第31話 フォア伯領からの手紙

 小さな背中を見送ると、リュシアンはラテン語で話しだす。


「さて。先ずはこれに目を通してくれ」


 リュシアンは手にしていた革の袋から、一枚の獣皮紙を出す。


「フォア伯からの手紙だ」


「んー? なんでお隣の伯爵からの手紙なんて……。えっと……。はあ?」


 そこにはオック語で次のように書かれていた。


 ――神と聖霊に誓って。

 過日の人喰い狼の騒乱は貴公も承知のように、我が領内でも甚大な被害をもたらしました。しかしながら、その凶行の犯人は――そう! 私が『犯人』と記したように、狼ではなく人間なのであります!――いや悪魔憑きと申しましょう。

 神のご加護により運良く生き延びたまこと敬虔深き村人が申すに、悪魔憑きは人の首筋に食らいつき血を啜ったというのです。そして、ああ! おぞましきことに! あろうことか悪魔憑きどもは月の光に照らされると人狼に姿を変え、死体をむさぼり食ったというのです。

 生き残りは半ば狂気の淵に追いこまれておりましたが、それが申すには、人狼を率いていたのは黒い衣装に身を包んだ、赤く輝く瞳の女。

 我らは五百の勇気ある者で森狩りを行いましたが、我らに神のご加護があるのと同様に、奴らにも悪魔の加護があるため悪魔憑きを捕らえることは叶いませんでした。参加者の一人が言うには、二十頭からなる大きな狼の群れが東へ向かうのを目撃したとのこと。

 貴公の治める領土に侵入した怖れあり。十分警戒されたし。

 貴公の安寧を願う――。


 エリザベートは震える手で手紙をリュシアンに返す。


「なに、これ。……悪魔憑きの集団? 村人を全員食い殺すほどの人数がいるの?」


「人狼を率いていた女とは、お前ではあるまいな」


「私にそんな力はないって、あんたとその聖剣がよく知っているでしょ……。それに、私は黒い服なんて持ってない。まあ、夜中の目撃証言だから、黒い服を着ていたなんて証言は意味がないんだろうけど……」


「今朝、フォア方面に馬を飛ばして村落の様子を見てきた。ヴァンの出身村オーケンは、百名近い住民が全員死亡していた」


「え? フォア伯領を襲った集団がこっちに来て、ヴァンの故郷を襲ったの?」


「死体の損壊が著しく、何者による凶行かは断定できん。家畜も全滅だ。ワインや麦が残っていたから、野盗の襲撃とは考えにくい」


「そんな……」


「トレソンも似たような状況だが、違う点がある。人間の死体の損壊は著しいが、牛、羊、鶏などの家畜に被害がなかった。人狼が襲撃した可能性が高いだろう。狼なら家畜を襲うはずだからな」


「それは……。ちょっと待って、リュシアン」


 エリザベートは与えられた情報を整理して、村を襲ったのが人狼に変身する悪魔憑きか、狼のどちらかではなく、両方だと結論する。狼と悪魔憑きは食糧が競合しないため、共生があり得る。


「……つまり、村を襲った集団は二組? 悪魔憑きの集団がアイガ・モルタスに近づいてきていて、食い残しを狙って狼の群れがついてきている?」


「おそらくそうだろう。お前の言うように脅威は二組存在する可能性が高い。悪魔憑きの集団がアイガ・モルタスの付近にやってきた。人間の肉の味を覚えた狼を引き連れてな」


「なんでそんな話を私に……。って言わないで。……分かる」


 エリザベートは背筋に冷たいものが走り、呼吸が浅く短くなるのを感じた。

 ヴァンはオーケンを出てトレソンを経由し、アイガ・モルタスに来ている。両村はヴァンが発つのと同時期に、悪魔憑きに襲撃を受けている。

 考えられる可能性は二つ。ヴァンが手引きして悪魔憑きを村に招いたか、ただの偶然で、彼女は運良く村が襲撃される直前に移動していただけか。


(……ヴァンは無関係だ。あの子は、自分が育った村に悪魔憑きを招いておきながら、平然としていられる子じゃない……)


