第24話 川で兵士を助ける

 水汲み場に着くと、若い兵士が一人立っていた。門番が言っていた見張りだろう。朝早いため生あくびをしているが、鎖帷子を纏い、槍と盾で武装した兵士が立っているのは非常に心強い。

 先日会った壮齢の女性が、先に水を汲んでいた。


「おはようございます。ソフィアさん」


「おはよう。エリザベート。あら。今日は一人じゃないのね」


「はい。彼は昨日からうちで働くことになった――」


「ヴァンです。昨日からエリザベートさんの理髪店で徒弟をすることになった男です」


(こらこら。男ですっていう自己紹介は変でしょ。あとで指摘しておかないと)


「へえ。徒弟。それで水汲みね。できるかしらね」


「ほんと、そう。ほら、ヴァン。水を汲んだ瓶をそこの岩に乗せて」


「はい。うっ……」


 ヴァンは水を汲んだが、瓶を胸の高さまで上げることができない。


「あー。ほらほら。腕の力で持つんじゃなくて、腰を落とす。瓶を持つ。脚を伸ばす。脚の力で持つの」


「は、はい!」


 ヴァンはふらつきながら水瓶を持ち上げる。落とされても困るので、エリザベートは手を貸す。


「ほーら、ヴァン。慣れるまでは水の量を減らして往復しましょ」


「はい……。エリザベートさんはいつも水はどうしているんですか?」


「満タンよ」


「え? これを持って帰っているんですか?」


「ん。そうよ」


「そんなことが……」


「慣れよ。慣れ。兵士様の鎖を編んだ服は満タンの水瓶と同じくらい重いよ。そんなのを着て、ここまで歩いてきいるんだから――」


 ねえ、兵士様――と振り返るのと同時に、大きな水の音がした。

 何かが落ちた。見れば、さっきまでそこにいた兵士がいない。

 エリザベートは瞬時に状況を理解した。兵士は顔を洗おうとしたのか水を飲もうとしたのか、何かしらの理由で川縁に近づき、落ちたのだ。

 エリザベートは駆けだし、案の定、下半身を川縁に残して上半身が沈んだ兵士を見つけた。

 兵士は自重で上半身を起こすことができないらしく、脚をばたつかせている。平地であれば起き上がれるのかもしれないが、中途半端に腰が高い位置にあるせいで体勢を直せないようだ。


「引き上げる! じっとして!」


 脚を掴むのは無理と判断したエリザベートは杖を放ると、川に飛びこみ、兵士の上半身を持ち上げる。

 兵士の顔が水面上に出た。しかし、そこまでだ。水中から上げて急激に重くなって動かせなくなる。


「助けるから、暴れないで。聖ルカに誓って見捨てないから! 水を飲んで苦しくても我慢して、じっとして。私を掴もうとしないで!」


「ごほっごほっ」


 何かが割れる音がした。高価な物が割れたのだと理解したが、人命とは比べものにならない。

 すぐにヴァンが飛びこんできた。


「一緒に支えて」


「はい」


「ねえ。ここ、私の膝丈くらいなんだけど、兵士さん、手を伸ばして水底に届かない? 踏ん張って。ソフィアさん。私の杖を、取って!」


「は、はい! はいよ!」


 兵士の横に落ちていた杖をソフィアが拾い、エリザベートに渡す。

 エリザベートは杖を立てて、川底に突き刺す。


「兵士さん掴まって」


 兵士は杖を掴み、自らの腕力で体を上げ始めた。エリザベートとヴァンは兵士の体を支えて補助する。


「貴方が掴まっているのは、敬虔なるアンリ・ド・トゥールーズの聖地ローマへの巡礼を支え、一緒に帰ってきた杖よ。だから、絶対に折れない。貴方は助かるから。先ずは呼吸を整えて」


