第25話 ヴァンを街案内に連れだす

 エリザベートは普段と違って水瓶を頭に載せておらず、見上げることができたからか、外から眺める城門は普段より険しく威圧的に見えた。

 城壁の上には防御櫓が建てられる予定だが、現時点では櫓の床を支える柱を通すための口が胸壁の下に空いているのみだ。だが、防備は固い。扉手前の門番だけでなく、側防塔の上にいる兵士が遠くを見張っているため、仮に狼の群れが殺到したとしても、侵入は不可能。兵士は矢を射るし、警戒鐘を鳴らせば城代リュシアンや彼の部下が武装して集まる。狼の爪や牙は騎士の甲冑を貫くことはできない。

 水堀に掛けられた跳ね橋を越えると、扉の上に落とし格子が吊されているのが見える。格子状に組まれた木材が金属で補強されており、その下部は尖った大釘になっている。城門内から操作すればこの落とし格子が即座に落下し、侵入者を阻む。運が悪ければ大釘に串刺しにされるだろう。

 けど、それは相手が、普通の狼だった場合だ。

 もし――。

 そこまで考えたところで城門に入ったので、エリザベートは考えるのをやめた。

 門番には「川に落ちた私を助けるために、兵士が濡れてしまったから、着替えを持っていってあげてほしい」ことと「重い鎖帷子で川面に顔を近づけて水を飲むのは危険だから、何か対策した方が良いかもしれない」ことを伝えた。

 都市に入ってから狼のことは考えないようにして、家に帰った。


「さ。濡れた服を着替えましょう。ヴァンは昨日まで着ていた服に着替えて」


「はい」


「昨日の服、早いうちに洗濯しておけば良かったね」


「いえ。大丈夫です」


 エリザベートは二階に行って、亜麻布の赤いドレスとエプロンと、ヴァンの服を屋根の上に干した。

 屋根は木の骨組みに長くて固い葦を渡し、その上に短い葦を葺いて縛ってある。釘で固定しておらず、かすがいをかけているだけなので屋根は簡単に外せる。

 エリザベートは羊毛フェルトのチュニックを着てスカートを穿いた。南国で着るには温かすぎる北国の服だが、服は他にないので、しょうがない。

 二人は一階に下りた。すぐにヴァンがしょんぼりしているのが分かった。水瓶を割ったことを気にしているのだろう。


「あ、そうだ。これから仕事中は私のこと、親方って呼んで」


「はい。分かりました」


「つまりね、徒弟の失敗は親方の責任だから、気にしないでってこと」


「……ありがとうございます」


「はい。じゃ、これから新しい水瓶を買いに行くよ。徒弟ヴァン。荷物運びの仕事を与えるから、ついてきなさい。ついでに街を案内してあげる」


「はい。エリザベート親方」


「んー。いいわね。初めて親方って呼ばれたかも。ロシュさんやマリウスだって私のことはエリザベート親方って呼ばないといけないのに、年下の女だからって、呼んでくれないのよ。ほんと、男ってつまらないプライドを張るの」


 エリザベートは、心を軽くしたくて弾むように路地に出る。路地は仕事へ向かう人や、水汲みやワイン売りや薪売りが歩き、人通りはそこそこ。


「同職の男は私のことを侮ってくれますが、ご近所さんには非常に恵まれました」


 エリザベートは、右手で右側の建物を指し示す。


「右は美味しい食べ物をくれるギュスターヴさんのお家。料理人とかいう謎の職人を自称していますが、実態はパンの品質管理人です。製粉職人やパン職人のところを訪ねて小麦からパンまで品質を確かめています。飯の煮炊きという仕事を失った夫人は編み物をする時間が長く、腕前は達人です」


 右側の建物の前で敷いたゴザに寝転がっていたギュスターヴは、エリザベートによる紹介を最後まで黙って聞き終えると、大きな欠伸をした。それから、眠たげな瞳でヴァンを見上げると、エリザベートを顎で差し、気の抜けた声を出す。


「こいつは隙さえあれば男の髭を剃ろうとする、おかしなヤツだ」


「ヴァン。聞いた? 美味しい料理を作る腕と舌を持つ彼も、このように日中は妄言を口にします」


「は、はい……。ギュスターヴさんは太陽の下で見ると、顎がスッキリしていて素敵です……」


 エリザベートは、左手で左側の建物を指し示す。


「左は昨晩、ヴァンを占ってくれたジュールさんのお家。彼はとても物知りな薬剤師です。腫れ物ができたときやお腹が痛いときはお薬を貰います。うちで使っている傷口に塗る軟膏は、彼に作ってもらってます。ほら。太陽の位置を覚えておくと、いつハーブを植えて、いつ収穫すればいいのかが分かるから、良いお薬ができるのよ」


