第10話 火鼠

 壱條いちじょう侑生ゆうには、行きつけのベーカリーがある。『ルセロ・デル・アルバ』と名付けられた明るい雰囲気のお店。天ノ峰あまのみね学園からは徒歩七分の距離にある、学生にも人気な場所だ。



「いらっしゃいませ!」



 『ルセロ・デル・アルバ』のある帝都の南部は、学園都市として開発が進んだこともあり、飲食店やカフェが立ち並ぶほか、書店や雑貨店に簡単にアクセスすることができる。知性と、自由さと、それから若干のお洒落さを兼ね備えた町並みだ。西部には流線形をした超高層ビルの多い未来都市が広がり、北部では路面電車が走るレトロな風景を楽しむことのできる帝都。場所によって異なる顔を見せる帝都だが、侑生ゆうは南部の雰囲気が一番好きだった。


 そのなかでも特に気に入っているのが、ベーカリー『ルセロ・デル・アルバ』だ。初めて訪れた時から、穏やかな店の雰囲気と、そのパンの味に、侑生ゆうはすっかり魅了されてしまった。


 好きな時間帯は、午後三時ごろ。


 決まって頼むのは、クリームメロンパンと紅茶の組み合わせ。「焼きたてホカホカ!」とポップが立てられた陳列棚から、メロンパンを一つ取ると、侑生ゆうはうきうき気分でレジへと運んでいく。


 純粋に美味しい――それもある。もう数日もすれば、朝の鍛錬も自主的なものが中心になるから、後輩指導に時間を割かなくてよくなる――それもある。だが、それ以上に、今日のバイトの女の子が、前から気になっている子であることが、侑生ゆうを浮足立たせた。この四月から新しく入った子で、ポニーテールの可愛い子だ。



「クリームメロンパンが一点――」


「それから、えっと……」



 ニコニコしながら対応する女の子。もう、何度も会っている子なので、顔を覚えてもらえている自覚はあった。ここは、普段なら「紅茶を」と頼むところ。だが、「いつものを」という言葉が喉まで出かかる。


 勝負をかけるか? いけるか? ……いや、たとえ覚えていて貰えたとして、キモいと思われないだろうか? 侑生ゆうは、思考を高速回転させる。脳裏に「虎穴に入らずんば――」という故事がよぎっては、「時は戻らない」という抑制を促す言葉も同時に流れる。


 そのうち、そもそも覚えてもらえていないんじゃないかとの不安を抱き始める。ちなみに、侑生ゆうは目の前の女の子の名前を、ネームプレートを見た日からずっと覚えていた――藤生ふじょう奏瑚かこだ。



「じゃあ、いつも――」


「今日はアールグレイ付けます?」


「えっ? あ、えと、お願いします」


「りょーかいです。いつもはホットですけど、今日はどうされます? 最近、暑くなってきましたし」


「じゃ、じゃあ、つめたいので」



 侑生ゆうの言葉に、無邪気な笑顔を返す奏瑚かこ。途端に侑生ゆうの心臓は射貫かれてしまった。すでに舞い上がってしまっている侑生ゆうだったが、さらに奏瑚かこはペコリと可愛らしく頭を下げる。



「いつもありがとうございます。――壱條いちじょうさん」


「え? 君……俺の名前を? なんで?」


「何言ってるんですか? 先輩は有名人じゃないですか!」


「いやいやいや、俺なんか……ん? あれ? センパイ? 君ってもしかしてうちの生徒――」


「それに、うちの明心あけみがお世話になってるそうじゃないですか。ルームメイトなんです。ドリンク代はサービスしますよ」



 なんてこった! 百点満点の笑顔。百点満点のウィンク。奏瑚かこが脳裏に焼き付いたまま会計を済ませると、侑生ゆうは世にも気持ちの悪い笑みを浮かべながら、空いている席へと流れていった。


