第六章 ヴァンが都市に受け入れられる日

第35話 夜警に3人の親方が揃う

 朝が来るとエリザベートはヴァンと一緒にパンとチーズの朝食を取った。前夜のわだかまりを持ち越したつもりはなくとも、何処となく気まずく、会話は少なかった。

 朝食後は新しい水瓶を使った最初の水汲みだ。


「道を覚えたから一人で行けます」


「狼が出たら大変でしょ。私も行くよ」


 ということで二人で出掛けた。

 もちろん、ヴァンを心配してのことだ。ヴァンが悪魔憑きと内通しているかもしれないから監視する……という意図はないとエリザベートは自分に言い聞かせた。

 日中の理髪外科医院は閑古鳥が鳴いた。

 その日の夜警にマリウスは来なかった。代わりにルネ親方が来た。また、ロシュも来ず、ギュイ親方が参加する。

 ルネはエリザベートに睨めつけるような黒い視線を向けると、無言でギュイと並んで歩きだす。すぐに大通りに出ると、彼らは左に折れた。


「あ。ルネさん。ギュイさん。いつも右に行ってます」


「だから、どうした。同じ方向ばかり見ていてもしょうがないだろう」


「ふん。女は碌なことを言わないな」


「あー。はい。すみません……」


 エリザベートは声だけ神妙にし、どうせ背後にいるから見えないだろうということで頭を下げずに謝った。

 ルネとギュイは、まるでエリザベートとヴァンを置き去りにしようとしているかの如く速歩だった。エリザベートは昨晩のヴァンの言葉が正しかったと認めたくない。


(マリウスが私達に配慮してゆっくり歩いていた? そんなことないでしょ!)


 エリザベートは男達に遅れることはない。しかし最も小柄で体力の劣るヴァンが遅れがちだった。


「ルネさん、ギュイさん。そんなに早く行ったら、路地の様子が分からないわ」


「ふん。城壁の中に狼なんているわけないだろう」


 吐き捨てるような言葉を聞いて、一つ腑に落ちた。


(ああ、やっぱり、そうか。ロシュさんの言っていたとおり。狼がいるかいないかなんて関係ないんだ。この人達は参事会役員の座が欲しいから、理髪職人組合も夜警で都市に貢献しているっていう事実が欲しいだけなんだ)


 エリザベートは歩く速度を落とし、ヴァンに並ぶ。そして、ヴァンの一歩後ろに下がる。


「ルネさん、ギュイさん。もう少しゆっくり歩いて。私の脚じゃついていくのが大変」


「ちっ。これだから女は。自分から勝手についてきておいて、ゆっくり歩けとは何事だ」


「ごめんなさい……」


「待ってください。遅れがちなのはボクです」


「いいのよ、ヴァン。私を庇ってくれなくても」


「徒弟に迷惑をかけてりゃ世話ねえな、エリザベート親方よぉ」


 ヴァンが何か言いかけたから、エリザベートは彼の手を強く握る。


「ほんと、仰るとおりです。面目ない」


「ちっ。女という生き物は男に迷惑をかけることしかできん」


「いや、ほんと、仰るとおり情けないです。ローマまで巡礼したことがあるので、脚には自信があったのですが、お二人の長い脚には及びません」


「ま、まあ、そうであろう」


 エリザベートを責める声から急に威勢が消えた。

 聖地巡礼をするためには村や街での生活を残して数ヶ月や数年がかりの旅に出る必要がある。旅は過酷で危険が伴うため、おいそれと行けるものではない。野盗や獣に襲われたり道に迷ったりする怖れもある。旅費が尽きたり道中で病気になったりして帰ってこられないことも多い。それ故に、信仰心を試す苦難を乗り越えた者は、敬意を払われる。

 エリザベートが、ローマで脚を怪我していたアンリの杖となりアイガ・モルタスにやってきたことはルネとギュイもよく知ることである。そのため、彼女がローマ教皇のお膝元に巡礼したことを疑うことはない。また、異端審問官が尋問調書を作成する際の書記としてラテン語の読み書きができる公証人を雇うことも、年配の彼らはよく知っている。

 つまり、ローマへ聖地巡礼するほど信仰心に厚く、ラテン語に知悉し異端審問官にも顔が利くエリザベートは、その気になれば罪状を捏造して密告して彼らが読めない言葉で調書を作成して投獄することができる。……と誤解されている。

 エリザベートはドミニコ会にもシトー会にも(異端審問官は両会の者が就任した)知り合いはいない。だから、他人を火刑台送りにすることなどできないのだが、ルネとギュイはそのことを知らず、危ない橋を渡るのを避けた。

 ルネとギュイは歩調を緩めて夜警を再開した。エリザベートとヴァンはあとを追う。

 途中で、城代リュシアン率いる夜警とすれ違った。


(なるほど。今日はリュシアンが夜警をすることを、ルネさんとギュイさんは知っていたのか。それで来たのかな……。いや、それは考えすぎか)


 その日、壁の外から狼の遠吠えは聞こえてきたが、他に事件は起こらなかった。

 ただ、鳴き声はさらに近づいてきているように思えた。

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