1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~
第21話 隣人の薬剤師ジュールがヴァンの未来を占う
第21話 隣人の薬剤師ジュールがヴァンの未来を占う
肉屋と別れたあとに何度か狼の遠吠えを聞いたが、都市内に異常はなかった。
ギュイ親方の店の近くまで戻ったところで解散となり、エリザベートとヴァンは家に帰った。
「戸締まりの仕方はこう」
エリザベートは閂を掛け、蝶番を皮の紐で結ぶ手順をヴァンに教えた。
「お風呂に入っておけば良かったね……」
「お風呂?」
「ん。ここは公衆衛生に気を遣っていたことで有名なルイ九世が十字軍の拠点に使っていた都市だからね。その影響があるのか、公衆浴場があるのよ。しかも、週に一回誰でも無料。もう少し早ければ使えたんだけどね」
「あの。でもそれだと。ボクが女だと知られてしまいます」
「あ。そっか……。しょうがないから当分の間は水で体を洗いましょ」
エリザベートは水瓶から桶に水を一杯汲み、中庭に出る。
すると、中庭の中央に先客がいた。
左の隣人、薬剤師のジュール・ノートルダムだ。三十歳前後の男で、常に目を細めている理由を「太陽を見すぎた」と嘯いている。彼もまた、右隣のギュスターヴと同じく変人だ。
「今晩は。星読みの先生ジュールさん」
「やあ、今晩は。我が弟子エリザベート、そして、ヴァン。夜警のお帰りかな。狼の声が聞こえたね」
「ええ。でも多分、川の向こうよ。ここは安全だと思う。それはそうと、星はどう?」
「ああ。なかなか良い配置だ。おかげで明日は仕事が捗りそうだ」
天体や星座の位置は人体に影響を与えるため、夜空を読めば病気の治療法や原因が分かるとされている。また、天体の位置によって作成する薬の品質が変わってくる。そのため、医師や薬剤師には占星術を扱う者がいる。
エリザベートはジュールに習って、簡単に星を読むことができる。しかし、彼は未来に起こりうることまで、星から読みとるという。彼の占星術の技は子から孫へと受け継がれていき、やがて子孫の中から、歴史上で最も偉大な予言者が現れるそうだ。
「ヴァン。お近づきの印に、君の未来を見てあげよう。こちらに来なさい」
「は、はい」
「ふむ。ふむ……。瞳に映る星空は……。なるほど……」
ジュールはつま先が触れあうほど近くから、ヴァンの顔を覗きこむ。
「えっと……」
「ジュールさーん。女の子の顔を間近で見つめすぎー」
エリザベートが諦観のこもった苦情を口にするが、ジュールは様々な角度からヴァンの顔を窺う。
エリザベートはそんな彼の様子に呆れながら、ヴァンに同情の視線を向ける。
「私のときもこうだった。諦めて」
「はい……」
「なるほど。なるほど。ヴァン。君はなかなか良い星の下に生まれているようだ。エリザベートやギュスターヴにも負けず劣らずだ」
ジュールは一歩下がって、今度はヴァンの頭からつま先まで、前から後ろから観察する。
「天体や星座の位置と人体は密接な関係があるの。だからジュールは、今日の夜空とヴァンの体を見比べて、占ってくれているの」
「そうなんですか」
ジュールは四角く切り取られた空を見上げ「ふむふむ……」と呟く。何度も空とヴァンを見比べ、最後に「うむ」と大きく頷いた。
「君に隠せることはない。だが安堵せよ。君の秘密を知る者は、君の窮地に救い手とならん。人に飼われた獣が仲間を呼び、壁は崩壊し繁栄の扉を開く」
「それはどういう意味でしょうか。難しくて分かりません」
「星詠みの予言とは、そういうものさ。紡がれた、詩のような言葉の中から意味を見いだすのは君自身だ」
「人に飼われた獣とは、羊や牛でしょうか。それに、壁が壊れたら狼が入ってきます……」
「なあに、安心しなさい。壁といってもアイガ・モルタスの城壁とは限らない。心の壁が取り払われて君とエリザベートの絆が強くなるという解釈もできる。最初に言ったように、君は良い星の下に生まれている」
「はい」
「ねえ、ジュールさん。久しぶりに私のことも占って。ヴァンの占い結果の壁が、私達の心の壁だとしたら、私も同じような結果になるでしょ?」
「君はいつ見ても幸運の星が頭上に輝いているから安心しなさい。時間切れだ。鐘が鳴る。ほら」
ジュールが夜空を見上げると、都市に暗幕を垂らすように、優しい音色が頭上から聞こえてきた。終鐘だ。
日中は自身の足下に伸びる影の長さで、夜間は星の位置で、ジュールは分単位で時間を知ることができる。そのため、彼は鐘が鳴る寸前だと分かったのだ。
「私は邪魔してしまったようだね。お先に失礼するよ」
ジュールは家に入った。
彼の姿を見送ってから、エリザベートはヴァンに一歩近寄って囁く。
「私が先に洗っていい? ヴァンは昼に一度洗っているし、水が足りなくなっても困らないでしょ?」
「もちろんです」
エリザベートは服と下着を脱ぎ体を洗った。体に付いている見えない何かが病気の原因と教わった彼女は、毎日体を清潔にしている。今日からは徒弟がいるので背中も今まで以上に清潔になる。
