短編集/額縁について

青春

 世界が終わっちゃうんだって。かねてより危険性を指摘されていた巨大隕石は、やはり今日地球に衝突するらしい。その直径は30kmほどもあり、人類を絶滅させるに十分なエネルギーを持つ。免れた人がいたとしても、インフラの不在でいずれ息絶えるだろう。危険性が具体化してからというもの、あらゆる資源が衝突の回避に注ぎ込まれたが、そのどれもが現実的でなかった。呑気な人たちが科学に思い切り皮肉を言っている。俺たちの夏休みは一日しかないらしい。ルールに従うあらゆるインセンティブは失われたというに、社会は俺が想像してたよりはるかに穏やかで、落ち着いていた。俺としては、私欲を満たすための犯罪の一つや二つ、やっておかないと損だと思っていたのに。とはいえ、そんなような気はしていた。かつてサービス終了を見守ったマイナーソシャゲのチャット欄は、もっと荒廃し倒すのだと考えていたけど、最後には思い出話や運営への屈折した感謝で埋まっていた。俺はそのノリについていくのが生理的に無理になって、サーバー切断よりずっと前にアンインストールしたのだった。義務で母親をやってそうだと思っていた母親は、五日前から行方が知れない。道徳的な振舞いをやめることについて躊躇がないことまで遺伝が関係しているのかもしれないと思ったら、いたずらに嫌な気持ちになった。

 全く意味が分からないが、この期に及んでネットは繋がっている。世界も終わるのにネット回線の保守に命をかけてる人たちは馬鹿なんだとしか思えない。ここ数日でSNSを見るべきでない理由がいくつも見つかったのは、ひとえに彼らが情報インフラを絶やさないよう尽力したおかげである。ゲームのサーバーはさすがに落ちている。テレビをつけると、空の放送席と、終末のカウントダウンを知らせる時計だけが表示されている。サライが流れてるより大分マシだったが、首を絞められているような気分にはなったのでほどなく消した。こいつらもそうだ。人類がいつ死ぬかをご丁寧に計算する科学者たちは、それを使命とでも思っているのか。未来が分かることが不幸の源泉だとなぜ分からないのか。


 俺ははっとして、悪態をつくこと以外にやることがないことに気がついた。この期に及んで冷房が効いてる部屋からも出たくないが、滅多に働かないくせに、強い強制力を持っている俺の脳の一番メルヘンチックな部分が、尊厳のある死くらいすべきではと言っている。

 いくつかの心理的抵抗があったのち、俺はしぶしぶ学校へ向かうことにした。どうせ誰もいないし、例えば屋上から身を投げるのは美しいかもしれない。同じことを考えてる女子と、ひょっとしたら最期だしとやらせてくれるかもしれない。友達くらいいたらよかったのかもしれないが、後の祭りだ。教室で一言二言交わすだけの関係は、友達とは言わないであろうことは、俺もわかる。

 外があまりにも暑かったから大分気後れしたが、着た服がもったいなかったので歩き始められた。しかし静かだな。案外皆家族で肩を寄せ合って最期のひと時を楽しんでいるのかもしれない。俺は心の不吉なものをどけながら歩き続けるが、それは増すばかりだった。ゆらめくコンクリートが幻覚のように振舞っている。それを追いかけていると、ひとりでに学校に辿り着いた。


 学校はやはり静かだった。女子生徒数人の死体が校舎のそばに落ちている。腐敗が進んでいて欲情することもなかった。隕石は冬には来ない。鍵は閉まっていなかった。というかガラスが割れていた。

 俺は無意識に教室に向かおうとしたが、特に理由がなかったのでとりあえず屋上を見に行くことにした。階段を2回上がって、屋上へと続く三階の廊下を歩いていると、教室に全裸のおっさんがいることに気付いた。そしてそれは数学教師の荒木だった。変な人のステレオタイプみたいな教師だったが、偏見もバカにできないということがわかった。無視すべきかとも思ったが、無視すべき状況のようでもない。

