第17話 お前が世界だ

 鴉の群れが降る。



 黒煙によって編まれた黒い鳥は、堕ちるようにして街の至る場所に降り注ぐ。瓦屋根に、電柱に、アスファルトに、ガラス窓に……降り注いだ鴉は、黒い煙を上げて消えていくが、代わりに紅蓮の炎を残していく。


 そうして燃え上がった炎が生み出すのは新たな黒煙。上空で鴉に姿を変えては、再び地上へと降り注ぐ。


 夜掴やつか帆澄ほすみが目にしている惨状は、まさに千年前の再現だった。この炎は、帝都全てを焼き尽くし、黒く染め上げるまで止まらない。その中心にいるのは、暁鴉あけがらす舞美まみの名を戴く少女。レンガが焼け、鉄柱が溶け落ちる炎のなかにありながら、黒髪を揺らめかせては、赤輝血あかかがちの双眸で、帆澄ほすみと相対する。



「一緒に帰ろう」



 帆澄ほすみは静かに手を伸ばす。



「そこは、お前が居ていい場所じゃない」



 その言葉に、一瞬だけハッとした表情を見せる少女。だが、逆巻く炎はますます勢いづき、壁は厚くなる。


 拒絶されている。


 帆澄ほすみは肌を焼くような熱からそれを感じた。それでも帆澄ほすみは前へすすむ。業火に包まれているというのに、その顔は春の陽気にあてられているかのように穏やかで、優しい。



「来るな」



 炎の壁から生み出された槍が、投擲される。その正体は灼熱を包む鉄柱。けれども、帆澄ほすみは涼しそうな顔のまま、無言で〈幻身うつしみ〉を腕に纏うと、簡単に弾いた。



「来るな!」



 荒れ狂う炎が、無数の腕となって帆澄ほすみに襲いかかる。憎悪、怨嗟、殺意、恩讐、その全てを払いのけて気がつく。


 目の前にいる少女は、泣いていた。



「来ないでって言ってるの!」



 なんだ、そこにいるじゃないか。帆澄ほすみは心のなかで溜息をこぼした。出会った日と何も変わらない。強情で、思い込んだら手がつけられなくて、走り出したら止まれない不器用な子。


 そこにいる。

 だから、手を伸ばせば届く。


 だが、それでも届かないのは明心あけみが拒絶しているからだ。帆澄ほすみによって伸ばされた手。それをかわすかのように、明心あけみは炎を放ちながら後退する。


 掴めるわけがない。帰れるわけがない。もう戻れない場所まで来てしまった。たくさんの人に迷惑をかけた。人々の暮らしを破壊した。こんな大罪人が、握っていい手などない。帰っていい場所などもう――



「――あ」



 その時、明心あけみの目に映ったのは、帆澄ほすみの背後から現れた乃渚のなの姿だった。空高く跳躍し、不敵な笑みを浮かべて、双剣の狙いを明心あけみに定める。


 帆澄ほすみに気を取られていた明心あけみに対抗策はない。咄嗟に、炎の壁を盾にしようとするがもう遅い。


 迫り来る刃。迫り来る蒼玉サファイアのように美しく、それでいて猛禽類を思わせる瞳。時の流れが鈍化するなかで、明心あけみは心のなかで不思議と安堵していることに気がついた。



「やった……」



 これでようやく、血の鎖から解放される。千年の呪いから解放される。もう苦しまずにすむ。悪は倒されて、正義が勝つ。そんなハッピーエンドが訪れる。世界はあるべき姿を取り戻して、回り始める。


 みんなが幸せな世界だ。



「――馬鹿が。そこにお前もいるんだよ」



 まだ終わりじゃない。距離を詰めた帆澄ほすみは、逃げようとする明心あけみの腕を無理やりつかまえると、そのまま覆い被さった。


 舞い散る血潮。


 それを明心あけみが目にすることはなかった。帆澄ほすみの胸のなかに押し込まれた明心あけみに、聞こえてくるのは心地よい心音。それから、穏やかな声だけが聞こえてきた。



「つかまえた」




 *****




 黒煙に覆われる空。

 そのわずかな切れ間から月影が差し込む。



「なに……やってるんですか? 放してください!」



 もがいては、必死に抜け出そうとする明心あけみ。けれども、包み込むように回された腕がそれを許さなかった。抱きしめる力は、強さを増すばかり。降り注ぐ月影に照らされて、二人だけの時間がやって来る。


