、あってはならない。とかく創作の舞台装置として用いられる割には、構造上大変な欠陥がある。

 個人的な因果関係の辻褄が合うだけでは、全く不十分なのだ。タイムパラドックスは、マクロな系での論理的不整合だが、これを取り除くだけで十分なわけがない。そうあってはならないことは、祖父殺しだけではない。要するにこれは、Aが起きなければBが起きなかったのにもかかわらず、Aが起きずしてBが生じるということ:ある帰結の必要条件が存在し、かつ存在しないようにできることの例示に過ぎない。満たすべき条件はたったこれだけなのだ。しかし、必然的なことはあらゆるところで起こっている。目に見えない矛盾が、に起きるはずだ。それはアトランダムに見える分子の軌道でさえ、そうでなければ通らなかったはずの経路を辿ることになる場合が、いくらでも生じることになるだろう。首尾一貫の原則も、実際のところ何も説明していない。もし、タイムトラベルが出来るなら、座標も任意に指定できるはずだから(そうでなく、現時点の自分が占める座標と同一の座標に単に移動するとするなら、移動には大変な困難が伴うだろう)、祖父の前にナイフを持って現れてにべもなく刺し殺すような状況を成立させられるだ。

 情報を伝えるための媒体――人間でも電子メールでも――が未来から届くならば、その媒体が、その時点に占める宇宙という系の中から消滅して別の時点に出現するということだ。そうでないなら、情報が情報単体で存在することになる。これだけでもうチェックメイトのようなものだ。

 つまり、エネルギー保存則は真理ではなく、ただの規則性に過ぎなかった、ってことでしょ。いや、それはおかしい。エネルギー保存則を否定するくらいなら、全てたまたま値が一致していた、と仮定する方がまだマシなはずだ。その法則は、全ての人類が常に経験しているんだから。


 問題は尽きない。このチャートは、明らかに私の意思決定を織り込んでいる。しかし、私の意思決定は今後このチャートを踏まえたものになる。ということは、このチャートは私がこのチャートの情報を織り込んだ上で行った意思決定を織り込んでいる。ということは、私の意思決定は、私がこのチャートの情報を織り込んだ上で行った意思決定を織り込んだチャートによって決定される。ということは、いや、やめよう。この再帰的手続きは、無限に続いていく。収束性があるなら、無限後退は起きてもいいのだろうか?もし何らかのルールに我々が合意しているとすれば、ゲーム理論的には、ここにもナッシュ均衡が存在するはずだが。それとも、本質的にはやはりタイムパラドックスの話に合流するのだろうか?

 一応、もしこれがラプラスの悪魔なら、この問題は解決する:自由意志の非存在を含意して。普通に生きる上では素朴な物理主義の立場で十分なのだが(クオリアは存在しないと仮定してしまえばよいのだ。なぜそうしないのだろう?)、どうもこう言われると途端に認めたくなくなってくる。というわけでラプラスの悪魔説を否認するとすると、この問題を救済するには、私がどんな行動を取ろうが結果は変わらないとするか(でも自由意志の問題は根本的に解決していないですよね、と冷笑主義者の私が嗤った)、実際にこれは無限回の推論を繰り返すことが出来て、解を発見しているとするか(不確実性の問題は排除できていないのでは?無限回の推論とは何か?)。あるいは、突拍子もないが、因果性が、時間を所与とする私たちの意識の認知的欠陥であるとするとか。いや、これだと何も説明してないか。美しい景色に心を奪われるのは、私たちの視覚の欠陥だ、とだけ言っているようなものだ。


 とはいえ、これは現に存在しているようにしか見えないから、仕方なく受け入れることは出来る。私は目の前のモニターが働く仕組みを知らないが、モニターは存在している。しかし、問題はまだある。なぜ私以外誰も使っていないように見えるのだろうか?なぜ発明者は自分で使わないのか?実は、これがもっとも大きな問題かもしれない。とにかく存在していて、宇宙は涼しい顔をしているが、それでも私に得をさせる理由だけはない。

 こんなジョークがある。経済学者は道に100円玉が落ちていても取り合おうとしない。彼らはこう言うだろう。「もし、あの100円玉が本物だったら誰かが拾っているから、偽物に違いない」と。

 私は経済学者ではないが、トレードに関わっていれば誰しも経済学者のような思考様式になる。私だけが、都合よく、何らの対価も払うことなしに、突然得をするなどあり得ない。むろん、可能性としては考慮できるが、関係者の数を想像すれば容易に分かるように、それはもはやベンタブラック・スワンである。


 私の脳内では議論をまとめられそうも無い。私は、原理なんかどうでもいいじゃん、そう動いている事実があるんだから、という怠惰の声を、努めて無視した。だってそうだろう、板が薄くて業績も芳しくない銘柄の株を10%持っていたとする。これが株価が一円上がることを示していたとして、私がその銘柄を売り払ったとしてもなお、その結果が実現するというのか?私が当該時間帯の直前に無理やり売りに出たら?論理的には考慮出来ることだが、現実的にはあり得ない。これでは、現実の方が予測に合わせようとしていることになる。株価は確かにランダムウォークするが、巨大な注文がなければ一気に値段を動かせない。どんなに奇妙に見えても、向こうには必ず取引相手が存在する。だからそんな仮定はいくらなんでも馬鹿げている。

 いずれ試してみようか?でも、何のために?