 共に過ごした短い日数でもエリザベートはヴァンの人となりを理解しているつもりだ。


「告解を聞く間もなく亡くなったが、トレソン唯一の生き残りは、俺が『何者の仕業か』と問うと、最後の力で『痩せた男が悪魔憑きを招いた』と答えた」


「それは……」


 ヴァンは女だから違う……とは言えない。エリザベートだって彼女を少年だと思った。


「城壁の中にいれば狼の脅威は防げる。群れのボスが潜む山や森さえ分かれば、人を揃えて包囲し狩れば良い。だが、悪魔憑きの集団はそうはいかん。見た目は人間と変わらんからな。都市に潜伏し、無辜の民を襲うだろう。三千人の中に紛れ込まれたら見つけだすのは至難の業だ」


「……」


「迂闊なことはするな。貴様は目を光らせているだけで良い。必要なら人を用意する」


 リュシアンは手にしていた獣皮紙を丸めて革の袋にしまうと席を立つ。


 エリザベートはリュシアンが駆る馬の蹄の音が聞こえなくなるまで、動けなかった。


(……どうしよう。リュシアンに言えなかった。ジュールさんも私もヴァンを占って『壁が崩壊して、繁栄に繋がる』という結果を得た……。それって、ヴァンが悪魔憑きの仲間で、壁を壊して仲間を呼びこむということ?)


 エリザベートは窓脇の壁に背を預け、脱力して崩れる。感情は嵐に吞まれた外套のように激しく揺さぶられるが、理性は避難場所を求めて既知の状況を整理していく。


(ヴァンは無関係という前提で考えよう。ヴァンがトレソンの礼拝堂で寝ていて死体に気づかなかったということは、血や肉の臭いがしなかったということ。トレソンは、彼女が出発した日の夜に襲われた。悪魔憑きが一日遅れてヴァンと同じ早さで歩いたとしても、もう、アイガ・モルタスの周囲にいる)


 悪魔憑きがアイガ・モルタスを無視して別に村に行ったのなら、そちらで犠牲が出るから手放しでは喜べないが、少なくともヴァンの疑いは晴れる。


(トレソンは五十人くらいの村よね。たった一日で全員が血を吸われた。カップ二杯の出血で人は死ぬから、百杯の血が飲まれた計算になる。一人で五杯も飲んだとすると二十人の人狼……。フォア伯の手紙にあった大きなオオカミの数と一致する)


 エリザベートは、悪魔憑き達がトレソンやオーケンを襲撃したように、アイガ・モルタスを武力で襲う可能性を考慮し、すぐにその考えを捨てる。


(悪魔憑きが日中に来ることはない。二十を超える集団が来たら兵士は警戒する。いくら悪魔憑きが人並み外れた力を持つといっても、弓兵が防御を固めた城壁に侵入することは不可能よね? だから悪魔憑きは見張りの兵士に見つからないよう、夜中にこっそりと侵入するはず。城壁を飛び越えることは無理。となると、彼らの協力者が夜中に内側から跳ね橋を降ろして城門を開ける……。もしくは建築途中の東側や南側の城壁をなんらかの手段で破壊する。……ヴァンがそんなことするとは思えないし、そもそも彼女はアイガ・モルタスの壁の一部が未完成だということを知らずに、ここに来てる。東側から侵入しろと仲間に伝える手段もない。あー。しまった。最近、都市に来たのが彼女だけなのか他にもいるのか、リュシアンに聞いておくべきだった。ヴァンだけが疑われているのか、他にも怪しい人物がいるのか……)


 しばらく考えに没頭していたエリザベートは、中庭から聞こえてくる子豚の鳴き声で現実世界に戻ってきた。

 彼女が中庭に出ると、ヴァンが子豚を太ももに乗せて背中を撫でていた。冬になれば解体してしまうのだから情が移ったらいけないのに、微笑みながら可愛がっている。

 とてもではないが、都市に悪魔憑きを招こうとしているようには見えない。

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