第15話 交錯する思惑

「上は、明心アイツの処遇を決めかねてる感じっスね」


「……そうか」




 事件から、六時間が経とうとしたころ。日の落ちた壱條いちじょう邸に月雲つくも絢志あやし壱條いちじょう侑生ゆうの姿はあった。名家らしく門を構える日本屋敷だが、久珂ひさか家や月雲つくも家と比べると、やはりその規模は小さく見える。いまは事件の渦中にいた彼らの聞き取り調査が一応終わったところで、侑生ゆうの誘いにより、治安維持隊の分署の隣にある壱條いちじょう邸を訪れていた。


 絢志あやしは、和室からふと庭園に目をやる。池の前には、一緒に避難してきた藤生ふじょう奏瑚かこの姿がある。彼女の視線は塀を越えた向こう側――明心あけみが拘留されているレンガ造りの治安維持隊の分署だ。



奏瑚かこちゃんショックだろうなぁ……」



 侑生ゆうは立ち尽くしている奏瑚かこを見ては、憂いの表情を浮かべる。 



「でも俺もショックなんスよ? まさか、後輩にが紛れ込んでたなんて」


壱條いちじょう――」


「だって、先輩もそう思うでしょ!」



 過ぎた言葉を諫めようとした絢志あやしだったが、侑生ゆうは感情を昂らせた。侑生ゆうにとって、明心あけみは春に入って来た新入生。出来はすこぶる悪かったが、明るさを武器にめげることのない真っすぐな子だと思って可愛がってきた。だが、その正体は悪名高き〈暁鴉あけがらす〉。



「俺たちは、ずっとアイツに騙されてたんスよ?」


「……」


「毛玉ちゃん、毛玉ちゃんって……バッカみてぇ! ずっと、無能なフリをしてたんだ。そうやって俺たちに近づいて……くそ。一体何を企んでたんだか」



 ついに悪態が止まらなくなった侑生ゆう。だが同時に、侑生ゆうは世間の反応の代弁者でもあった。暁鴉あけがらすの復活。それは悪夢の再来を意味した。一〇〇〇万人を超す人口を抱える帝都に一度ひとたび火が燃え広がればどうなるか? 被害は千年前の比ではない。昼間の事故は、そのことを予言していた。


 おかしいのは壱條いちじょう家の対応だ。


 危険分子は、速やかに処分すべきだ。もし、久珂ひさかの支配する管轄区域なら、即刻処刑されたことだろう。不幸なのは、今日の事件が壱條いちじょうの管轄区域で起ったこと。暁鴉あけがらすの暴走を止めたのは月雲つくも絢志あやし久珂ひさか乃渚のなのバディーだったが、当の壱條いちじょう侑生ゆうは人質にされて何もできないという醜態を晒した。


 それなのに、管轄区域が壱條いちじょうというだけで、暁鴉あけがらすを裁いていいのか? 久珂ひさか家に引き渡し、処分を任せた方がいいのではないか? ……いやいや、そんなことをしてはますます久珂ひさか家が増長してしまう。ここで裁かないのは、壱條いちじょう家の恥だ……等々。壱條いちじょう家は、実在した〈暁鴉神話〉に対処しきれていなかった。


 そんな状況の壱條いちじょう


 久珂ひさかは完全に足下を見透かしていた。



「もー、何言ってんです?」



 怒りのままに喚き散らす侑生ゆうの前に、乃渚のなが涼し気な表情のまま現れる。身を包んでいる隊服は、あれだけのことがあったのに、一部に焦げ跡があるだけで、ほとんど乱れが見られない。その姿が、いつかの一対一で完膚なきまでに叩きのめされた時の袴姿と重なり、侑生ゆうは思わず言葉を失ってしまった。