 これは自分の手に負えない話だと分かってきたが、一方でとてもじゃないが第三者に話せることじゃない。家族であってもだ。家族を信頼してないわけではないが、もし喋ったら、家族が信頼する人も信頼しなければならなくなる。どれほど念押ししても意味はない。信頼を守る人だという信念を、私の希望より優先しない、と仮定すべき理由はない。むしろ、善良な人ほど、金銭的に苦しんでいる人がいたら、助けになりたがるだろう。その時に、このことを知ってたら、とてもじゃないが秘密を守れるとは思えない。道徳的規範は何よりも強く、すべてを正当化してしまう。

 また、誰が善良かを見分ける術はない。善良そうな人を峻別するのは容易いが、実際に道徳的規範を守っているかどうか、いつなら破るのかは、その人にしか分からない。善良でなさそうな人も、同様だ。どう見えるかは、どう見られたいかによって制御されてしまう。

 よって私は誰にも喋れない。というか、闇雲に公開しまくったらどうなるのだろう?


 これから起こるであろう奇妙なことから、真実を掴み取る必要があることは確かだった。



 あれから三日後、私は呆気なく勝利を手にしていた。私はもはや愚かにも、まだ懐疑的な目線をいくらか向けていたので、日経平均にいくらかと、チャートから得られる情報のうち、現在の値段との乖離率が上に著しいものであって、業績が堅調な銘柄に現物でいくらか賭けた。これなら外れたとしても、大きな損切りをしなくて済む。そして、私の懐疑を心底嗤うかのように、値は的中した。そろそろベイズだかラプラスだかに怒られると思ったので、私はこれを徹底的に認めることにした。


 私は悪魔の気まぐれに見捨てられない内に、堅実なトレードを繰り返した。資金は雪だるま式に増えていく。戦略も何もなく、ただ乖離率の高い銘柄に全額をベットすればいい。一応信用取引のみ気を遣う必要はあったが、一か月間に自己資金は数億を数え、強制ロスカットの心配も少なくなっていった。二か月後には二十億円を超えた。あまりにもめちゃくちゃ過ぎて、私はすっかり現実感をなくして、取引のことよりSNSや知り合い相手に自慢話を飽きるまでして虚栄心を満たしたいという強い欲求と戦う時間が増えていった。ただ結果的に人より優越しただけなのに、愚かなものだ。

 実際のところ、この金を生む機械を独占していたいという欲求も大概だったが、同時に危険であることは間違いないことも私に歯止めを掛ける理由になった。一つの舌禍で、文字通り命が取られかねないものを操っているのは、誰だって想像がつく。高額納税者の公示があった頃は、資産家家族が殺害されることもあったくらいだ。ほとんどのスキームはその人が実際にそのロールを果たす必要があるが、私の場合は私である必要は何一つない。

 反社会勢力がどれほどめちゃくちゃなことが出来るか私には分からないが、彼らがいかなるコストを賭しても私を狙うインセンティブはある。どこから情報が漏れるかは分からない。これは聖杯なのだ。

 だから、いささか神経質なのかもしれないが、私はいかなるシグナルも出さないために、生活水準を大きく変えないようにしていた。漸増する分には良いが、高級住宅に転居するなど、儲かっているアピールをするのと同じだからだ。

 しかし、使わない大金にそれほどの意味はないから、どこかでアレを手放す必要があるのは間違いない。二十億もあったら、もはや何も困ることなどないのではないか。私はあまりその問いを吟味しないでいた。


 さらに三か月経ち、三百億円を超えた。大口のプレイヤーの仲間入りをした私は、あまりロットを上げられなくなっていたため、資本成長率は鈍化していた。個別銘柄では、市場に占めるシェアが大きくなりすぎて短期売買がスムーズにいかなくなっていたのだ。いくら未来が見えていても、買い手がいなければ売れない。この段になって私はようやく、そのために、あまりにも乱雑な売買による変動は、システムそれ自体によって自然に制御されている、という気付きを得た。なるほど、確かにこれなら自由意思には衝突せずに済んでいるように見えはする……

 異常なペース過ぎて金融庁からさすがに目を付けられるのではないかと思えたが、今のところ何もない。どう調べてもただの一般人だから、インサイダーを疑うことさえ出来ない。私が関わって大きな収益を上げた企業は多岐にわたり、現実的にもあり得ない。

 このサイトの運営者も、もはやこのサイトだけで私を損させることは出来ない。ひとたび予測が外れるようなことが起きたら、ただ使うのをやめればいいだけだからだ。まあ、超然的な存在であることは疑いようがないので、「お前はやりすぎた」とかなんとかいって、どこからでも罰が下せると仮定しておいた方がよさそうではある。

