第26話 アイガ・モルタスをぐるっと一周する

「じゃ。夜警と同じ道順で一周するからね。昨日は暗くてよく見えなかったでしょ」


「はい」


 二人は並んで大通りを歩きだす。人通りが多いので、はぐれないように手を繋いだ。


「ここは『エミール・ゾラ大通り』。もしくは市場通り。間違いなく、昔、エミール・ゾラっていう人が住んでいたわね。お年寄りに聞けば分かるかも。左手にあるのが『塩の塔』。塩を売りに行く人がここを通るの。税を徴収する必要があるから、商人の荷車が通っていい門は決められているのよ。私達は何処を通ってもいいからね。右手にあるのがパン屋。昨日食べたパンは二つめのパン屋さん。明確な数は定められていないけど、食べきれないほどのパンを買うと処罰されるから。別の都市で、小麦が不作だった年に飢饉を見越してパンを買い占めた人がいたらしいけど死罪になったそうよ。パンを買えなかった人は生きていけないからね。都市によっては無許可で生地をこねたり焼いたりすることも犯罪だから気をつけてね。生地をこねて販売していいのは領主の妻だけだったり、焼くときに窯の使用税が必要だったりするから。アイガ・モルタスはどっちも自由」


 住んでいた村にパン屋がなかったので、その概念すら知らないヴァンは、エリザベートの語る内容を頭の中で処理しきれずに目を白黒させた。


「どうして親方は、他の街のことも知っているんですか?」


「んとね、外科医は巡回医ともいって、各地を転々として修行しながら定住地を探すの。私もそうしたから、外のことを知っているの。ローマで先代のアンリさんと出会ってアイガ・モルタスに来て、お家を相続したからここで暮らすようになりましたとさ」


「アンリさんはどんな方だったんですか?」


「優しいおじいちゃんよ。髭剃りの練習台になってくれたから、顎は歴戦の騎士みたいに傷だらけだったかな……。じゃ、どんどん進むよ」


 エリザベートはヴァンに、未知のものと出会って心を躍らせてほしいと思っているから、遠慮せずに思いつくまま喋る。


「パリなんかはお城を中心にして家を建てるから街が丸くなるの。そうしたら城壁も丸くなるの。それで城壁の外にも家が増えたらまた城壁を造るから、城壁が何枚もあるのよ。けど、アイガ・モルタスは最初から計画を立てて家を建てているから、城壁が綺麗な長方形。右手は、服屋、服屋、服屋。同業組合で集まっている通りね。服を買ったり売ったりします。生地だけを売ったり買ったりするところもあります」


 二人は大通りの終点に到達した。ここは都市の東北端に位置する。


「はい、突き当たって『新しい町の塔』。アイガ・モルタスの家々が西から東に広がっていったのが分かる名前ね。右に曲がって南へ向かうよ。ここを右にちょっと行くと修道院があります。修道士とすれ違うときは道を譲って、こうやって腕を曲げて、手を組んで頭を下げるように」


 エリザベートは説明しながら腕を曲げて手を組んだ。その腕の形が似ているから、手に鎌を持つ昆虫は、異国では拝み虫やカマキリと呼ばれ、この地では『マント・ルリジューズ(修道士の外套)』と名付けられている。


「女性はみんなそうするし、修行の妨げになったらいけないから可能な限り修道士には近寄らないようにするの。ほら。葦屋はこの先にあるけど、昨日はここを通らなかったでしょ?」


「あの。どうして修行の妨げになるんですか?」


「えー。だって、私みたいな美人がいたら、『あの精霊のように美しい女性は誰だろう』『聖母マリアの生まれ変わりではないだろうか』と私のことばかり考えちゃうでしょ。まあ、それは冗談。知識や財を蓄える修道院と違って、質素に暮らして、知識を市民に与えて都市の発展に貢献する素敵な修道会よ。尊敬して接しましょう」


