第02話 その夜

「帰ればいいじゃん。もうやってけないでしょ」



 ご愁傷様。そんなふうに頬杖を突きながら、ルームメイトの藤生ふじょう奏瑚かこは感想を述べた。幼馴染で、信頼の置ける人物。だから、慰めてくれるに違いないと、恥ずかしさを押し殺して今日の出来事を打ち明けた明心あけみだった。だが、見事に一蹴されては立つ瀬がなかった。



「なっ! 奏瑚かこまで、そんなこと言うの?」


「客観的な感想だよ。初日で夜掴やつか帆澄ほすみを敵に回すとか……。なに考えてんの?」


「そ、そんなに凄い人なの?」


「帝都で五本の指に入る〈幻身うつしみ使つかい〉だって聞いてるけど?」



 まぁ、天下の相村さがむら明心あけみ様にとっては赤子の手をひねるようなもんか――なんて気だるそうに語る奏瑚かこだったが、明心あけみの表情からは血の気が失せていく。普段なら、「意地悪言わないで」と抵抗するが、いまはその気力もない。



「帝都で五本って……具体的には?」


「いろいろあるけど、有名なのは弱冠十五歳で護国勲章を授与してることかな。〈獅虎しどら幻身うつしみ〉っていう強力な〈幻身うつしみ〉の使い手で、帝国軍異能部隊、治安維持部隊、他にも皇宮護衛隊からも声がかかっていて、将来は有望だとか」


「流石、奏瑚かこ。物知り~」


「いやいや。普通科でもこれくらい誰でも知ってる。逆に、異能力科のあんたが、なんで知らないの?」


「うぐっ……」



 昔から、よく「てきを知らずおのれを知らざれば、戦うごとに必ずあやうし」とは言うが、明心あけみはまさにその状態だった。一方で、さぞや高潔な魂の持ち主なんだろうねと、まるで他人事のように話す奏瑚かこ。〈幻身うつしみ〉は術者の魂の在り方が反映されるが、普通科の奏瑚かこにとっては知ったことではない。それでも、明心あけみの肩の辺りを「むきゅぅ」と鳴きながら周遊する黒い毛玉のような物体が目に映ると、同情を禁じえなかった。


 この黒い毛玉の正体が、明心あけみがいまの力で現界させることのできる〈幻身うつしみ〉。獰猛な獅子のような姿をした夜掴やつか帆澄ほすみの〈幻身うつしみ〉を想像しては、それだけで明心あけみは身震いをしてしまう。



「どうしよう、奏瑚かこぉ……」


「癪だけど、こればっかりは夜掴やつかさんの言うとおりかな。波風立てずに静かにひっそり過ごしたいんなら、田舎に帰るのが正解だと思う」


「うぅ……」


「つらい思いをしてまで残りたい?」



 明心あけみは膝を抱えて小さくなる。それでも、瞳を潤ませながら、小さく呟く。「残りたい」と。しぼり出されるような声だったが、それでも明心あけみには譲れないことだった。


 明心あけみの脳裏に蘇るのは、幼い日の記憶だ。


 九歳のころだった。日の沈んだ森のなかで、繋がれた温かな手と、太陽のように輝く笑顔はいまでもはっきりと覚えている。裏山で迷子になってしまい、一人泣いていた明心あけみのことを、一人の少年が見つけて救い出してくれたのである。本当に優しい人だと思った。「よくがんばったね」。「もう大丈夫だよ」。そんな言葉を投げかけてくれた。


 月雲つくも絢志あやし

 少年は、そう自分のことを名乗った。


 次の日、おおよそ白馬の王子様に助けられたんだと言わん勢いで奏瑚かこに話した。だが奏瑚かこは、相も変わらず気だるげな様子で、ありえないと一蹴された。夢でも見たの、と。


 月雲つくも絢志あやしといえば、五大名家の一つである月雲つくも家の嫡男で、当時十五歳でありながら将来有望な〈幻身うつしみ使つかい〉として知られた存在だった。そんな人物が、わざわざド田舎にやってきて、見ず知らずの少女を助けるなんてことをするだろうか。


