1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~
第14話 エリザベートはヴァンにワインを振る舞う
第14話 エリザベートはヴァンにワインを振る舞う
戸を閉めると街の喧騒が遠ざかる。
あらゆる出入り口のドアがそうであるように、エリザベートの家も出入り口ドアは内開きである。蝶番が外側にあれば盗人や暴漢に壊されて侵入されるため、防犯上の理由から都市内のドアはすべて内開きである。
思い詰めていたものを吐き出すように、ヴァンが口を開く。
「あのっ。どうして、ヴァンなんですか?」
「貴方を助けたときに、気持ちいい
エリザベートは頭巾を外すと、腰を折って頭を下げた。
「勝手に名前をつけて私の知り合いってことにして、あと、なし崩し的にうちの従業員にしちゃって、本当にごめん!」
「か、顔を上げてください」
「行くあて、あった?」
「い、いえ、ここに知り合いは誰もいません。あの。本当に顔を上げてください。お礼を言うのはこちらです」
「そう? 本当に迷惑をかけてない?」
「もちろんです。行くあてがなくて困っていたので、感謝しています。ですから頭を下げないでください」
「ん」
真摯な声音を聞いてエリザベートは顔を上げた。胸の前に垂れていた髪を背中にまわす。
「働いてくれるならいつまででもいてくれていいから、遠慮しないでね? この家に来た以上はヴァンもトゥールーズ家の一員だから」
「トゥールーズ?」
「うん。この家の元々の持ち主のアンリさんがトゥールーズ出身なの。だからここはトゥールーズ家。お店の名前も、トゥールーズ理髪外科医院だから。椅子に座って待ってて」
エリザベートはレースの飾り布を棚から取って髪に巻くと隣室に移動し、半地下の倉庫からワインの壺を取って木のカップに注いだ。錫の小瓶に入ったローズマリーの乾燥粉末を少し加える。以前、隣人ギュスターヴがそうしてくれたのを気に入ったから彼女も真似している。
店舗の部屋に戻ってくると、汲み置きの水で薄める。
「はい、どうぞ。狼に追われて、しかもたくさんパンを食べたから喉が渇いているでしょ」
「ありがとうございます」
ヴァンは恐る恐るカップに口をつける。
「不思議な味です……」
「ん。疲れた顔しているから、ローズマリーを乾燥させた粉末を入れてあげたの。舌に合わない?」
「あ、いえ、あまりワインを飲んだことがなくて」
「そっか。この家にいる間は可能な限り健康にいいものを食べさせてあげる」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。……そっか、ヴァンは女に頭を下げてお礼を言えるのね」
「変ですか?」
「外じゃ変って言われるだろうけど、私は大歓迎」
昨今の聖書解釈によれば女性は男性よりも劣る存在であり、また女性はアダムとイヴの罪における堕落の象徴であり、男性が指導しなければならないものとされている。そのため、社会的な地位は低い。
また、腕力に優れる男の方が社会で重要な役割に就くことが多く、社会的地位が高い。一方で、腕力がものを言うということは実力主義社会であることを意味しており、女性でも能力があれば一定の尊敬を得られ、社会的役割を与えられる。
エリザベートがまさにそれで、幸運が味方したとはいえ、女でありながら城塞都市の一等地に店を構えるに至った。
彼女は西にある大都市モンペリエの医学校で学んだときも、アイガ・モルタスで理髪店を引き継いだときも『女のくせに』と言われ続けた。それに反発して努力したからこそ現在があると自負している。
実力で周囲の男を黙らせてきたエリザベートは、妙に気弱そうにして下手に出てくるヴァンについて、性差を理由にして横柄な態度をとってこないことを気に入った。
「美味しいでしょ? お隣さんの受け売りなんだけどね、この辺りの地面は石灰岩が多いし、空気が暖かいから質の良い葡萄がよく育つそうよ。だからワインは小さな瓶に一杯で一ドゥニエとお安いことです。私が一週間かけて食べるパンが二ドゥニエ。私が理髪で貰うお金は四ドゥニエ。貨幣の価値はそのうち教えるとして、とりあえず遠慮は要らないから、舐めるように飲まなくても、ぐいっといっていいよ」
「わ、分かりました。で、でも舌がピリピリして不思議な感じで……」
「舌がお子ちゃますぎる……。あと、小声の丁寧口調がこそばゆい……」
「すみません」
「ん。横柄な男よりはマシよ。唐突な出会いだけど、わりと良縁かもって思えるし。ただまあ、家族なんだから遠慮はしないでね」
「家族……」
口にしてみても、家族になる実感のない二人はとりあえず無言になる。
(さて。一段落した。けど、今日は忙しくなる。次はヴァンがここで暮らす準備か。服と靴はアンリさんが遺した物を使ってもらうとして、下着は二着くらい買ってあげないと)
エリザベートは「そこにいてね」と言い残し、隣室から中庭に出て二階へ上がった。
路地側の部屋に行き、チェストの中からアンリの服を取りだし、床に置いてある物々交換用の羊毛を一束取る。服屋で羊毛による支払いが断られることは、ほぼない。
エリザベートが一階に戻ると、ヴァンは舌先で少しずつワインを舐めていて、まだカップの中に半分以上残っていた。
「ちょっと買い物してくるから、ヴァンは待ってて。この部屋は仕事で使う刃物があって危ないから触らないで。隣の部屋も大事な書類がたくさんあるから触らないでね」
「はい。絶対に何も触りません」
「もし客が来たら『親方は外出中だから少し待ってください』って言っておいて。近所の人が来たら『今日からここで働く徒弟です』って名乗っておいて。暇だったら中庭で遊んでいてもいいわよ」
「分かりました」
ヴァンは大役を任された気になったのか、勇ましく立ちあがり背筋を伸ばす。その仕草は、留守番をしたことがないと言っているかのように思える。
苦笑を隠せないエリザベートはヴァンの前に立ち、鼻先が触れそうになるほど顔を近づける。
「挨拶のキスは、君のことを好きになってからね」
エリザベートはヴァンの上半身を両腕で抱き、軽く頬で触れあう。
「じゃあね。行ってきます」
友好関係を築いていく意志があるのなら、ハグは初対面の相手にもするごく一般的な挨拶だ。
体を離したエリザベートは予想どおりヴァンが顔を赤くしているのに満足した。ヴァンは「いってらっしゃい」を言う余裕すらないようだ。
「留守番よろしくねー」
エリザベートは頭巾を被ると、足取りも軽く家を出た。
ティレル婦人が家の前に腰掛けて編み物をしていたので、エリザベートはヴァンのことを教えておこうと近づいた。すると、婦人が先に口を開く。
「あら、まあ。随分と嬉しそうね。なにか凄く良いことがあったみたい」
「え? あはは。なんにも」
ヴァンのことを言いにくくなってしまった。同居人が増えたから、そんなに嬉しそうなのね、と言われようなものなら照れくさいにも程がある。
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