「ごほっ、ごほっ……がはっ……はっはっ……」


「はい。水を吐かなくなった。呼吸は辛いけど死なないから。すぐ楽になる」


「ごほっ、ごほっ……!」


「大丈夫?」


「あ、ああ……!」


「じゃあ、合図したら息を止めて。脚を引っ張って川岸に上げるから。上半身が沈んでも気にせずに、水底に手が付いたら押してね?」


「わ、分かった。頼む」


「ヴァン。川から出て、ソフィアさんと一緒に脚を引っ張って。私は肩を持ち上げて押すから」


「はい!」


「じゃ、みんないいわね。トロワで行くよ。アン、ドゥ、トロワ!」


 エリザベートが肩を持ち上げながら押し、ヴァンとソフィアが脚を引き、兵士が川底を手で目一杯押す。四人の力が上手く重なり、兵士の体が鳩尾の辺りまで川辺に出た。

 あとは兵士が身を捻れば、完全に地上に戻ることができた。

 エリザベートは息を整える間を惜しんで、うつぶせになった兵士の顔を覗きこむ。


「はあ……良かったあ……。無事?」


「はあっ、はあっ……。無事ではないかもしれない。精霊が見える。ここは川の底か……」


「私の美しさが分かるなら、貴方は無事ということよ。ねえ、その状態で回復できる? ひっくり返した方がいい? 鎧を脱がした方が良い?」


「大丈夫……はあはあ……このまま……ふー。ふー」


 兵士の命に別状はないようだ。呼吸も落ちつき始めている。

 エリザベートは自分の胸元に手を入れて、命の次に大事な印章があることを確かめた。


(はー。良かった。落としてない。川に落としてたら、探すの大変だ……)


 エリザベートは岩に飛び乗って腰掛ける。紐を解いて革靴を脱ぎ、中の水を出す。

 エプロンを外して絞ると岩に掛けた。スカートと袖は手で絞る。異性がいる場ではさすがに裸になるのは躊躇われる。

 ちらっと見れば、ヴァンも革靴を脱いで水を出していた。

 エリザベートは靴を履くと岩から降りて、まだ靴紐を結べないヴァンを手伝った。

 しばらくしたら、兵士は体力が回復したらしく、立ちあがった。


「ありがとう。三人とも。貴方達は命の恩人だ」


「私はほとんど何もしていないから。助けたのはエリザベートとヴァンだよ」


「そんなことないですよ。私とヴァンだけじゃ無理だったわ」


「ヴァン殿。エリザベート嬢。水瓶を割らせてしまった。すまない」


 水瓶の破片を集めていたヴァンはエリザベートを見上げて、泣きそうな顔をする。


「ごめんなさい……。慌てて落としてしまいました」


「いや、君は悪くない。俺の責任だ。川向こうに何かいたような気がして、そっちばかり気にしていて足下をまったく見ていなかった。俺の不注意だ……」


「いやいや。むしろ兵士様は任務に忠実でお疲れ様です。私は普段水汲みをしていて濡れた川縁が滑りやすいってことを知っていたから、初めて川辺で任務に就く兵士様に教えるべきだった。それに気づけなかったことは、悪かったと言えば悪かったし……。割れちゃったものはしょうがない。それよりも、兵士様にはもう川縁に近寄らないことにしてもらうとして、濡れたままだと風邪をひくよね。着替えを持ってくるように門番さんに伝えておきますね。あと、水を飲みたくなったとき大変だから、そのことも言っておく」


「何から何まで本当にすまない……。俺はマルクだ。代わりの水瓶を届けるから家を教えてくれ」


「人助けをしただけなんだから、弁償なんていいわよ。……あ。そうだ。代わりにうちを贔屓にしてよ。『自由通り』にあるトゥールーズ理髪外科医院。仲間にも紹介して。素敵な少女がお店で待っているって」


「分かった。この髭に誓って、君の店に行くよ」


「その髭を剃らせろって言ってるんだから、誓わないでよ」


「はははっ。これはしてやられた」


 兵士が笑いだすと、ヴァンとソフィアも控えめに笑った。

 ソフィアが帰り、エリザベートはヴァンと一緒に穴を掘って水瓶の破片を埋めてから帰路についた。

 水で満ちた瓶を持っていないから周囲を見渡す余裕ができたのか、エリザベートの目に帰路の様相は大きく変わって見えた。

 ラバに曳かれた荷馬車や、空の水瓶を持った女とすれ違う。遠くの農家から乳を搾られた牛の鳴き声が聞こえ、そちらを見れば木の柵に覆われた場所に何頭かの羊がいた。普段のエリザベートは正面から来る荷馬車を避けることと、轍を踏まないこととばかり気にしていたので、まったく周囲を見ていなかった。