 帆澄ほすみの腕のなかは、あたたかかった。まるで、春の夜空のなかに招かれたかのように、穏やかな光のなかにいる心地。だが、そんな心も、たちまち憎悪へと変化する。驚いたのは明心あけみだ。明心あけみの身体の奥に潜むものが、目の前の男を拒絶していた。なんで? どうして? 暴走する血流を必死で抑えながら、明心あけみは必死にもがいた。



「離して! じゃなきゃ……殺しますよ!」


「ああ。やれるもんならやってみろ」


「――ッ!」


「倒すって言ってたもんな、お前」



 背中に走る痛みに堪えながらも、穏やかに笑う帆澄ほすみ。それは、自嘲気味な笑みにも似ていたかもしれない。抱きしめれば分かる。煮え滾る血液が、凄まじい心音とともに明心あけみのことを苦しめている。千年分の憎悪。奈落の底から響いてくる慟哭。覗いてみればその深淵はどこまでも真っ黒で、帆澄ほすみさえもふとした瞬間に、飲み込まれそうになる。


 だが、その負のエネルギーを別にしても、明心あけみの秘めているエネルギーは膨大だと気が付く。持っている潜在能力だけでは、もしかしたら自分以上かもしれない。もし、明心あけみが本気で鍛錬に取り組んだのなら、帆澄ほすみをも凌駕する〈幻身うつしみ使つかい〉が誕生する日がくるかもしれない。そう遠くない未来に、本当に倒されてしまう日が来るかもしれない。


 ――でも、いまはまだ。



「そんなんで俺を倒す気なのか? ――毛玉ちゃん」



 降り注がれる言葉に、明心あけみはキッと奥歯を噛む。毛玉呼びされたことに対してではない。毛玉呼びに対して怒れたのなら、その方がずっとよかった。何も分かってない! 明心あけみ帆澄ほすみの胸のなかで発狂する。


 その時、月は再び黒煙によって隠された。



「何もかも嘘だったんです! 月雲つくもさんに会いたい理由も、私が〈幻身うつしみ使つかい〉を目指した理由も! 全部! 全部! すべては、私のなかに流れる血が命じたことだったんです! 最初っから私の意志なんてなかったんです! ――あなたのことを倒そうって言った相村さがむら明心あけみなんて子は、最初っからいなかったんです!」



 だから、血の命に従った。



「私は世界の敵! 私がいたらみんなを傷つける! みんなを不幸にする! いるだけで悪なんです! いるだけで、月雲つくも絢志あやしを殺そうとしてしまうんです。こんな怪物、この世界から消えてしまった方がいいんだ!」


「で?」


「……で、って! ちゃんと、聞いてたんですか?」


「滅ぼせばいいだろ? 暁鴉あけがらすの血はそうしたがってる。でも、そうしたくないのは――相村さがむら明心あけみ、お前だろ?」



 帆澄ほすみは抱きしめていた腕を緩める。そうして明心あけみの瞳をまっすぐに見つめると、視線を落としてポンと頭に手を置いてやる。見れば、どうやったらそうなるんだよと思いたくなるくらい、ぐしゃぐしゃな表情。そんな明心あけみの顔を見て、思わず吹き出しそうになるのを堪える。

 

 明心あけみの瞳は、燃える炎の紅蓮なんかじゃない。ましてや、憎悪と怨嗟に燃える赤輝血あかかがちなんかじゃない。綺麗な柘榴石ガーネットだ。もしも、それが夜空に浮かぶ星だったのなら、ひときわ明るく煌めいていることだろう――アークトゥルスの瞳だ。



「でも……でも……、血が殺せって叫ぶんです!」


「たとえ、血に操られていたとしても、お前はお前なんだ。一族の血がお前なんじゃない。お前に一族の血が流れてるんだ」



 帆澄ほすみは、半分自分に言い聞かせるように語る。


 五大名家に生まれた者――いいや、〈幻身うつしみ使つかい〉の家系に生まれた者なら一度は考えたことはある。流れる血が、自分の運命を決めているのであって、自分には意志なんかないのではないかと。


 月雲つくもに生まれたら月雲つくもの、久珂ひさかに生まれたら久珂ひさかとしての運命を背負わされる。血の期待に応えては、血の望むままに生き、子孫に血を預けて死んでいく。その繰り返し。自分は、千年続く家系の一部でしかなく、ただの歯車に過ぎない。与えられた能力、与えられた財産、与えられた境遇、与えられた運命……果たしてと呼べるものは、いくつあるのだろう? 自分の意志と呼べるものは、あるのだろうか? 一定程度の将来の地位を約束され、壱條いちじょう侑生ゆうを後輩に持ち、久珂ひさか乃渚のなと婚約したのは、月雲つくもの血を持っていたからが故だし、月雲つくもの血が定めた運命のレールだ。生まれてから死ぬまでの予定表は、全部血が決めていて、もしかしたらコーヒーの味の感じ方さえも、決めているのかもしれない。