「まだ犯人のうちの八人は逃亡中。いまは犯人の行方を追う方が先決です。相村あいむら明心あけみ暁鴉あけがらす〉の処遇は、それから決めても遅くないはずですよ?」


「……ッ! だいたい、今回の事件を引き起こしたのは――」


「おっと」



 すっと、侑生ゆうとの間合いを一気に詰める乃渚のな。ふわりと髪が揺れたかと思えば、乃渚のなの人差指が侑生ゆうの鼻先に突き付けられた。目の前には、蒼玉サファイアのような美しい瞳と、桃のように柔らかそうな唇。一〇センチほどの身長差があるため、見上げられている筈なのに、こうも迫られては見下ろされている錯覚に陥る。



「その先はシーっですよ、先輩。もし、一言でも久珂うちを侮辱する内容が飛び出したら、耐え切れずに、思わず――っちゃうかも」



 その時、乃渚のなの左の指先は、侑生ゆうの心臓辺りを突いていた。指で作った銃の引き金を「ばーん」と撃って見せる。乃渚のなの口調は、友達と悪ふざけしている時とまるで変わらない。しかし、意図的に向けられた刃のような殺気に、侑生ゆうの呼吸は荒くなる。



「あまり、壱條いちじょうを虐めるな」


「あはは。そう言う、先輩はどうなんです?」



 ねぇ? と後ろに手を組んで胸を強調すると、乃渚のなは今度は絢志あやしに迫る。恋人に物をねだる様な口調。しかし、久珂ひさかは、壱條いちじょうだけでなく、月雲つくもも遊びの道具にすぎない。



明心あけみちゃんの正体をずっと知ってて黙ってたでしょ? いつから知ってたの? 一対一をした日? 初日から? ……それとも、もっと前からかなぁ?」



 例えば、六年前の山火事の際に女の子を助けた日から? 乃渚のながそう口にしようとしたところで、侑生ゆう絢志あやしに襲い掛かった。胸倉を掴むと、勢いのままにそのまま押し倒す。



「アンタ! 知ってたのか! 全部ッ!」


壱條いちじょう……」


「答えろッ! ――いいや、アンタは知ってたんだ! そういやアンタは、『僕にとって特別な子』って言ってたもんなぁッ!」


「ああ、知ってた」


「なんで黙ってた! いや、なんで殺さなかった! アンタ、勲章持ちなんだろ? だったら、あんな女の子、簡単に!」



 どうして殺さなかった? その問いかけを、絢志あやしは一笑に伏す。そんなのは決まっている。出張先でたまたま見かけた子が、暁鴉あけがらす一族の生き残りだっただけの話。ただの不幸話だ。


 愚かなのは、暁鴉あけがらすと気が付けなかった絢志あやし自身。調子に乗って、術を教えた絢志あやし以外の何者でもない。そのせいで、何も知らない無垢な女の子を、世界の敵に変えてしまった。その責任をどうして、明心あけみが負わなければならないのか? 確かに種はかれていたかもしれない。だが、その種を育てたのは絢志あやしだ。責任を負うべきは誰なのかは、はっきりしていた。



「あいつは悪くない」


「は、ハァ? なに言ってんだ!」


「全部、僕のせいなんだ」


「だから意味分かんねぇよ! いい加減、目を醒ませ! アイツは悪魔だ! アンタはどうして、悪魔なんかを庇おうとする?」



 無抵抗な絢志あやし。いまにも拳を振り上げそうな侑生ゆう。その後ろで、乃渚のなはクスクスと笑っている。さらに乃渚のなは、「殴らないでくださいね。一応、その人は婚約者なので――いまはまだ」なんて言って遊んでみようかななんても考える。


 きっと、上層部でも似たようなことが起こっているのだろう。沈黙する月雲つくも。慌てふためく壱條いちじょう。その様子を遥か高みから久珂ひさかが嗤っている。


 そうやって世界が回っていく。

 