 顔を覚えていてくれただけではない。名前も、それから、どんな人物かさえも知ってもらえていた。そのうえ、後輩指導をしている明心あけみのルームメイトときた。奏瑚かこにアプローチする方法をずっと考えてきたが、思ったよりも近くにいたし、はじめから手を伸ばそうと思えば側にいる存在だったのだ。



「うへへ……。そっかぁ……。そうだったんだぁ……。藤生ふじょうさん……」



 クリームが口のなかに広がるにつれて、侑生ゆうの表情はとろけていく。この後は、溜まっているレポート課題をしようと思っていたが、もう何も考えられない。頭のなかだけじゃなく、足の先から全身が、藤生ふじょう奏瑚かこでいっぱいだ。


 大通りの方が喧しい。きっとお祭か何かで賑わっているのだろう。そんなことを思いながら、侑生ゆうは温かな紅茶に口をつけては、一人で勝手に満たされた気分になる。


 ただただ幸せだった。店内に響くポップな音楽が、浮かれた心を、さらにふわふわな空間へと連れていく。外からは悲鳴が聞こえてくるが、きっと何か楽しいことがあったのだろう。大通りの方を見れば、人が慌てふためきながら走っていく姿が見えるが、きっと何かあったのだろう。近くで爆音が響いたが、きっと何か――



「え? 爆音?」



 異変に気付いた時には遅かった。 


 次の瞬間、ベーカリー『ルセロ・デル・アルバ』の玄関が轟音とともに破壊され、店内には砂煙が広がる。



「なっ!」



 そして、砂煙の向こう側から、紅蓮の双眸を持つ人影が現れる。一人や二人ではない。店内に入って来たのは、体格のいい黒ローブの中年だが、窓の外には同じような黒ローブの人物が五から六人確認できる。そのどれもが、そばに自らの〈幻身うつしみ〉を控えている。



「まさか! 〈暁鴉あけがらす〉!」



 侑生ゆうは勢いよく立ち上がると、猿の姿をした自らの〈幻身うつしみ〉を現界させて構えた。レジの方を見れば、身を小さくして怯えている奏瑚かこの姿。他にも、店内には数人の怯えた様子の店員と客の姿がある。


 侵入してきた男は、そんな店内の様子を一瞥すると、悠長に葉巻を咥える。それから、「火ぃ」と、彼が低く濁った声で要求すると、周遊していた火鼠ひねずみが主人の求めに応じて、葉巻に火をつけた。もちろん、火鼠は彼が実体化させた〈幻身うつしみ〉だ。



「やれやれだ。誰かと思えば、壱條いちじょうのガキ。店ェ、占拠するだけの簡単な仕事だって聞いてたのによ……クソだりぃ」



 煙を浮かべては、独り言のようにボソボソと呟く男。侑生ゆうと視線は合わせず、ただただ空を仰ぐ。無表情で、無感情。何を考えているかも読み取れない。そんな男の姿に、侑生ゆうは底知れぬ恐怖を覚えた。



「な~んで、みんな俺の名前知ってるんスかねぇ?」



 強がりで口を開くが、侑生ゆうの頬を冷や汗が流れる。相手が何者か分からないが、ヤバそうだということだけは理解する。もしこの場を切り抜けることだけを考えれば、やり過ごせるかもしれない。だが、奏瑚かこをはじめ、この場にいる人間を救わなければならない。それができるのは侑生ゆうだけ。助けを求める周囲の視線が集まり、侑生ゆうは無言のプレッシャーに押しつぶされそうになる。



「(俺が、なんとかしねぇと……)」



 地を蹴る。


 まずは猿が突っ込み、追撃のために侑生ゆうも真っすぐに突っ込んだ。


 その先に、炎の刃が待ち構えているとも知らずに。



「〈幻身うつしみまとい――携影けいえい紅炎刃こうえんじん〉」


「え?」



 刹那、火鼠が炎を上げて燃え上がる。かと思えば、紅蓮の炎は男の腕のなかへと収束していき、一振りの刃が形成される。


 そして、炎の刃が振るわれた。










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