 いや、絶対いたもん! 月雲つくも絢志あやしは助けに来てくれたもん! 明心あけみは信じてくれない奏瑚かこに掴みかかった。嘘つき呼ばわりされるのが心外だったし、何よりも不思議な体験に対して、リアルを突き付けて来る大人ぶった奏瑚かこの態度が気に入らなかった。父親も、母親も、信じてくれなかった。担任の先生にも、「そうだったの? よかったねー」とうわべだけの言葉を投げられた。親友の奏瑚かこなら信じてくれると勇気を出して話したのに……。


 すると、奏瑚かこには「そこまで言うんなら、ニュース見なよ」と、淡泊な返答をされた。はじめこそ、世間知らずと馬鹿にされているかと思ったが、奏瑚かこに見せられたニュース記事は、山火事のニュースだった。燃えたのは裏山――昨日、月雲つくも絢志あやしが助けに来てくれたはずの場所だった。



「もう一回訊くね。昨日、燃えてる森のど真んなかに、明心あけみはいたの?」



 そう言われては、何も言い返せなかった。


 きっと、夢を見たか、記憶違いをしてるんだろう。しばらくは、そう思うようにした。でも、どれだけ忘れようと思っても、握られた手の温もりと、太陽のような笑顔は忘れられない。月雲つくも絢志あやしのニュースが飛び込んでくるたびに、その感覚は思い出されるばかりか鮮明になっていった。彼の顔を見れば不思議と胸が高鳴り、鼻息が荒くなっているのを周りからキモがられたこともあった。


 なんと言われようと、明心あけみには月雲つくも絢志あやしとの出会いが夢ではないという確証があった。



「――あの日、私はを確かに貰ったんだ」



 明心あけみが手を開く。そこには、お守りが握られていた。白地の布に、月と雲が描かれた小さなお守りだ。貰った日から肌身離さず持っていたこともあり、いまではもうすっかり黒ずんでいて所々ボロボロになっている。


 あの体験は、やはり嘘ではない。

 月雲つくも絢志あやしに会って直接お礼が言いたい。

 そして、自分もあんな存在になれたら……。


 憧れの気持ちが積もりに積もった結果なのだろうか。明心あけみを後押しするかのように、中学三年の秋に〈幻身うつしみ〉を発現させる能力があると認められた。さらには、天ノ峰あまのみね学園の大学部に月雲つくも絢志あやしが在学しているという情報も突き止めた。



「私、がんばる! 月雲つくもさんに会ってお礼を言うんだ!」


「それは、つらい目に遭ってまでしたいこと?」


「うん!」


「……そっか」



 奏瑚かこは静かに瞳を閉じた。


 物心がついたことからの付き合いだ。明心あけみが一度やると決めたら止まらないことは、奏瑚かこが一番知っていた。六年間、記憶違いだと言い続けたのに、とうとう幻を追って上京までしてしまった。イバラの道だということは何度も教えた。それでも行くのなら、あとは見守るだけだろう。


 奏瑚かこは大きなため息をくと、明心あけみに向き直った。



「愚痴ぐらいならいつでも聞く。敵だらけになると思うけど、私は味方でいてあげるから」


「ありがと!」


「まぁ、人の噂も七十五日って言うし、ほとぼり冷めるまで静かにしとけば、そのうち皆忘れるでしょ」


「そ、そうだね! さ、流石、奏瑚かこ。いいこと言うじゃん! まだ始まったばかり。何も終わって無い」



 調子に乗り始めた明心あけみ。その姿を見て、奏瑚かこはマズいなと視線を逸らす。



「まぁ……アンタが大人しくできるんなら、の話だけど」




 *****




 翌日は、〈幻身うつしみ〉の現界させる実習だった。


 昨日の今日で注目を浴びることになった明心あけみ。「よっ、夜掴やつかさんの自称ライバル」などと小馬鹿にされるなかで、実習は始まった。その一方でオーディエンスたちは、明心あけみが一体どんな強力な〈幻身うつしみ〉の持ち主なのか注目が集まった。



 その結果。

 その日から、明心あけみのあだ名は「毛玉」になった。


 






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