1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~
第23話 エリザベートとヴァンは二人で水汲みに行く
第23話 エリザベートとヴァンは二人で水汲みに行く
朝食を終えれば日課の水汲みだ。
「じゃ、水を汲みに行ってくるからお留守番してて」
「手伝います」
「嬉しいんだけど、水瓶を頭に乗せて運ぶから一人でやるお仕事なのよね」
「水汲み場を教えてください。村にいたときは毎日水汲みをしていたからできます。今日からボクが水を汲みます」
「うーん。でも、悲しいことに水汲みは女の仕事なんだよね……。ヴァンには男として振る舞ってもらうから……」
「問題ありません。ボクはトゥールーズ理髪外科医院の徒弟です。親方の命令で水を汲みに行きます」
「あ。そっか。私の旦那様じゃなくて、徒弟なら水汲みに行かせてもいいのか……。私、朝弱いからヴァンが手伝ってくれると凄く助かるんだけど、大変よ?」
「お願いします。働かせてください」
「うちの水瓶、凄く大きいの知ってるでしょ? 往復したくないから、一度にたくさん水を汲むんだけど、凄く重いよ?」
「頑張ります」
「そっか……。じゃあ二人ともいなくなったらアズが来たときに困るから、少ししてから出発しましょう。彼が来たらすぐに預けられるよう、大きい方をこっちに連れてくるわ」
「豚のことなら任せてください。ボクが連れてきます」
「そう? じゃ、お願い」
得意な仕事を貰ったことが嬉しいのか、ヴァンは弾むように隣室へ消えた。
やがて中庭から――。
「君じゃなくて……。こっち。こっち来て。わあああっ。君じゃないから。そっちの君だけ来て!」
どうやら農村の豚とは勝手が違うようだ。目的の一頭だけ部屋に通すのが難しいのだろう。かつてエリザベートも苦労した。
「ヴァン。コツを教えるわ。その子達は群れじゃなくて、バラバラに買われてきた子達だから、多分、ヴァンが知っている豚とちょっと違うの。同じおっぱいを吸った兄弟じゃないから」
エリザベートも中庭に出た。
「どうすればいいんですか?」
「ここにはお母さんもボス雄もいないの。でっかい子供と小っちゃい子供だけ。好奇心旺盛なの。だから興味を惹いちゃ駄目。目を合わせずに、君達に興味なんてないよって顔をしてゆっくり近づいて、そっとお尻を押すの」
エリザベートは実践し、ヴァンに手本を見せた。
「明日は頑張ります」
そうこうしている間にアズが豚の群れを連れて路地前にやってきたので、豚を彼に預けた。
「じゃ、ヴァンはこれを袖の中にしまって持ってって」
エリザベートは棚からハサミを取り、ヴァンに渡す。
「これは、エリザベートさんの仕事道具ですよね?」
「うん。もし狼に襲われたときはそれでぶっ刺して。私は、これ」
エリザベートが手にするのは、アンリが遺した杖の先端に瀉血ナイフを縛り付けたお手製の槍だ。
「昨日リュシアンが城壁の周りを捜索したはずだし、狼は川の向こうに逃げたと思うけど、念のために、ね」
エリザベートは水瓶を店舗の外に出す。それから、ヴァンの頭にクッションを挟んで水瓶を乗せる。
「大丈夫? 重くない?」
「はい。大丈夫です」
エリザベートはドアに鍵をかけると、二人で並んで歩きだした。
方向が同じなので二人は豚の行列についていく。既に三十か四十か、簡単には数えられないほどいるが、先々で家のドアが開くと、群れの数は増えていく。
仲間を加えながら進む豚の動きは遅いから、次第に二人は行列の隙間を縫って進み、やがて先頭のアズに追いつく。
「ねえ、アズ。最近、狼が出るって聞くけど、豚は大丈夫なの?」
「今のところは大丈夫ですね。群れで襲ってきたら大変だけど、一頭や二頭なら犬が追い払ってくれます。それに狼は人間を恐れるから、僕がいる限り近寄ってきませんよ」
「えっと……。言いにくいんだけど……。うちで働くことになったヴァンが、昨日、城門の中から手を伸ばせば届くような位置で、狼に襲われたのよ」
「え? 狼がこんなところまで? よく無事でしたね」
アズが目を見開き、ヴァンを見つめる。
ヴァンはほぼ初対面の相手に緊張したのか、視線を逸らす。
「門番の兵士様が追い払ってくださったので……」
「なるほど。それにしても、城門の近くまで狼が来るなんて……」
「ねえ、アズは狼に襲われたとき、もし犬がいなかったらどうするの?」
エリザベートはアズの身を案じて質問した。しかし、アズは彼女が預けている豚の心配をしているのだろうと勘違いして返事をする。
「これで戦いますよ」
アズは右の棍棒を掲げ、左手で腰に提げた皮剥用のナイフを叩く。その際にハンドベルが鳴り、後方でアラン犬が、自分も戦うぞ、とばかりにワンと吠えた。
「僕は豚飼いをやっているけど、じいちゃんは羊飼いだったから、狼の危険性や戦い方は嫌と言うほど聞かされています。エリザベートは、羊飼いは何が得意だと思いますか?」
「え? 羊を飼うことでしょ?」
「違いますよ」とアズが答えると、ヴァンが怖ず怖ずと「あの」と口を挟むための間を作る。
「羊飼いが得意なのは、狼と戦うことですよね」
「はい。そのとおりです。羊は大人しい生き物ですからね。草を食べさせに行くだけなら子供でもできます。では何故大人が羊飼いをするのかというと、狼に襲われたときに撃退するためです」
豚飼いが気負った様子もなく言うから、理髪外科医は新たに湧いた疑問を投げる。
