第3話・こんな私の一大決心
「じゃあさー、今度彼が来たら、渡しておいてよ」
休憩時間に、同僚から何気なく言われる。ウニ君の学生証のことだ。
「は、はい……」
「神原さんってさ、高卒?」
「そうです」
「ふーん」
同僚は値踏みするようにゆかりを見る。
「な、なんでしょうか」
「立派だなーと思って」
「へ?」
同僚はふー、とペットボトルのお茶を飲み干して言葉を続ける。
「あたし、大学行ってるけどさぼってばっかだもん。自分ひとりで生活しようなんて思えないし」
「そ、そうなんですか」
「敬語じゃなくていいよ、同い年でしょう」
同僚ははははと声を出して笑った。
「あ、あの、佐野さんは何の大学に行っているんですか」
「あたしは、経済学部だよ、なんもわからないけど」
はははと、二人で笑う。
「大学なんて、どこ出ても同じだと思ったからさ、頭悪いからなのかな、どこでもいいと思ったの」
でもね、と佐野さんは話を続ける。
「気になる人ができちゃって、授業さぼれないの」
「えー」
ふふん、と笑う。
「ボーっとしてる人なんだけどさ、そこがいいのよね」
「へえ」
「神原さんは恋はしないの」
「ん」
ゆかりは食べていた弁当のご飯をのどに詰まらせる。
「恋はわからんです……」
「なにそれ、文豪みたい」
文豪って……。ゆかりは宮沢賢治を思い出す。
「じゃあ、先行くね」
佐野さんは休憩室を出ていく。一人残されたゆかりはウニ君の学生証を見ている。
自分が文豪だったらウニ君を登場人物にして小説を書いたのに。バイト明けの朝、ベッドに横になりながらカムパネルラは考える。
ウニ君は売れない画家だ。家を追い出されて絵と居酒屋のバイトで生計を立てている。居酒屋で出会った女性に一目ぼれして、彼女の後を追いかけるが、彼女には愛する人がいた。彼女の絵を描く。彼女はこんな風に笑うだろうか、彼女が彼を見る目はこんなふうに優しいだろうか、彼女が料理をする姿はきっと美しいだろう……。ある日路上で絵を売っていたウニ君。その絵を手に取った男性は驚く。死んだ妻にそっくりだよ。彼女は死んだのだろうか? しかしそれを確かめるすべなどない。彼女とはなんのつながりもないのだから……。
「うっ、うっ、ウニ君かわいそう」
「またウニ君の話?」
「げっ」
「来たよー」
Kはいつものように買い物の荷物をテーブルの上に載せる。アイスを急いで冷凍庫に仕舞う。
「……ウニ君になかなか会えないちゃん」
おそるおそる今の心配事をKに打ち明ける。
「ああ、学生証だっけ?」
「そう、来ないの」
「学校が忙しいんじゃない? 何年生かは知らないけど、年度末が近いから進級の作品を作っているのかも」
「なる~」
カムパネルラは反射的に立ち上がって冷凍庫に手を伸ばす。
「こら、今じゃないです」
「うひぇ~」
のそのそとソファに引き返す。
「で、その学校に行くことにしたの?」
「まだ決めてない」
「そろそろ決めなくちゃ」
もう、十一月も半ばになっていた。
「申し込みとか、学費の振り込みとか、あるでしょう」
「……うん」
Kはさっそく調理に取り掛かる。朝食の準備だ。
「朝ごはん食べる?」
「何ご飯?」
「味噌汁と卵焼き、納豆」
「食べる」
ふっと、腹筋に力を入れて起き上がる。シャワーに入るのだ。
「え、もしかして風呂?」
「シャワーだよん」
「えらいねえ」
これまでゆかりは埴上が勧めないとシャワーに入らなかった。それが、自分で入るとはどういう風の吹き回しだろう。
「恋ね」
「コイン?」
「こ、い!」
「?」
なんのことか分かっていない彼女はそそくさと脱衣場へ向かっていく。
朝食はシンプルで、しかし美味しかった。簡単に鰹節でだしを取ったネギと豆腐の味噌汁は特に美味しいと埴上は思った。
「今日はこれから寝るんでしょ?」
「そのつもり」
「あたし、これから出勤だから、今日午前で終わるんで、終わったら見学に行こうか」
「ん?」
「美術学校!」
え、とゆかりは固まる。埴上はつづける。
「決め手が欲しいんなら見学に行こうよ、ウニ君にも会えるかも」
「ヴぇっ……」
「何その声」
「ウニ君には会いたくない……」
「なんでー、好きなんでしょう」
ゆかりは黙ってしまった。ゆかりは黙り込むとながい。埴上も何度かその場面に遭遇してきたからわかっているが、彼女の抗議のかたちだった。
「わかった、わかった。今日はご飯を作りに来て、そしたら帰ります」
お手上げという感じで埴上が言う。ゆかりは黙っている。
ゆかりは黙っているのが割と好きだ。自分がこの世からいなくなったように感じるから。また、自分がこの世からいなくなってもこの世が滞りなく回っていくというのが分かるから。今日はそんな風にしていたい気持ちだった。
埴上が会社に行ってしまってから、どういう気持ちの変化か、ウニ君に会いたくなった。ウニ君がいそうな場所を訪ねることにした。
美術学校の校門前へ行く。ウニ君はいない。さすがに学校の敷地内へは入れなかった。
美術学校の前のコンビニへ行く。ウニ君がお昼ご飯などを買いに来るかもしれないと思ったからだ。ウニ君はいない。意気消沈するゆかり。
「あれ、店員さん?」
「ヴぁっ」
「何その声」
振り返るとウニ君がいた。ウニ君……いや、三田君が。
「あの、なかなかあのコンビニに行く機会がなかったので聞きたいんすけど、俺の学生証って」
「あああああ、ありますよ、コンビニに!」
勢いよく話し出したゆかりに三田君は少し驚く。
「そっすか、じゃあ、そのうち取りに行くんで」
「はいっ」
では、といって三田君は去って行った。
(やっぱり、三田君は優しい人にょろ……。私を覚えていてくれた)
昼過ぎに、埴上が仕事から戻ってきたとき、ゆかりはハムちゃん様のスケッチをしていた。
「おっす~。精が出るね」
「Kちゃん、あたしね」
スケッチ途中の鉛筆やクロッキーを投げ捨ててゆかりは近づいてきた。びっくりする。
「なに、なになに」
「美術学校はいる」
「え!?」
突然の申し出にさらに驚く埴上。この子には、いつも驚かされる。いい意味でも、悪い意味でも。
「どうしちゃったの、急に。見学は?」
「午前中に、門の前まで行ってきた」
「そうだったの」
「三田君にも会った」
「え!」
えへ、とここでゆかりの表情が崩れる。
「学生証のこと聞かれた」
「話したの!」
「なんか、三田君がいるならいけるかなとおもって……」
「三田君は、ゆかりにつきっきりになってくれるわけじゃないんだよ。それは、分かってるよね?」
「わかってる。でも、三田君が、今の私の希望」
希望。そういったゆかりの表情は優しい微笑みを浮かべている。この子の決断を邪魔できない。埴上は思った。
「じゃあ、今日はお祝いだね。マグロ買ってきて、鉄火丼にしよう」
「やっぴー! 鉄火丼」
この子の笑顔を守りたいって、そう思って始めたのだから。
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