1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~
第30話 城代リュシアンがヴァンの調査にやってくる
第五章 都市に忍び寄る悪魔憑きの気配
第30話 城代リュシアンがヴァンの調査にやってくる
エリザベートとヴァンが組み立て式のテーブルを分解して部屋の隅に移動させていると、路地側のドアに提げた鈴が鳴った。
「ん。誰か来た」
エリザベートは小走りで隣室へ向かう。昼鐘は都市の外まで響き渡るのだから、昼休憩中であることは誰もが知っている。それにも拘わらずわざわざ昼時に来るのだから、急病人か怪我人かもしれない。
「どうかしましたかーって……。ああ……」
エリザベートはあからさまに声から張りをなくした。
「ごきげんよう。代官リュシアン様」
「ごきげんよう。エリザベート」
エリザベートはリュシアンの顔を失礼にならないよう素早く観察する。髪も髭も整っているから、理髪目的の客ではない。
手には細い革の袋を持っている。それは、馬具に取り付けることができ、丸めた獣皮紙を格納するのに適している。
「うちに手紙? それとも血でも抜きに来た? 貴方のならいっぱい抜いてあげるわよ」
「いや。今日はヴァンに用があって来た」
「うーん……。徒弟に用かあ……。うち、忙しいのよねえ……」
エリザベートが声を掛けるまでもなく、ヴァンは隣室からやってきた。
リュシアンは室内に一つだけある椅子を中庭の方に向けて座る。エリザベートとヴァンは棚を背にして彼の正面に立った。
「何処が忙しいんだ? お前の目には私の目に映らないものが映るのか?」
「ねえ、私がリュシアンの言葉を肯定して、『大勢の霊が集まっているの』なんて冗談を言ったら、異端審問に送られるじゃない。言葉の中に罠を仕掛けないでよ」
「私は都市の治安を護らなければならないのだから、そうせざるを得ない。ここにはどうにも厄介な市民がいるからな」
「はいはい。ちゃんと聖剣は持ってきているようね。良かった良かった。ヴァンの髪を切るつもりだから、本当にやることあるのよ?」
「問題ない。エリザベート親方の腕は確かだ。理髪に大した時間はかからないだろう」
いつもの軽口を応酬し終えるとリュシアンは会話の相手を変える。
「さて。今日はお前のことについて聞きに来た」
「はい。なんでしょうか」
「お前は何処の村から来た?」
「お昼の太陽の方から来ました」
「村の名は?」
ヴァンは「え?」と戸惑うと、口ごもり始める。
(……やっば! 私が呼んだことになっているから、私がヴァンの出身地を知っていて、かつ、彼も同じ村の名前を言わないといけない)
「あの、分かりません……」
(こらーっ! その答えは、駄目でしょ! 私が巡礼者か行商人に言づてを頼んであんたを呼んだことにするしかないんだから、村名が不明なのはまずいのよ! 正直に答えてよ!)
洞察力に優れたリュシアンを相手に嘘をつき続けたら、面倒ごとが増える可能性がある。エリザベートは観念した。
「ごめんなさい! 私、嘘ついてた!」
エリザベートは話の腰を折って発言権を奪うために、大きく頭を下げる。
「説明させて。理髪職人組合が、夜警に男を出さないと私のことを組合から追放するって言ってきたの。マリウスが上手く立ち回ったんだと思う。あいつは私と結婚してこの家を自分の物にしようとしてた。けど、それが上手くいかないから私を追いだして、親方の席を空けようとしたのよ。そんな状況で、ちょうどヴァンが都市の外からやってきたから、私の知り合いのフリをしてもらったの。彼は悪くない。全部、私がしたこと!」
エリザベートは頭を下げたまま、じっとした。怖くてリュシアンの顔を見られない。自分が何かしらの罰を追うのは構わないが、ヴァンにまで飛び火するのは避けたい。
しかし、予想外のことにリュシアンは大して気にしてもいないような口調で「そうか」と言った。
エリザベートが顔を上げると、確かに彼は、大きく感情を動かされたようには見えない。
リュシアンは指先で顎髭を搾る。
「お前の嘘は最初から分かっていた。お前は私に彼を、トゥールーズのヴァンと紹介したな。だが、ヴァンは、遠くから旅をしてきたようには見えなかった。杖も食糧も持っていないし、服に貝殻もつけていない(巡礼者ではない)。罪人でもジプシーでもないのなら、彼は近隣の村の出身だ」
「うぐう……。ヴァン……。代官様はすべてお見通しよ。話を合わせる必要はないから、君が何処から来たのか正直に言って……」
「ごめんなさい……。分かりません……」
「んー?」
「不思議ではあるまい。村の中から出ることなく生活していれば、自分の住む村の名前を聞くこともあるまい。しかし、交流のあった村の名前は聞くだろう。村の者が出掛ける先の名前は聞いたことあるか?」
「はい。それでしたら。ボクが住んでいた村の酒屋はトレソンの村にワインを買いに行っていました。羊飼いはアルルに羊毛を売りに行くと言っていました」
「村に司祭はいたか?」
「いえ。村に小さな礼拝堂はありましたけど、司祭様はいませんでした。ブロンテーユから来てくださっていました」
薄暗い室内で、窓を背にして座るリュシアンの眼差しが鋭く光を帯びる。
「ふむ……。となるとお前は、以前何処かで聞いたアイガ・モルタスの噂を頼りに山を下りて、昼の太陽とは逆方向へ進み、森を抜けて街道に出た。そこで出会った行商人か巡礼者に、ここへの道を聞いたな?」
「は、はい……。どうして、お分かりになるのでしょう……」
「お前が住んでいた村がオーケンだと分かったからだ。ここへ来る順路は限られている」
リュシアンは口にはしなかったが、橋の通行料を払ってローヌ川を渡る必要がある東側からヴァンが来た可能性は最初から捨ていていた。海が広がる南も同様だ。
「オーケン……。聞いたことがあるような気がします……」
「ヴァン。お前はここに来るとき、トレソンに寄ったな?」
「はい」
「そこで何か見なかったか?」
「分かりません。何かとは……何でしょうか」
「村人とは会ったか?」
「いえ……。知り合いがいないので誰とも会っていません。村の外れにある小礼拝堂の下で寝るために寄っただけです」
「人を見かけたか?」
「いえ。朝早く出たので、誰も見かけていません」
「そうか。知りたいことは以上だ。次にエリザベート」
「何よ。私にも何かあるの?」
「聖書の解釈について、ラテン語を話せるお前と話をしたい」
「ええぇ……。司祭様のところに行きなさいよ……」
「もちろんだ。司祭のところにも行く。お前からの意見も聞いておこうと思ってな。ヴァン。すまんな。聖書はラテン語で書かれているから、ラテン語で話す方が誤解が少ない」
「はい。お構いなく」
「退屈だったら中庭で豚ちゃんと遊んできていいよ」
「はい。では、邪魔にならないようボクは中庭に行きます」
ヴァンはぺこりと頭を下げて隣室へ消えた。
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