1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~
第36話 狼を警戒するため、城門を出る条件が課される
第36話 狼を警戒するため、城門を出る条件が課される
翌日。金曜日。エリザベートはヴァンとともに水汲みを終えると寝床を解体して、葦を屋根の上に干した。
開店後は珍しく大入りとなった。顔なじみの漁師達が来てくれたのだ。
代金は銀貨で支払ってくれたが、大勢がお裾分けで魚介類を持ってきてくれたため、室内は磯臭くなった。この地域のカトリックは金曜日が断食日で肉食を禁じられているため、魚を得られたのは幸運だ。隣家に持っていけば焼いてもらえるし、様々な味付けのソースをかけてくれる。
腕が疲れて上がらなくなるまで漁師達の剛毛を切り続けたエリザベートは嬉しい悲鳴をあげる。
「ハサミもカミソリも駄目になっちゃうじゃない。せっかくの売り上げも、研ぎ賃でなくなっちゃう。それに、家が港の臭いになっちゃったじゃない。どうしてくれるのよ」
「はっはっはっ。そりゃいい。狼は木や岩に自分の体を擦って臭いをつけて、縄張りを主張するもんだ。俺達もここを縄張りにしちまうか」
「一斉に来るんじゃなくて、少人数ごとに、毎日お土産を持ってきてくれると嬉しいんだけど?」
「そりゃ、無理ってもんだ。俺達は海のご機嫌をうかがって漁をしているんでなあ。暇になるタイミングも同じだから、一斉に髭を剃りたくなるってもんさ」
漁師達は大声で騒ぎ、ヴァンに男らしさを説いたあと、午後を少し過ぎた頃に帰っていった。
大柄な男が大勢集まってくれたおかげか、嫌がらせ客が来ることはなかった。ただ、漁師がいたおかげで、普通のお客も近づけなかった可能性は捨てきれない。
その夜はヴァンが一人で夜警に出掛けた。さすがに四日も続けて女の保護者が同伴すれば、男のヴァンにとって不名誉なことだ。
エリザベートは気配を消してあとをつけた。ヴァンへの信頼と、悪魔憑きへの警戒は分けて考えなければならない。そう自分に言い聞かせた。
気づかれないように距離を保ち続けたが、ヴァンにも都市内にも特に不審な様子はなかった。
翌日。土曜日の朝。水汲みに行こうとすると、城門の様子が普段と違った。
豚が列を為して立ち往生しているのだ。
アラン犬が大きな図体や鳴き声で、列から離れようとする豚を群れに押し返している。
「今日は何かあるんですか?」
「んー。なんだろう。分かんない。城門は開いているみたいだけど……」
扉は開いているが、門番が立ち塞がっているようだ。門番の前には豚飼いと、水瓶を頭に乗せた女がいる。
エリザベートは群れの隙間を縫って進み、先程豚を預けて挨拶したばかりのアズに声を掛ける。
「アズ。どうしたの?」
「ああ、エリザベートさん。ヴァンさん。ちょうど良かった。門番様。四人になりました」
「うむ。通っていいぞ」
門番が横へ退くとアズが豚を誘導して先に進む。豚が狭い門下路に殺到するため、エリザベートはヴァンとともに、壁に張りついてやり過ごす。先客の女も同じようにしていた。よく同じ時間帯に顔を合わせる壮齢の女性ソフィアだ。普段と違い、腰のベルトに糸紡ぎ棒を挿しているのは、万が一の時に狼から身を護るためだろう。
「おはよう。ソフィアさん」
「おはようございます。ソフィアさん」
「おはよう。エリザベート嬢とヴァン」
鼻を鳴らしながら歩く豚のたてる音に負けじと、エリザベートは声を大きくする。
「何かあったんですか?」
「それがね。門番さんが言うには、今朝開門したら五、六頭の狼が、北の方へ走っていくのを見たって」
「掘りのすぐ向こうまで来てたの? 朝から?」
「そうなんだよ。日中も目撃情報が増えてきてね。家畜が襲われた農家もいるそうなんだよ。それで今朝から、四人以上集まらないと外に出ちゃいけないことになったんだとさ」
「そうなんですか。けど、それだと途中から一人になる豚飼いが危ない気が。私達がついていくわけにもいかないし」
「そこはね、私も気になったから聞いたんだよ。そうしたらね、豚飼いはしばらくの間、川のこっちの林で豚に餌を与えていいことになったんだと」
「はあ、なるほど」
林は領主の所有するもののため、庶民は勝手に狩猟をしてはいけない。それどころか、落ちているドングリを家畜に与えることさえ禁止されている。木の枝でさえ、勝手に拾うことは許されない。木は採薪権を有する者のみが収集や販売を許される。草も許可なく家畜に食べさせてはいけない。今回は、狼の脅威から市民を護るために、代官のリュシアンが一時的に許可を出したようだ。
豚の行列が門を出終えたので、三人は歩きだす。
「鋼のナイフを持ったアズと別れちゃったら、帰りの私達が狼に襲われちゃうね。自家製の槍でなんとかなるかしら」
瀉血ナイフを縛り付けた杖を手にしたエリザベートが冗談めかして言うと背後から門番が――。
「お前は声が大きいから二人分だ。うるさくしてれば狼だって近寄ってこない」
と軽口を叩いてきた。声の調子から察するに、狼が目撃されたとはいえまだそれほど深刻な事態ではないのかもしれない。
(普通の狼がこんな近くまで来る? 日中は人の気配がたくさんあるのに……。もしかして、悪魔憑きがヴァンと連絡を取ろうとして近寄っている?)
しかし、ヴァンには外部と連絡を取ろうとしている様子はない。
エリザベートの視線に気づいたヴァンがはにかむ。
「なんでしょう」
疑心暗鬼に捕らわれつつあるエリザベートと違い、ヴァンは屈託ない。
「んー。私の声が二人分でも、ヴァンが半分よね……って」
「ご、ごめんなさい。頑張って大きな声を出します」
「ん。冗談だから気にしないで」
幸い、この日お手製の槍が活躍することはなかった。
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