「はい。ボクはこの街に来る途中で、修道士様からパンを頂きました。とても嬉しかったです」


「ん。感謝、感謝ね。……さて、ここを右に行って三件くらい行くと昨日夜警でご一緒したロシュさんが働くギュイさんの理髪店があるけど、スルーして進みましょう。左手の壁はまだ建造中です。だから、高さは半分しかありません。でも、私の背より高いし、狼だってここを越えて侵入するのは不可能。ほら、塔の上に車があるでしょ。木を組んで作った丸いやつ。あの輪っかの中に人が入って歩いて、吊るした紐を巻き上げて、石を高い所に運ぶのよ。家にいても聞こえてくるコーンコーンという音は、この壁の向こうで石を割っている音よ」


 二人は南東端に建つ『粉の塔』に到着した。


「今、私の家と対角の位置に来ているけど、頭の中で地図を描けてる? この街を上から見下ろしたら私の家が左上で、今は右下にいるからね?」


「はい。大丈夫です」


「昨日来た葦屋を通り過ぎてちょっと進んで、この辺りは沼で猟をする人や塩田で働く人が住んでるわ。壁の向こうは海と砂浜と陸地とラグーン。塩湖のときもあれば海のときもあります。潮の満ち引きで変わるのね。危ないからあまり近づかないように。溺れたら死んじゃうから」


「はい。気をつけます」


「漁師がたくさん出入りするから南の城壁は門が多いのよ。ほら、ここを右に行くと今朝お魚をくれた髭もじゃジャン達がいたところね」


 二人は進み、豚飼いの住む家の前を通りかかり、昨晩ロシュが捨てたサクランボの種がなくなっているのが分かり笑った。


「豚さんが綺麗に食べてくれました」


「ねー。けっこうたくさん捨ててたけど、豚さんには全然足りなかったはずよ」


 それから真っ直ぐ進み、南西端に辿り着く。


「最後が東側。見どころが多いから、一本手前の道を行きましょう。途中から変な臭いがするけど気にしないように。右手が、帽子屋に糸屋に鞄屋。左手が私の仕事に関係しているところね。ここは羊皮紙屋。隣が金物屋。さらに隣が研ぎ屋。ここでハサミとか瀉血ナイフとか研いでもらいます」


 羊皮紙工房の前を通ると、動物の皮からそぎ落とした脂肪や、石灰水に浸けられた皮の臭いが鼻を突く。城壁が風を遮るので臭いは滞留しやすい。


「反対のこっちはワイン屋。理由は声を大きくして言うわけにはまいりませんが、南から歩いてくると、これが、すごーく、いい匂いなんです。欲しくなっちゃうね」


 二人が北上を続けると、広い空き地が現れる。地面は草で覆われていて、トネリコの木が壁のように並び、市民が木陰に座っている。


「ここは市民の憩いの場。お散歩したりペタンクしたりします。ペタンク知ってる? まん丸に削った木の球を投げてぶつけるの。ここは、アイガ・モルタスを造った聖王ルイの名前を貰って、聖王ルイ広場よ。十字軍に向かった兵士はここに整列したのかも」


「十字軍ってなんですか?」


「あー。知らなくても困らないわ。聖王ルイの名前だけ覚えておいて。何代か前の、フランスの王様。キリスト教世界のために戦った偉大な御方よ。井戸があって誰でも水を使っていいけど、あまりオススメしないかな。ここは海が近いから地下水に不純物が多く混ざっているの。そして、こっちの建物が教会。お祈りしに来てもいいし、人に知られたくない悩みがあったら司祭様に相談しに来るのもいいわ。いつも鳴って私の眠りを妨げる鐘は、ここの鐘楼にあるの」


 耳を塞ぎながら鐘楼を見上げて睨むエリザベートだが、ちょうど扉が開いて中から司祭が出てきたので一瞬で面貌を敬虔なカトリック教徒に変え、手を組んで頭を下げる。そして、司祭にヴァンを紹介した。

 その後、穀物市場と造幣所の前を通り過ぎ、何度か水汲みに行って帰ってこられるほどの時間を費やし、二人は『自由通り』に戻ってきた。

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