第四章 アイガ・モルタスでの生活

第22話 同居初日の朝。パンが無い……

 翌朝、エリザベートは普段のように、陽が昇りきる前に敬虔な鶏達に起こしてもらった。

 隣室の窓ガラスと羊皮紙を透過して、黄みがかった朝陽がこっそりと寝室へ這い入ろうとしている。


「うー……。今日も鶏達の朝のお祈りが始まった……。修道士よりも敬虔な汝等に祝福あれ……」


「おはようございます。エリザベートさん」


「……ッ!」


 エリザベートは跳ねるように上半身を起こし、傍らを見る。


「あ……あー。一気に目が醒めた。昨日からここで暮らすことになったヴァンね。不審者かと思った……」


「ご、ごめんなさい」


「こっちこそごめん。おはよう。下に行って朝食にしましょう」


「はい」


 服を着ると、エリザベートとヴァンは日の出の位置を確認し、梯子をかけて下りた。

 エリザベートは中庭側の部屋に入り、半地下の板を外す。


「あ……。パン、ないんだった……」


「ごめんなさい。昨日、ボクが食べたからですよね」


「あーいや、確かにヴァンが食べたから今ここにパンはないんだけど、あのあと買い足さなかった私のミスだ……。忘れずにあとで買いに行かないと。とりあえず、今朝はお隣さんから分けてもらおっか」


「本当にごめんなさい」


「気にしない、気にしない。ドナン・ドナン(ギブアンドテイク)だし。それに今日はさ――」


 エリザベートはヴァンに微笑みかけてから店舗出入り口まで移動すると、蝶番の紐を解き、閂を外し、ドアを開ける。

 そこには先日会った漁師のジャンが立っていた。


「おはよう。ジャン」


「おはよう。小さなエリザベート嬢。よく分かったな」


「大きな図体が窓の向こうを通るのが見えたからね」


「ほら。我らの君主に臣下からの献上品だ」


「ありがとう。漁師ジャンの献身に祝福を」


 ジャンが手にする錫製のバケツには魚介類が入っていた。スズキ、タイ、シャコ……いずれもアイガ・モルタス近海で獲れるものだ。


「昨晩は大量だったようね。ほら。ヴァン。髭もじゃ漁師達からの貢ぎ物よ。ん? どうしたの? 顔色変よ。魚介類は苦手?」


「魚介類? なんなんですか、これ……」


「あー。君、魚を見たことないのか。山育ち?」


「は、はい……」


「なんだ、嬢ちゃん。魚を知らないのか」


 何気ない一言だが、ジャンはヴァンが女だと気づいていることが分かった。

 エリザベートは慌てずに「彼は男よ」と訂正する。


「そうか。なんでそんなことにしてんだ?」


 重ねた嘘も通じない。エリザベートはジャンを室内に招いて、ドアを閉めてから尋ねる。


「ねえ。どうしてヴァンが女だって分かったの?」


「どうしても何も、声も見た目も匂いも女だろう」


「男の子でも声変わり前ならこんなものでしょ。それにあんたは鼻が利きすぎ。見た目は何処が女みたいなの? 私は気づかなかったけど……」


「ひょろすぎるのはまあ誤魔化せるかもしれんが、問題は立ち方と歩き方だ」


「立ち方と歩き方?」


「ああ。嬢ちゃん等は分からんと思うがなあ。男は股にぶら下がってるものがあるから、女みたいに股を閉じて歩けないんだ。男のフリをしなきゃならん事情があるなら、二つほど胡桃でも股の下にぶら下げたらどうだ」


「下品なこと言わないで。……でも、確かにそうね。ヴァンとジャンの何処が違うかって言ったら見た目もそうだけど、態度か……。ううっ。でも、ヴァンの中身がこんなおっさんになったら、やだー」


 ――とエリザベートが懊悩していると、ジャンはしゃがみこんでヴァンにバケツの中身を説明し始めた。


「これは海にいる生き物だ。小さかったり傷がついたりして魚屋に卸せなかったやつらだ。これがスズキ。焼いて食うと美味い。こっちはタイ。これも焼いて食うと美味い。こっちのはシャコという海老みたいな生き物だ。これも焼いて食うと美味い」


「海で獲れるものは全部、焼いて食べると美味しいんですね」


「そうだ。海の生き物は塩水をたっぷり飲んでるからな。美味いものばかりだ。だが、触ると痺れたり、毒を持っていたりするやつもいる。だから、迂闊には海に近づくな。毒を喰らっちまうと、こうやって定期的に献上するハメになる」


「私は要求していないでしょ。治療したお礼と善意で持ってきてくれているんじゃないの?」


「はっはっはっ。恩を売っておけば、また怪我をしたときにすっ飛んできてくれるだろう」


「じゃあ、あんた達も私達が狼に襲われていたら、すっ飛んできなさい」


「畏まりました。我が主よ。そのときは空を飛ぶ馬を寄越してくださいよ。がっはっはっ。それじゃあ、俺は帰って寝る」


「ん。お魚、ありがとね。次は髭を剃りに来なさい。ツルッツルにしてあげるから」


「ジャンさん。ありがとうございました」


 二人はドアの外に出てジャンを見送る。彼は股間にぶら下がった物が邪魔だとでも言いたげに、がに股で去っていく。


「男らしい歩き方ですね」


「おっさん臭いとも言うわ。さて。お隣さんに行きましょう」


 エリザベートはジャンが置いていったバケツを手にする。


「これをお隣さんにあげると、美味しくなってお夕飯になります。ただ、ごくまれに……いいえ、けっこう頻繁に、かつて一度も味わったことのないような不思議な風味にはなりますが……。今回は色んな魚介類があるからブイヤベースかな。食べたことないでしょ。楽しみにしてて」


 二人は笑いあい、隣家を訪ねてギュスターヴにバケツを渡す。代わりに当初の予定どおり、パンを貰った。

 パンには溶かしたチーズが乗っていて、上に蜂蜜が塗ってある。さらに、何かしらの香辛料も振りかけられているようだ。

 ヴァンにとっては人生で最も美味しいパンだった。

 エリザベートも「こんなにも美味しいパンなんていつ以来かしら」と口の中で舌が喜ぶのを感じた。

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