午後十時

 名古屋の夜は早い。ナイター帰りに立ち寄ることができる飲食店は、居酒屋やバーを除くとそう数は多くない。

 それでもこの店だけは煌々と明かりを灯し、人で賑わっていた。

「それじゃ七華と中日の未来に乾杯」

「喧嘩売ってるの? ……乾杯」

 こんな時間からチューハイ片手に台湾ラーメンと青菜炒めだなんて、贅沢なことこの上ない。

「はぁ、青菜炒めの塩気とにんにくが夏の暑さに効く……」

「おっさんじゃん」

「こんな贅沢できるならおっさんで結構」

 こんな姿を誰にでも見せているわけではない。

「七華は教職一本にしぼってるの?」

「うん。仁詩から見たら甘えてるかもしれないけど、私要領よくないから。今は教職に集中したいんだ」

「高校の頃から先生になりたいって言ってたし、甘えてるとは思わないよ」

 台湾ラーメンをほぼ同時にすすりあう。この辛さがいい。

「豊橋先生……想像するとちょっと面白いな」

「は? リクルートスーツの仁詩のほうがよっぽど面白かったんだけど」

「七華も教育実習はリクスーだろ。来年には大変さがわかるさ」

 私が教育実習で右往左往している頃には、仁詩はもう就職先を決めているのだろうか。

「ちなみに教科は国語だっけ」

「うん」

「豊橋先生の古文の指導には本当にお世話になりました。おかげさまで大学に受かったので、全部忘れたけど」

 放課後の教室で。図書室で。お互いの家で。肩を並べて勉強しあった日々を思い出す。

「仁詩にとって私の存在ってその程度だったんだね……」

「じゃぁ七華は余弦定理覚えてる? 何回これはつべこべ言わずに覚えろって言ったことか」

「そんなの覚えてなくても名古屋では生きていけるの。東京では必要かもしれないけど」

 言い返してやったという顔をしている仁詩に対しての、ほんのちょっとした冗談だった。

 ただ。

「……あのさ」

 私が胸の奥に秘めていることがわかったのか、仁詩がずばり聞いてきた。

「七華はやっぱり……名古屋で就職するんだよな?」

 これは最終の意思確認なのだろう。

「岐阜とか三重の可能性もなくはないよ」

「出た出た七華の屁理屈。東海三県! 中京圏! 名古屋大都市圏!」

 ありがとう。一回は茶化した空気を作ってくれて。

「……そうだね」

 お皿に残っていた最後の青菜を口に運ぶ。塩気が美味しくて……しょっぱかった。

「私は仁詩と違って、名古屋以外では生きていけないから」

 ついさっき、ドームで言ったばかりな気がする。いや、なんだったら、もっと前からずっと言ってる。

 涙をこらえるために、ふふっと私は作り笑いを浮かべた。

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