 

「そんなの、つまんないだろ?」



 血の一部じゃない。

 血が一部なんだ。



「一部なんかになるな!」


「先輩……。でも――!」


「そりゃあ、血は色んなことを命じて来る。いまだってそうだ! 俺の血はと叫んで来る。暁鴉あけがらすの力が怖いから。でも、俺の抱いてる恐怖の感情、お前の抱いてる憎悪の感情は、それで全てなのか? 全部が全部、恐怖や憎悪なのか? 違うだろ! 恐怖や憎悪は、一部でしかないんだよ!」



 一部のくせにでしゃばるな。


 帆澄ほすみは、明心あけみの背後に浮かぶ〈幻身うつしみ〉に視線を投げる。暁鴉あけがらすの亡霊は、何も答えない。ただじっと、二人の様子を眺めている。お互いに呪い合った二つの一族の子孫の二人が、作り出そうとする未来の様子を見守っている。



「でも、どこまでいっても、私は暁鴉あけがらす舞美まみです! 暁鴉あけがらすの血が流れている限り、いつかみんなを――」


「だからこそ、術師にはもう一つ名前があるんだろ? 相村さがむら明心あけみ。自分を見失いそうになったときのおまじないなんだよ」



 もう一つの名前。


 誰もが持っている、自分が自分に名付けた名前。ペンネーム、ニックネーム……でも、それは偽名なんかじゃない。与えられた世界、与えられた未来、与えられた運命に立ち向かうための、自分のためのおまじないだ。


 もう気付いてるだろ?


 全部ひっくるめて自分だ。

 


暁鴉あけがらす舞美まみも、相村さがむら明心あけみも、全部お前なんだよ。暁鴉あけがらすの血も、学園で友達と笑ってる顔も、全部お前だ。与えられた過去が自分なら、掴み取る未来もお前なんだ。過去現在未来、全部ひっくるめてお前なんだよ!」



 世界の一部なんかじゃない。

 お前が世界なんだ。


 俺が世界だ。



「だからもう、お前は俺の一部なんだよ、相村さがむら明心あけみ。同じように、夜掴やつか帆澄ほすみは、お前の一部なんだ。お前が消えたら、世界が幸せになるんじゃない。世界が消えるんだ。お前が死んだら、俺も死ぬんだ。お前が幸せな未来を掴めたら、俺も幸せな世界に立てるんだ。もう出会った時から、全部繋がってるんだよ」



 そして、言葉を紡ぐ。



「――俺と結婚してくれ」




 *****



 戯言だな。


 ふと、帆澄ほすみ暁鴉あけがらすから冷たい視線が注がれる。揺らめく影によって編まれたその姿は、相村さがむら明心あけみと瓜二つ。しかし、千年分の憎悪の具現化であることに違いはなかった。



月雲つくもの言葉らしい醜悪さだ。そんな世迷い事で、我らの恨みが――」


「消せるさ。たかが千年ぽっちだろ? 俺はこの先、一万年、一億年、一兆年分のまだ見ない子孫たちを代表して言ってるんだ」



 そう言って、帆澄ほすみはその場に膝をつくと深々と頭を下げた。狼狽える明心あけみと、不快感をあらわにする舞美まみ。その両者に、帆澄ほすみは語り掛ける。



「千年前に俺の一族が犯した蛮行を、ここに謝罪する。許してくれと言って、許されることとは到底思わないし、忘れてくれ、水に流してくれと言うつもりもない。過去は過去だと切り捨てるつもりもない。赦しを乞うつもりもないし、恨み続けてくれて構わない」


「……」


「けど、もういいだろ? そいつを虐めるな、可哀想だろ? 俺は千年分の憎悪も、千年後の幸福も、全部ひっくるめて受け止める。打倒宣言も、流した涙も、笑った顔も、怒った顔も、宿題忘れてヤベってなった時の顔も、カラオケでサビ歌ってるときにむせてるマヌケな顔も、卒業試験で必死になる顔も、子どもが生まれて嬉しそうな顔をする顔も、歳をとって動けなくなって悲しそうな表情を浮かべる顔も、全部受け止めます」



 だから。



暁鴉あけがらすの血を、俺にください。一緒に世界を変えよう。――千年前とは違う。今度は嘘じゃない」









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