「棍棒やナイフだけじゃ叶わないくらい大勢の狼が襲ってきたらどうするの?」
「基本的に狼は大人の豚を襲いません。豚の黒くて厚い毛皮は狼の牙を通さないからです。狼は賢いので、豚の群れを襲うくらいなら羊や雌の鹿を探します。ただ、僕が今連れているような春の若い豚は、もしかしたら襲われるかもしれません」
「うん。何か対策はあるの?」
「ええ。狼は獲物の群れからはぐれた弱者を襲います。ですから、豚の中から預かっているものではなく、私が所有している豚を狼の群れに渡します。足首の腱を切って走れなくした豚を残して、他の豚を逃がします。ただ、これは本当にどうにもならなくなったときの最終手段です。一度でも餌を与えると、狼は人間に近づいたら餌が貰えると学習してしまいますから」
そう話しているうちに城門に到着した。
アズが豚を引き連れて扉を潜っていく。
エリザベートとヴァンは特に頼まれたわけでもないが、気分屋の豚が群れからはぐれていかないように、城壁内で列を見守る。
「街の様子……。昨日と違いましたね」
「そう? 狼が出るようになったからかなあ」
「兵士様とアズさんとしか会いませんでした」
「あー。それか。単に時間の違いよ。早朝はいつもこんな感じ。今の時期に、陽が昇りきる前の早い時間から働いているのは、豚飼いか、水汲みくらいかなあ。汚物回収や清掃業はもう仕事を終えているだろうし……」
「今の時期とは、どういうことですか?」
「んー。暑い時期になってくると鍛冶職人みたいな火を使う人は、昼に働くのが嫌だし、朝早くから仕事をすると思う。あとは城壁を造っている人とかも、朝と夕方に働くんじゃないかな。私がここに来る前に住んでいたところはそうだったし、気にしてなかったけどここもそうだったと思う。あとは漁師なんかも時期によっては、漁をする時間帯が違うみたいね。で、いつ何をしたらいいのか知りたいときに、太陽が何処から昇ってくるか知っておくと便利なのよ。聞いたこともないけど、もしかしたらジャンも太陽が昇る場所や沈む場所を見て季節を知って、漁に出る時間を変えているのかも」
「そうなんですね。都市では鐘が鳴ったらみんな一斉に仕事を始めるのだと思っていました」
「ないない。大抵の人はまだ寝てるよ。私達が水を汲み終えて帰った頃に起きて、陽の当たるところで体についた蚤を家族にとってもらいながら、会話をして団らんの時を過ごすの」
「そうなんですか」
「そういうもんよ。さあ、豚ちゃんはみんな外に行きました。私達が見守る必要、なかったね。遅れがちな豚は犬がしっかり追い立ててた」
「はい。凄いです。とても賢い犬です」
「さ、行こっか」
「はい」
二人がアラン犬の尻尾を追いかけて行列の最後につくと、兵士が声を掛けてくる。
「水汲みだな? 最近狼が出るから気をつけるように。今日から開門中は川に兵士が交代で常駐することになったから、何かあったら頼るように」
「分かりました」
「はい」
エリザベートとヴァンは兵士に頭を下げる。
二人は城門を出て跳ね橋を渡る。橋の下は水堀になっている。アイガ・モルタスでは東側と南側の城壁が建造途中のため、堀は水を溜めない方が良いのだが、地下水が染み出てしまったのだ。人の膝くらいまでの水深がある。
荷馬車の轍が深く刻まれた道の左右にはオリーブの木が並び、その奥に楡の木が当て木にされた葡萄の木が連なり、生け垣を形成している。その向こうに木々の隙間から畑が見える。
「こうやって豚が荒らさないようにしているんですね。昨日は見ている余裕がなくて、気づけませんでした」
「え? 何が?」
「畑です」
「どういうこと?」
「これが葡萄の木だから、手前のがリュシアン様の仰っていたオリーブという木だと思います。奥がキャベツや蕪やタマネギの畑になっていて、そこに豚の意識が向かないようにしているんだと思います。生け垣の足下に生えているのはサンザシです。棘がある低木なので、豚も近づきたくないと思います」
「へえ。なるほど。面白いね。うん。きっとそうよ。ヴァン、よく気づいたね。偉い」
「あ、ありがとうございます。えへへ……」
やがて、野菜畑の向こうに緑色の小麦畑が広がり、農家の建物がぽつぽつと見え始める。農家は家畜とともに都市の外に住むが、有事の際は城壁内に避難する。攻め手側から見た場合、城塞都市周辺の農家は最優先で攻める対象だ。何故なら、農家は籠城のための食糧を生産するからだ。そのため都市は農家を見捨てずに保護するし、可能な限り城壁の上から矢の届く範囲に畑を配置して護れるようにする。
道はやがて松林に達し、豚の行列は右手に曲がっていく。アズがハンドベルを鳴らすと大半の豚がついていき、遅れるものは最後尾のアラン犬がしっかりと追い立てた。
エリザベートとヴァンは直進して林の中に作られた道を進む。この道は都市の人々が通るため踏み固められており、地肌が剥きだしになっている。湿度が低く温暖な地域に林は位置するため、地中から迫りだした松の根にキノコや苔は生えておらず、周囲に下生えの草は少なく整然としている。
林道は湿った苔が漏らす悪臭もなく、木漏れ日が心地よい。狼騒動がなければゆっくりと歩きたいところだが、エリザベートは普段より早歩きをした。
やがて幅四杖ほどの川に到着する。そこが水汲み場だ。
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