「ヴァン。交代」
「はい」
「じゃ、じっとしててね。夜だから水が冷たくても声を出さないように。人も豚も鶏も寝ているからね。静かに」
「はい」
エリザベートは手ぬぐいでヴァンの背中を拭く。
「明日は髪を切ろっか。というか、明るいうちに切っておけば良かったね。ごめんね」
「あ、あの……」
「ん?」
「お金、ありません……」
「家族から取らないって。それよりも、そのうちヴァンにもいい下着を買ってあげるからね。はい。終わり。ちょっとそのまま」
「はい」
エリザベートはヴァンと夜空を見比べる。外科医のエリザベートは手術の成功しやすい日を知るために、薬剤師のジュールから占星術を習っている。知識と経験では彼に遠く及ばないが、ヴァンと同性のエリザベートは彼女の裸を夜空と見比べて占えるという利点がある。
エリザベートは星に対応づけてヴァンの頭の向きや腕の角度を変えさせる。それから、ジュールの教えを思いだしながら、彼女の全身をくまなく観察する
(頭部を象徴するアリエス座が陰っている。決断が求められる。肺を司るジェミニ座が低くて暗い。交流が求められる。……違う。交流を妨げる壁の崩壊を暗示しているのか……。力強さを象徴するトーラス座が輝きを増せば、繁栄の兆しだけど……。なるほど。確かに、ジュールさんが壁の崩壊と繁栄という占い結果を告げたのも分かる。けど、壁が壊れたら狼が侵入してくるのに、繁栄?)
「あの……。あまり近くでジロジロ見られると、恥ずかしいです……」
「あ。ごめん」
エリザベートは天体とヴァンの体を見比べることに熱中するあまり、同性とはいえ距離感を誤っていた。
「私の方が詳細にヴァンを観察できるけど、ジュールさんの知識と経験には勝てないや……。時間を取らせてごめんね」
エリザベートは中庭の隅に置いてあった陶器の鉢を拾い、残っていた水を捨てる。桶に余った最後の水を鉢に入れて元の位置に戻した。中庭で飼っている豚用の飲み水だ。
「じゃ、寝よっか。貴重品を二階に上げるから覚えておいて」
エリザベートは忍び足で職場に入り、鏡とハサミと瀉血ナイフを回収した。
「これが寝る前に二階へ持っていく貴重品です。あと、これ」
胸元に掛けた紐を引き、印章をヴァンに見せる。
「これが、私とヴァンと家の次に大事な物です。絶対になくすわけにはいかないの。もし私が死んだら、司祭様を呼ぶよりも先にこれを叩き割ってね」
「し、死なないでください!」
「こらこら。声が大きい。大丈夫。死なないって。もしもの話だから。とにかく、公証人の印章は絶対に、他人に渡せない物なの」
二人は二階に上がり貴重品をチェストにしまう。
「じゃ、もう降りる用はなし」
「はい」
「梯子を上げるね」
防犯のため、壁に掛けてあった梯子を二階に上げて収納した。
降水量が少なく温暖な地域に位置するアイガ・モルタスでは、葦葺きの屋根は通気性も良く快適だ。二階も一階と同じ間取りで二部屋あり、エリザベートは路地側を物置、中庭側を寝室として使っている。
寝室は窓がないため月明かりすら射しこまないが、寝床しかないので暗くても体を何処かにぶつけることはない。寝床は木の枠に葦を詰めて上からシーツを掛けたものだ。
「こっちは私が毎日寝ている場所だし、ヴァンはそっちでいい?」
エリザベートの寝床の横に、ただ葦を置いてシーツを掛けただけの場所がある。葦は使い込まれていないので固さが残っており、多少寝づらい。
「はい」
「掛け布団、使う? 私は暑いから使わないけど、隣の部屋にあるから、寒かったら使ってね」
「はい。ボクも大丈夫です」
皺が付くといけないので服を脱いで壁の鈎に掛け、それぞれの寝床に転がった。
しばらく時間が経った。
隣で身じろぎする音が聞こえたから、エリザベートは尋ねる。
「初めての場所だと眠れない?」
「いえ……。別にここが嫌なわけではなく……」
「知らないことばかりのところに来ちゃって不安なんでしょ。寝付くまでお話ししてあげる」
「はい」
「じゃあ、身の上話はもう少し仲良くなってからってことにして、先ずはアイガ・モルタスのお話してあげる。うちは一人で暮らしているから二階の路地側を荷物置き場にしちゃっているけど、多くの家ではご隠居さんの居室にしているかな。奥側の部屋は現役世代の寝室ね。一階は何処も労働世代が働く職場や商店。うちにはないんだけど、竈は一階に据えられるよ。重いから二階には置けないし石壁と土間の一階なら火事にもなりにくいしね。だから、寝室や居間が二階に設置されるのは合理的でしょ。この家の元々の持ち主だったアンリさんが亡くってからは贅沢にも私が一人で暮らしているけど、これくらいの家ならだいたい八人は暮らすかなあ。寝た?」
返事はない。耳を澄ませば穏やかな寝息が聞こえる。
エリザベートが長話をしている間にヴァンは眠りについたようだ。
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