「荒木先生、何してるんですか」

 荒木は何もないかのようにこちらを向いて、

「数学をやってます。全裸なのは捕まっても問題なくなったからです」

と答えた。俺は早く隕石が衝突してくれと思った。

「そうすか」

「暇ですか?数学してきます?」

 最期に数学?有り得なさすぎる。

「いや、しませんけど」

「やることないからここに来たんだと思いましたが。まあ、私も最期の時間を邪魔するほど空気が読めなくはないので」

 やることないのって俺と荒木くらいなのか、俺は荒木とこの点で同レベルなのかと思った。アスペのくせに空気読めたんだなあ。

「まあ……そうすね。服着てもらえません?とりあえず」

 何がとりあえずなんだろうと自問自答している。

「パンツだけでいいですか?暑くて敵わんのですよ」

「もうそれでいいです」

 俺は無造作に机に座った。荒木はもちろんこれを咎めなかった。黒板には授業のより遥かに高度で難しそうな式が大量に書いてあったが、荒木が椅子代わりに使っていた机にケツの汗の跡が残っていてキモかった。

 パンツを履いたのを確認して、俺は尋ねた。

「で、何をやってるんですか?」

「数学オリンピックの問題を解いてます」

「こんな学校に来る先生でも、やっぱり数学はできるんですね」

 俺の皮肉をあっさりスルーして荒木は続ける。

「いえ、全然。私は国内予選を通過できない程度でした」

 ここは……なんか茶化し辛いな。なんとなく。

「知らないっすけど、数学超できるやつしか出てないなら、そんなもんなんじゃないんすか?」

「優しいですね。しかしセンスがなかったのは事実です。おかげでこんな学校にいますから」

 俺は答えに窮したので、話題を逸らした。

「その、これはどう言った問題なんですか?」

「これは国際数学オリンピックの問題です」

「へー……」

 荒木は国内予選も通れてないのに?

「そんなに難しい問題じゃないので、やってみましょう」

 そう言って荒木は黒板を消し始めた。まだ何も言ってないと思ったが、ここで手を止めるよう強く促すほど元気もなくて、俺は無視した。


「あー、全然分かりません」

 一目見て俺はバカじゃないかと思った。というか、分かるはずもないのだ。俺はこんな高校に進学したやつだし、数学を熱心にやってるわけでもない。第一モチベーションもない。

「早押しクイズじゃありませんよ」

「何をしたらいいか分からないんじゃ結局同じです」

「まず、何が当てはまる組なのか考えませんか?」

 そう言って先生はkとnを代入した時の値を書いていった。

「これでどうでしょう」

こうされると一転して子供騙しみたいだ。

「まあ、そりゃ(1,1)と(2,3)が答えだなってなりますけど、これで全部とは限らなくないですか」

「考え方は理解してるじゃないですか。これ以外の答えがないことを示すのが主題になります」

「ないことを示すとか言われても」

「いきなりわたしから提案された話だから、やる気も起きないのはわかります。でもどうせこの教室にいるなら、真面目に考えてみませんか」

 そう言われても、何も分からないのだ。思考はしてるし。

「真面目に考えてますって。でも分かんないっす」

「言い方を変えましょうか。きみは既知の問題とマッチングするようなパターンがないか検索をかけて、ヒットしないから分からない、と言ってるんじゃないですか?」

「どういうことですか」

「たとえば、最高次の係数が2であって、xと数字だけからなる等式があったら、二次方程式だと考えますよね。二次方程式だという情報が得られたら、それから因数分解ができないか考える。駄目なら解の公式を思い浮かべる」

「パターン暗記みたいなことが言いたいんですか?でもみんなそうして解きますよ」

「ええ、別にそれを否定してはいません。ですが、このレベルの問題になると、そうもいかなくなるというのが僕の言いたいことなんです。もちろん、見える人にはこのレベルの問題もパターンとして見えてるのかもしれません。でも少なくとも僕たちには見えないから、パターンに適合しないことで判断を停止させるのではなく、ゆっくり考える必要がある」

 荒木はなんでパンイチでこんな話をしてるんだ?