 なのに、私の関心は、もはや金ではなく、これによって金融市場を破壊できるのではないか、というバカげた思考実験に移っていた。原理的に、私は市場に流通しているすべての金を得ることができる。

 金融市場の機能は、建前でもなく、資金を効率的に分配することだったはずだ。高頻度取引でさえ、その地位を守っていることを思えば、私の行動は市場の効率化のための行いとして、正当化されるはずだ。未来を織り込むということは、それだけ市場が効率的になるということだ。金融市場はあらゆる情報を瞬時に織り込んでいる、という厳密な意味での効率的市場仮説を信じるものはまずいない。しかし、これに限って言えば、三日後までの情報を完全に織り込んでいる。

 ということは、理論的には私が持てる限りの財を持つべきなのだ。三日後の状況を全て織り込めているなら、それが金融市場にとってもっとも好ましい。私はハブとなって、莫大な金融商品を管理する……この事業には公共性さえあるように思われた。今後も財は増えるだろうが、私はきっとその変化を認識できない。要するに、効用が増加しない。ここが至福水準ということだろうか。私はこんなに公共性のある人間だっただろうか。


 決断を先延ばしにしながらだらだらとトレードを続けた私の資産は、ついに五百億円を数えていた。



 私はメリットとデメリットを改めて整理して、もはやこれ以上の富の蓄積はデメリットしかもたらさないであろうことに同意した。以上の思考実験は、確かに面白いが、実現によって生じる問題が多すぎる。では、この辺が降り時か。そうすると、問題はどうやって降りるか、だ。

 私は、これをただ放置してよいのだろうか?別の誰かが知ったら、何か不都合が生じるかを考えてると、まあ別に問題はないように思える。そうなったところで、私は損をするわけではない。万が一金が尽きた時に、また使える可能性もある。

 ただまあ、物語なら、私欲を満たし続けようとすることは、天罰を受けることの十分条件ではある。無論そんなことはどうでもいいが、無償で得をしすぎると気持ち悪いという生理的な反応に、耳を傾けてやるのも一興なのかもしれない。実際、これの作り手が人智を超越しているのに疑いようはないのだ。


 であれば、このサイトを最も安全かつ効率的に処理できる方法がある――



 その光景は圧倒的なものだった。私が流した情報は、ごく僅かなユーザーによって検証され、どうやら本物らしいと誰かが気付くまで1週間を要した。そこからは速かった。バカとしか思えない祭り好きが、匿名掲示板にその情報を提供する。暇を持て余している住人たちは面白半分でそれを試し、本当であることに気付いて大騒ぎする。もう誰も歯止めを掛けられない。ネットは連日大騒ぎで、翌日全世界のあらゆるメディアがそれを報じ、情報は完全かつ徹底的に普遍化のプロセスを辿る。しかしサイトは何故かクラッシュせず、あらゆるアクセスに応え続ける。あらゆるトレーダーが、そのサイトの更新を固唾をのんで見守るようになる。ここまでが2週間である。

 翌週はもっと理解しがたいことが起こるようになった。どんどんと現在の値が三日後の値に一致していき、その間値動きはほとんど生じない。私はこうにまではならないと思っていた。なぜなら、株式にはアノマリーといった現象が存在し、それらは不可解だが、捨象されていない現実生活における、不可避の束縛条件であると考えられるからだ。株式がどうあれ、裏には私たちの生活があり、会社の決算日だとか、特に理由のない行事とか、そういったものの集合でしかないはずだからだ。しかし、どんどんと今の値と将来の値は一致するようになる。その傾向に歯止めは掛からない。最適化のために新たな推進力を得て、市場がよりよくなっていく。

 翌々週には、もはや金融市場に流動性などなくなっていた。3日おきに生じるインパルスを、忠実に現実世界に反映させる、それだけの機構になった。


 ここまできて初めて、なぜ発明者が自分で使わないかの仮説が立てられるような気がしてきた。その人物は、これを使うインセンティブを持ってないのではないか。一連の最適化の過程で、本質的に重要なのは人よりも一秒先の未来が視えていることで、他の変数は何一つ必要ではない。だからそれでいいのだ。私が得をする理由ももうどうでもいい。ジャックポットを当てる人間が実在する以上、それが私であってはならないという理由にはならない。頑なにそれを信じられなかったというだけでいい。

 三日後のことがわかる人が四日後を分かることができない理由はない。では、これをもたらした何かしらの存在は、どこまで分かっているのだろう。これはその存在から送られたモノリスなのか。であれば、もっと気の利いたことをして欲しいような気もする。

 私はてんやわんやになっているであろう金融業界と、人類の将来に思いを馳せ、思いつく限りの贅沢をスプレッドシートに書き込んでいく。それからふと、もしこの効率化によって、経済的実態を測る営みが衰退していったら、誰が企業や、業界、ひいては経済全体の妥当さを確かめるのだろうか、という疑問が浮かんできた。とはいえ、もはや関係のないことだ。□



 

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