 エリザベートが説明をしていると、家のドアが軋んだ音を立てて開き、ジュールが眠いのかそうでないのか分からない細い目の顔を出す。


「彼女は隙さえあれば男の髭を剃ろうとする、厄介な女です」


 どうやら、家の中でギュスターヴとの会話を聞いていたようだ。


「星を見る目は確かな彼も、日中はこのように妄言を口にします」


「は、はい……。ジュールさんは太陽の下で見ると、顎がスッキリしていて素敵です……」


「ヴァン。先ずは両隣のことはしっかり覚えてね。私達が困っていたら助けてくれるし、逆に彼らが困っていたら助けるの。髭が伸びてきたら、剃りますよって声をかけるの。いい?」


「はい。分かりました」


「じゃ、街を案内するから、ついてきて」


 エリザベートは両隣に頭を下げると、ヴァンを連れて西へ向かう。

 家の連なりが終わるところで彼女は足を止め、外壁にかけられた青銅のプレートを指さす。


「ヴァン。一応聞くけど、文字は読める?」


「読めません」とヴァンは首を横に振る。


「これは『自由通り』。私達が住んでいる通りの名前。覚えておいて。迷子になっても街中歩き回れば帰ってこれるけど、通りの名前を人に聞けば帰ってこれるからね。基本的に、すべての通りに名前があるから」


「分かりました。文字が読めるなんて、エリザベート親方は凄いです」


「そうよ。凄いから敬うように」


 ヴァンは「はい」と雛鳥のように瞳を輝かせた。


「素直だなー。街でも文字を読めない人が大半だから、気にしないでいいからね」


「……え? なら、どうして板に通りの名前が貼ってあるんですか?」


「お。いい着眼点。これは私達のためというより、役人や教会が何処に住む誰からどれだけ税を徴収するか管理するための印ね。『自由通り』五番地の理髪外科医エリザベートから、今月の税として二十ドゥニエを徴収した~って記録するの」


「エリザベート親方はなんでも知っていて凄いです……。それに比べてボクは……」


「褒めてくれるのは嬉しいけど、知識なんて人それぞれよ。今私が言ったことは、都市に住んでいればそのうち嫌でも覚えることだし、お隣のジュールさんの受け売りだって多いし。それに、ヴァンは私よりも畑や羊飼いについて詳しいでしょ」


「はい」


「それに、キャベツ作りに詳しい」


「もちろんです! 農具の扱いには慣れています。どんな荒れ地でも耕してキャベツ畑にしてみせます」


「ん。畑仕事に自信たっぷりなところ、いいよ」


「ありがとうございます。早く子供を作りましょう。ボクがたくさん種を蒔きます!」


「あっ……! そういうことはあまり大きな声で言わないでね。別の意味に誤解されるから……」


 エリザベートは周囲をキョロキョロ見渡した。通りすがりの水汲みとワイン売りが、さっと視線を逸らした。

 エリザベートはヴァンの手を引き、逃げるように加速する。

 そして最初の目的地へやってきた。


「ここが、最初にヴァンが入ってきた『ガルデットの門』。さっき水汲みをするときにも通ったから、もう迷わずに来れるよね?」


「はい」


「外から見るとこの門が一番立派ね。多分、最初の方に作ったから石がいっぱいあったんだよ。他の城門や塔にも全部、名前が付いているから少しずつ覚えて」


「はい、親方」


「そこの角にある大きな館が、リュシアンの住んでいるところ。私がいないときに何かあったら頼るように」


「分かりました。もしエリザベート親方に何かあったときは、リュシアン様を頼ります」


「彼がいつもしかめっ面をしているのは、フランスの北部と違って南部がバターよりも油で料理するからよ。朝食で食べた魚が口に合わなくてあんな顔しているの。ね、門番さん、そうでしょ?」


 エリザベートが話を振ると若い門番は「滅多なことを言うな」と城代に忠誠心を示すが、口元は僅かに緩んでいた。パリ出身のリュシアンがアイガ・モルタスの誰とも異なる雰囲気を纏っていることを、都市民なら誰でも感じている。


「それはそうとエリザベート。川の兵士には着替えを送っておいた。小間使いでも送ったらどうかとリュシアン様に伝えておいたぞ」


「ん。ありがと」


 エリザベートが笑顔で門番に手を振ると、彼の頬が僅かに紅潮した。エリザベートはリュシアンよりもさらに北方の民族の血が流れるため、外国人の多い港町多いアイガ・モルタスにおいても、その容貌は異質な魅力となって異性の目と心を奪う。

 エリザベートは若い異性からの人気は高い。だが、彼女に恋心を抱く男は、少しでも整った顔を見せたいから別の理髪店に行き髭を剃る。

 私に髭を剃らせろと思っているエリザベートと、中途半端に伸びた髭面を見せたくない男が交わることはない。

 結局、たった今ファンは増えたが、未来のお客様候補は一人減った。

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