「僕たちは普段返事をするのに一々何秒も考えないですよね。でも、重要な連絡は、その言葉からどういう効果が相手に生じるだろうかということを考えることで言葉を選んでいるはずです。認知心理学では、前者のような考え方を速い思考、後者を遅い思考と言います。そして、数学は本来この遅い思考によって行われる営みです」

 よく聞いてなかったが、つまり俺は見覚えのない問題に対して、見覚えがないから分からないと反射的に判断して、このことを考えたと言っている、と言いたいのだろう。有り体に言えば、真剣に考えてないとか、そういう話になる。くだらない話だけど、真剣の意味を掘り下げた点は評価してもいい。誰もが真剣にやれと言うが、真剣とは何かはついぞ教えてくれなかった。

 真剣さがパターンの外側に出ようとする意思があることなのだとしたら、ほんの少しだけかっこいいと思わないでもなかった。俺のメルヘンチックな部分が。

「と言われても、コツコツ考えたことなんかないし、そもそもコツコツ考えたら隕石ぶつかっちゃいますよ」

「いいじゃないですか。もう今から手の届くことなんてろくにないですよ」

 俺は天を仰いだ。流れでそうなったことに対して納得しやすいのはなぜなんだろう。やりたいこともないし、この時間一人過ごしたところで、鬱屈とした感情を募らせるだけ募らせて終わりになる確信からかもしれない。俺はまったくよくなかったが、これでいいということにした。


「じゃあ……kの階乗はどうにもならなさそうだから、右辺を展開します」

 先生は少し足取りを軽くして、

「いいですね。思考が動き始めてますよ」

と言った。そんなことはないと思う。荒木は致命的に人を褒めるのが下手なので、全然すごいとは思ってないことがはっきりと伝わってくる。たぶん、これでも因数分解も怪しいような生徒にアジャストした方なのだ。

 俺はごちゃごちゃと右辺を計算しようとしたが、すぐに行き詰まった。2の肩でnがぐちゃぐちゃっとして、ノートを取りながら寝かけている時のようになった。

「複雑すぎてとても展開できません」

「そうですね。全部展開しようとしたらそりゃあ上手くいきません」

「言ってくださいよ、それ」

「言ったら目先の計算をただやるだけの人になるでしょう」

 早くも嫌になってきた。考え方にどれほどのパターンがあり得るのか、そのパターンが上手くいきそうだとどうやって判断するのか。真剣に考えるなら……

 手がしばらく止まった。自由に考えていいのに、自由であることが不自由をもたらしているみたいだ。

 巡り巡って、とりあえず行う意義がありそうなことはなにか、という問いを立てるための問いを立てる必要があることを認めるようになった。二次方程式は、因数分解を行うことによって解が得られる。二次関数の平方完成も、結局は式変形だ。すべては式変形なのかもしれない。であれば、やはりこれも式変形なのではないか。その過程がやたらと難しいだけで。でも愚直な展開はうまくいかなかった。しかし、展開のパターンは一通りではないはずだ。

 俺は項を眺めてから、粋がって総積記号を使って書き直した。すると一般形は2^n-2^iとなっている。あれ、2^iが括り出せるのか、これ。2^iを括り出すと、2の肩には1からnまで総和になっている。

「これって進歩ですか?」

「よく総積なんて知ってましたね」

「楽な記法が欲しくて」

「なるほど。いずれにせよ進捗ですよ、それ」

 どうやら多少進んだらしい。ただ、だからなんだというのか。

「少しヒントを出しましょうか。ここは全く見慣れない考え方を使うので。いま、2の累乗の項でない項は、全て奇数なので、右辺はΣ[k,n]k回だけ割れます。ということは、左辺も全く同じ回数だけ割らないといけないですよね」

「確かに。でもなんか関係あります?kをデカくすればよくないですか」

「そうでしょうか?取り出せる情報はまだまだありますよ」

 俺はここで徹底的に泥濘に嵌った。俺の脳みそはうんともすんとも言わなくなってしまった。この割り切れる回数のことを位数と言うらしいが、だからなんだというのか。

「本当に分かんないですね。脳が何も思考しようとしません」

「たしかにここが一番の山場ですし、君は不等式評価にも慣れていないですよね」

 俺は、一度初めてしまった以上もったいないとか言う人みたいに、考え始めた問が分からないままなことに不満を感じていた。分からないことにしといたって、何も問題はないのに。