 農家と道の間にある畑では農夫が仕事を始めている。くび木によって繋がった一組の牛の綱を農夫が引き、鋤を曳かせて土を耕している。

 エリザベートが気にも留めなかっただけで、長閑な景色は毎日繰り返されているのだろう。都市内よりも時がゆっくりと流れている気さえしてくる。水難事故を目の当たりにして緊張した心がほぐれていく。

 しかし、道の脇に生えたサンザシの棘のように、不意にエリザベートの胸をチクリと刺すものがあった。


(……ん? 昨日、ヴァンはこの道で狼に追われていた?)


 エリザベートは改めて周囲を観察する。


(ヴァンがこの道を真っ直ぐ逃げたのは分かる。左右に植えられた葡萄やオリーブの灌木が壁みたいになっているし、正面に城壁が見えるから、誰だって助かりたかったら真っ直ぐ進む。けど……)


 耳を澄ますと背後の遠くから、斧で木を切る甲高い音が聞こえてくる。川向こうの森に暮らす木こりか炭焼き職人だろう。その音に負けじと、左手から羊の鳴き声も届く。


(あっちに羊がいるのに狼はヴァンを追いかけたのよね……。痩せ細ったヴァンの方が、羊よりも弱い獲物に見えた? 城壁に近づけば、槍や剣を持った門番がいるのに、狼はヴァンに執着していた。ヴァンが着ていた豚皮の服が美味しそうだった?)


 エリザベートは顔を上げて前を見る。

 城壁まで遠矢ほどの隔たりがある。


(これだけの距離があれば、ヴァンの息が切れて足が遅くなったときに、狼が足首に噛みついて彼を転倒させたら終わりよね……。なんでヴァンは無事だったの?)


 考え事をしていると、正面から二人組の女がやってきた。


「狼も悪魔憑きも壁の中にまでは入ってこられないでしょうけど、水汲みの時は襲われるかもしれないわ」


「ええ。水汲み場を護っている兵士のところへ急ぎましょう」


 狼の恐怖が広まりつつあるが、女達は城壁から出てこの道を北に向かって水汲みへ行くしかない。都市の西へ行けば川は近いが、染織工房や皮革工房や肉屋などからの排水によって、汚染されている。かといって、都市内の井戸は数が少ないし、海が近いため水質が悪い。

 女達とすれ違ってしばらくすると、耳のいいエリザベートには背後の会話が聞こえてきた。


「ねえ、今の、見たことある?」


「ええ。昨日、門の前でリュシアン様と言いあっていたわね。たまにすれ違うわ」


「そっちじゃなくて小さい方。見たことないわ。悪魔憑きじゃないの?」


「移住者よ。昨日リュシアン様が素性を改めて、悪魔憑きでも異端教徒でもないって言っていたわよ」


「それなら安心だけど……。でも、あの女も昔、悪魔憑きだって噂が流れてなかった?」


 聞こえないフリをしてエリザベートは歩き続ける。隣のヴァンの様子を窺うと平然としいるから聞こえていなかったようだ。


(……あっぶな。ヴァンが悪魔憑きの疑惑をかけられてた。昨日『ガルデットの門』の前でちょっとした騒ぎになったおかげで、逆に疑いが晴れたのか……。私もまだ新参者だし、気をつけないと。それにしても、ヴァンが悪魔憑きか……)


 頭の回転が速いエリザベートは、この時ばかりは自分の閃きを後悔することになる。


(ヴァンは悪魔憑きじゃない。リュシアンが聖剣で判別したから間違いない。でも、悪魔憑きの仲間だったら? 悪魔憑きがアイガ・モルタスに侵入しようとするなら人間を先に送りこんで、内側から城壁の扉を開けさせる……。兵士の目を欺くために、悪魔憑きが狼のフリをしてヴァンを襲っていた? それだったら彼女が追いつかれずに逃げ切れて当然……)


 考えすぎだ。エリザベートは湧きかけた疑念を振り払うように首を振った。

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