 そうやって、久珂ひさかがこの国を支配する。



「あはは……。詰まんないの」



 すまし顔の乃渚のな。だが、心のなかでは笑っていなかった。


 子どものころから、乃渚のなには敵がいなかった。教えてもらったのは、這い上がって来る虫の潰し方。それから、飼い犬の殺し方だ。戦う相手は、この世を恐怖に陥れた、伝説の魔王なんかではなくて、権力と名声に溺れた五大名家。そして、久珂ひさかの血が自分に命じたのは、一人の人間としてではなく、久珂ひさかの武器となり擦り切れるまで家に尽くすこと。〈幻身うつしみ使つかい〉の世界は、暁鴉あけがらすのような強大な悪がいて、かつての月雲つくも一族のように、自分たちが平和を作り上げる場所じゃない。血肉が湧き踊るような戦場ではない。


 ただの生臭い屠畜場だ。


 それでも最初のうちは、用意された家畜の屠殺を楽しむことにした。けれど、すぐに飽きてしまった。乃渚のなはすぐに何も感じなくなってしまった。本当は、狩りがしたい。襲い掛かる獣を斬りつけてこそ――を切り伏せてこそ、興奮を覚えることができると思った。に出会いたかった。けれど、どいつもこいつも偽物で、詰まらなかった。は神話のなかの存在で、この世に存在しないのだから。


 せめてもの楽しみ。


 それは、這い上がって来る虫と遊ぶこと。月雲つくも壱條いちじょうをいたぶることだ。揶揄からかうだけ揶揄からかって、絶望させるだけ絶望させて、ぐちゃぐちゃにして屑籠くずかごに捨てる。それが面白いかと言われたら、面白くもなんともない。けれど、娯楽と呼べるものがそれしかないのだから――


「――仕方ないよね」 


 いずれにせよ、ずっと相村さがむら明心あけみの正体を知りながら、隠匿してきた月雲つくも絢志あやしは重罪人だ。指導係でありながら気が付けなかった壱條いちじょう侑生ゆうも、無能の罪がある。どうせなら、悪魔を育て切るところまでしてくれればよかったのにと思いつつ、乃渚のなは諦めの嘆息を吐く。いずれにせよ、取るに足らない奴らだ。せめて散り様で、楽しませてくれないか。


 そんなことを思いながら、ふと顔を上げた。



「――ねぇ、私にも是非聞かせてよ」



 風が舞い込む。


 藤の花びらが、そこには一つ。

 風鈴の音が響いた気がした。



「……」


「……」


「……」



 押し黙る三人の〈幻身うつしみ使つかい〉。その傍らに、藤生ふじょう奏瑚かこが立つ。腕を組んでは、壁にもたれかかるポニーテールの少女は、気だるそうに視線だけを絢志あやしに向ける。



「どうして助けたいの?」


「決まってるだろ。僕は――」


「――聞いてる限りでは、明心あけみを助けたい理由って、ただのアンタの罪悪感でしょ? なにそれ。それで救われるのって、アンタ自身でしょ? 私が明心あけみだったら、アンタの自己満で守られたくない」



 それ以外ないの? 


 本当にそれだけなの?


 家を騙して、世界を欺いてでも、あの子を守りたかった理由は、月雲つくも絢志あやしのなかには無いの?



「……」



 呆気にとられる絢志あやし


 辛うじて、反論しようとした気持ちさえも、過去の記憶によってへし折られる。六年前に明心あけみと出会ったあの日に、そばにいた少女の姿と重なり、得も言われぬ雰囲気に、何も言えなくなってしまう。


 威圧しているわけでもない。揶揄からかっているわけでもない。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。諭しているわけでもない。まして、止めようとしているわけでもない。ただ、藤生ふじょう奏瑚かこは、そこに立っていて、


 ただただ、気だるげに。



月雲つくも邸に帰んなよ。自分のせいだ、なんてよく分からない理屈で誤魔化すくらいなら。――好きになった子の居場所になりたい、くらいは言わないと、あの子は落ちませんよ?」









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