 荒木は黙っておそらく意味のない変形を繰り返すのを見ていたが、俺はそれに応えることはついぞ無かった。

「ギブです。どうせ地球も終わるし、答えは分かっても分からなくても同じです」

 荒木は少し残念そうにしたが、俺がよほど困っていることを認めたのか、問題を切り上げた。

「そうですね。あなたが解かなくても、この問の真偽は決まってるわけですし。謎は謎のままにしておきますか」

「いや……それを考える人も書物も何も残らないんですから、何もなくなるんじゃないですか?」

 俺は何かが噛み合っていないことに気付いた。荒木もそうだったようで、しばらく発言まで間があった。

「僕は、人類がいなくなっても数学は消えないと信じています。この世の法則は不自然なまでに数学で表現できるようになっているのは、なんとなく分かると思います。そうすると、この宇宙を生み出したものも、また数学や論理的構造に拘束されているのだろうと感じるのです」

 荒木にしては妙にロマンチックなことを言うなあ。でもそれはなんか……ロマンチックすぎる気がした。人の心は数字で表せないとか、そういう類の薄ら寒い話と真逆なのに、方向性としては同じなような……違和感の正体はこれか。上手く言葉に出来なかったので、俺はしばらく逡巡してから、考えを述べた。

「別に宇宙が数学してるわけじゃなくないですか。何かが正しいと確認するのは結局人間ですよ。言語が社会的なものだとしたら、数学と言語を分けるものってなんなんですか?」

 荒木はなるほど、と軽く頷いた。

「もし……数学が私たちの認知の方法の表れなのだとしたら、単に規約の問題でしかないのかもしれません。しかし、少なくとも……規約によらない世界を私たちは想像できないわけです。すると、論理は自然に内在しているのかもしれない」

「想像すること自体が私たちが行える思考の方法に依っているだけかもしれないですよ」

「あなたは懐疑が得意ですね」

「よく言われます。もう少し素直になったらどうか、って」

「褒めてますよ。これ」

「発言を疑われて喜ぶ人なんかいませんよ」

「私は喜んでますよ。あることが正しいかどうかは予め定まってるわけですが、私たちはその正しさを検証するのに、常識や権威を利用せず、論理の力で辿り着かなければならない。そうした時、疑えることというのは、相手の言うことの内、どの部分のディフェンスを破れやすそうか見抜く力があるということだと思います。そこをクリアしていないと、そもそも議論にならないので」

 この返し方は想定外だった。が、高校生に思いつくことはたかが知れていることも自覚しているし、否定することが会話の上でどのような機能を持つかについても、想像しているつもりではあった。

「そうですかね。俺が言ってるのは、あらゆる概念が相対的であり、懐疑の対象になりうるかもしれないということだけです。こんなの誰でも思いつきますよ。でも隕石は結局予測通り降ってくる」

 嘘だったらよかったと積極的に言いたかったが、喉から出てくる気配はなかった。

「私は見ての通りの数学人間なので、その手の言説は単に誤っていると思っていますが、まあ」

「最後までたまたま正しかっただけかもしれませんしね」

「これも本質的ではないと思うんですが、ベイズ推定というものがあります。条件付き確率は覚えていますか?」

「なんとなく。テストに出たやつは両方間違えました」

「あの公式は実はベイズの定理という名前がついています」

「何か重要なんですか」

「実は、とても。不確実性がある時に用いられる最良の推論方法なんですよ」

 教科書の隅っこに考え方の答えがあるとしたら、それはお笑いだと思った。

「私は分かった気にさせるような説明が嫌いなんですが、要は、つかみどころのないことに対して主観的確率をとにかく当てはめ、新しい観察を重ねていくとより客観的な確率が得られる、と言ったような考え方です」

「それって普通じゃないですか?金を採掘してるとして、その場所のことを何も知らなかったらとりあえずランダムに掘るしかないけど、その場所を知れば知るほど効率が高まっていく、みたいなことですよね」

「そうです。それだけのことなのに、とにかく強力なんですよ。すべての理論が相対的かもしれないと言った話には、とにかく科学者はベイズ推定によって信念を更新し続けることによって、より正しさを得ようとする試みなのだと返すことができます。きみは、多分気に入ると思います」

 なかなかイケてる響きだ。

「それはけっこう面白いと思います。ただ、数学みたいな演繹的な学問では、別にそういう考え方は使いませんよね?」

 俺は演繹的という言葉を使えて大変満足した。数学的帰納法は帰納的推論でない、という鉄板ネタをYoutubeで散々見た甲斐があったものだ。

「数学もその傾向があると思いますよ。真偽がはっきりしてない命題については、それがどれほど正しい証拠がありそうか、という筋で議論するしかない。証明という概念があるために極めて異質に見えますけどね」

 俺は自分が数学のステレオタイプに基づいて語っていることに気付いた。

「なるほど。ただそれだと、人間の知性に信頼する側面が大きいですね。中身が客観的にどうかについては一切語ってないというか」

「その筋の批判はあり得ると思います。言葉で語り尽くすことが原理的に困難だということの証左でしょうね」

 今更語っても仕方のない人間の世界の把握の仕方についてのはなしは、驚くほど俺に思考をさせるように促した。


「先生はもっとこういう話を授業で取り扱った方がいいですよ。三角関数とかやってる場合じゃないです」

「それは違います。思想のパートは確かにテツガク的で興味の惹かれるものですが、結局学問を構築するものは地道な計算や実験なので」

 乗り気の俺に容赦なく否定してくるのは先生らしいし、いかにも理系っぽい。

「生徒に退屈な計算を無理矢理やらせるより、とにかく興味を持ってもらって自身の興味の元にやらせる方が、効率的かもしれませんよ」

「興味を持ってくれたきみが三角関数よりとか言ってたらもう説得力ないですよ」

 俺はもっともな切り返しに、思わず笑ってしまった。

「でも、楽しんでくれたことは素直にありがたいです」

 実際、かなり話にのめり込んでいたことは否定しようもなかった。なんなら、デイリーを消化するだけになったソシャゲをやるよりも全然たのしい。

 自分の関心が学問の方に向いたら、今からでも意味はあったかもしれない。俺と先生は、それからしばらく議論という名のレクチャーを続けた。


「なんか、もっといくらでも人生は変えられたような気がする。やりようはあったはずだし、今隕石が来なくてもいいじゃないかって、そんな気さえしてきました」

 一通り議論を終えると、俺は居ても立っても居られなくなって、ついに弱音を吐き出した。俺は肘をついて窓の外に視点をやる。遠い日の感傷が今更追いかけてくる。

「私はオルタナティブな過去も未来もないと思っています。私たちは本当にあらゆる場面で反実仮想をします。反実仮想したことが現実になることはないのにもかかわらず。同じ事象を素朴に定義することが出来ないように、ある一点のみが異なる世界を考えて、人生をあれこれ言うのは全くナンセンスです。世界が決まってるとか決まってないとか関係なく、私たちは起きたことを、認知機能が許す限りで受け取ることしかできない」

 先生はいつも通り淡々としている。

「今を受け入れろって言ってます?」

「いいえ。今を受け入れないという選択肢は存在しません。受け入れ方を変えることが、あなたの脳内の物質の分布を、あなたにとって好ましいように変えるかもしれない……ということです」

「先生は本当に回りくどいですね」

 絶対に起こってしまうこと、起きてしまったこと、もうすべては過去のことになろうとしている。俺よりもいい思いをしたやつも、もっと惨めな人生のやつも、等しく今日のイベントで無意味になるのだと思うと、それは素晴らしいことのように思えたが、どこか虚しい。

「そうですね。いつでも、どこでも、そういう神経回路の発火しかできません。幸いにして、死ぬまでそうなりそうですね」


 酷暑が嘘のように空は薄暗くなっている。差し込む光が隕石に遮られているのだろう。異様な感覚は、何からもたらされたのだろうか。

「先生、俺もう行きますね。気は紛れました」

 どこへ行くわけでもない。最期なんかなんだって良かった気がしてたが、やっぱり一人で死ぬのが美しいと思っただけだ。先生にお前は俺の死に居合わせるのに相応しくないと捉えられるようなことを、言いたくないと思った。

「そうですね。私もこんなに授業が楽しかったのは久しぶりでした」

「先生、それじゃ。ありがとうございました」

「ええ、お疲れ様でした」


 なんかとてもいい話だったような気がする。最期にする話としては、驚くほど上出来で、口惜しいものだった。

 俺は感情の行き先もないままあてもなく校舎を彷徨い、そういえば屋上で寝転がりながら空を眺めてみたかったことを思い出した。無理やり侵入した屋上は想像より大分汚くて、平時には立ち入り禁止だから柵の老朽化も進んでいた。

 硬いコンクリートの上におずおずと身を投げ出したら、思ったよりずっと硬くて熱くて不快だったので、すぐに胡座に姿勢を直して、ぼうっと空を眺めることになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る